富士総合研究所 『ミーム』所収 
『帝国』書評

茂木健一郎

書評 アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著、水島一憲他訳 以文社

 私が、『帝国』という本の存在を最初に知ったのは、現代思想の東浩紀さんと社会学の大澤真幸さんが「いよいよ翻訳が出るらしい」と熱心に噂をしているのを聞いた時だった。その時点では、グローバリズムに関する本なのか、という程度の印象しかなかったが、あの二人が気にしている本ならば、と私も気になり始めたのである。
 著者のネグリ及びハートは、「ネオ・マルキシズム」と評されるグループに属する、と一般には評価されているらしい。となると、すぐに連想されるのは反グローバリズム運動であるが、本書は、ある特定の立場に立ったプロパガンダというような単純な本ではない。本書は、むしろ、ヨーロッパの政治哲学の伝統に依拠しつつ、今日の地球社会を覆いつつある「帝国」ーー固定された境界を持たず、地域的な制約にも束縛されずに全てを包み込もうとする巨大なシステムーーの本質を明らかにしようというアカデミックな試みである。「帝国」の抑圧的な作用に対する多様な「マルチチュード」(様々な立場、文脈で束ねられた民衆)の対抗運動に未来への希望を託す、というのが本書の主張であると思われるが、記述は、あくまでも学問的で控えめである。
 私にとって意外だったのは、本書の中に、インターネットに代表される急速に発達する現代の情報技術に対する直接の言及があまりないということであった。携帯電話によるメールの交換は、現在は、渋谷の高校生同士など、地域や文化的背景を共通にするコミュニティの中でだけ行われているが、そのうち世界規模で行われるようになるに違いない。すでに、中国系の人々の一部では世界中に散らばっている家族同士でケイタイのメイル交換をする習慣が定着しているという。東京の若者がキューバの若者とサルサ音楽についてケイタイでメイル交換をする、それどころか、身の回りの様々なものが次世代インターネットのプロトコルであるIPv6で結ばれ、人間が必ずしも介在しないで情報を交換する日が来た時、そこにどのような世界が出現するのかーーそのような未来の可能性に対する感受性が、本書においては希薄であるように思われた。
 一方、私たちが普段眼にするようなグローバル化した情報ネットワーク社会に関する評論には、ネグリたちが気にしている政治的な考察が欠落しているということも事実である。ITは、必ずしも、人間の欲望、愛、憎しみの基本的あり方を変えるわけではない。私たち人間の社会が、最終的には法的強制力に裏付けられた規範意識によって支えられていることは、地球を情報ネットワークが覆うグローバル化した世界でも変わらない。
 インターネットによって、確かに世界は一つにつながりつつある。私自身、日本のアマゾンでDVDを買う枚数よりも、イギリスのアマゾンで買う枚数の方が多い。メッセンジャーを用いてチャットをする相手が、東京にいようと、ボストンにいようと、体感的には全く変わらない。私という個人の生活の中にも姿を現わしつつある新しい世界は、一体人類に何をもたらすのだろうか? この根本問題の解明のためには、人類の築き上げてきた様々な知の領域の間で「虹の連帯」を組む必要があると思われる。しかし、本書が書かれ、受容された社会的コンテクストを観察する限り、残念ながら現時点ではそのような社会的創発は成功していないようだ。おそらく、ITのフロンティアにいる人たちにとっては、本書で言及されるヘゲモニーやコロニアリズム、搾取といった概念は古くさく感じられるだろう。一方で、本書を違和感なく読めるような、政治哲学のバックグラウンドを持つ人にとっては、全てはITで解決し、ブロードバンド・インターネットが新世界を作るという楽観的な未来像はあまりにもナイーヴなもののように思われるだろう。
 ITには、従来の社会規範の線形的な延長では予想できないような変化をもたらす潜在的可能性がある。一方で、人類の規範意識は、そう急速に変わるわけではない。だからこそ、現代におけるITと政治の呉越同舟の中に、展開しつつある事態を理解するための新パラダイムの芽を見い出すべきなのだと私は考える。
 ネグリとハートの努力は賞賛に値するが、「帝国」は、グローバル化する地球社会における「資本論」にも「国富論」にもなり得ていない。だからこそ、重大な欠落に気づかせてくれた本として、多くの人の記憶に残ることになるかもしれない。私たちが今切実に必要としているのは、分断化されてしまった知を統合して、私たちの周りで姿を現しつつある新たな世界を理解する視点を提供してくれる一冊の書物である。もっとも、そのような書物は、一人の天才によって生み出されるのではなく、インターネット上に「マルチチュード」によって書き込まれる様々なテクストの間から生まれてくることになるのかもしれない。