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心脳問題Request For Comments 

Mind-Brain Request For Comments

 

心脳問題RFC#9 蛭川立 『性・死・快楽の起源:進化心理学からみた<私>』

Multiple Book Reviews & Response

 

Issued on 28th December 1999

 

蛭川立

『性・死・快楽の起源:進化心理学からみた<私>』

福村出版 1999年

本書の要約は、

心脳問題Request For Comments  #6

http://www.qualia-manifesto.com/rfc/rfc6.html

として出版されました。

 

第一部 

複数の著者による書評 Multiple Book Review

 

書評1 浜田浩

書評2 茂木健一郎

書評3 羽尻公一郎

書評4 石村源生

書評5 境界人

書評6 金沢創

書評7 細馬宏通

書評8 野原san

-----------------

第二部

Multiple Book Reviewに対するResponse  蛭川立

 

 

======第一部======

 

 

複数の著者による書評 Multiple Book Review

 

<書評1>

 

by 浜田 浩

mail : hiro9619@bc.mbn.or.jp

URL : http://plaza23.mbn.or.jp/~hiro4/index.html

 

『性・死・快楽の起源』書評(の、つもり)

 

--------------以下、本文--------------

 

       或る日の日記から

 

×月×日 ライフスペースという団体が巷をにぎわせている。

ホテルで発見された、ミイラ化した死体。治癒を信じて看病

していたという家族。いかにも世紀末にふさわしい事件。

 

絵に描いたようなカルト集団である。代表の高橋何某という

老人も、限りなく胡散臭い。しかし・・・と僕は思う。現代に

於ける徹底した死の禁忌・隠蔽が、必然的にこのような事件を

生じさせたということを。

 

ミイラを指して「まだ生きている」と強弁する「あの家族」の異常さ。

しかし、マスコミや現代医学があやなす言説空間に間借りさせて

もらっている僕らとて、実際に死体を観たことなど、ほとんどない。

死に関する強度(インテンシティ)の頼り無さを思えば、だから、

僕らも、たいしたことは云えないような気がする。僕らはただ、

多数派の側に居るというだけだ。

 

唯物論と唯心論。このような分立にはあまり意味はないのだけれど、

ゆきすぎた唯物論的風潮を中和させるために、あえて唯心論的な

見方をぶつけてみるならば、心とは、たとえば言語がそうであるように、

人(や物)と人(や物)との「あいだ」に生じるのであって、

脳そのものには存在しない。小林さんの家族にとって小林さんが

生きている(と思う、考える、感じる・・・)のならば、やはり

小林さんは生きていたのだ。たとえその見解(定説!)が、きわめて

非科学的なものであろうと。科学はひとつの尺度にすぎない・・・。

 

さて、そんなことを徒然に考えてしまうのは、たぶん昨日読み終えた

ばかりの、蛭川立著『性・死・快楽の起源』が影響しているのかも

しれない。本書には、性と死をめぐる様々な理論・学説が幅広く語られ

ており、今世紀の主要な言説が俯瞰的に要領よく描き出されている。

(もっとも、見取図はときとして呪縛でもある)。

 

本書を注意深く、かつ批判的に読み込んでいけばその先は、きっと

21世紀へとつながっている。その意味で、本書はまことに大いなる助走

であり、序章であろう。今後どのような展開を見せてくれるのか。

はやく次を読みたい。

 

<書評2> 

by 茂木健一郎

kenmogi@csl.sony.co.jp

 

「人間とは何か?」

 

 人間とは何か?

 この問いの重要さを認めない人はいないだろう。非常に複雑な問題であることを

認めない人もいない。しかし、我々は、ある特定の方法論に夢中になってしまうこ

とによって、「人間とは何か?」という問いの内包する複雑さを忘れてしまうこと

がしばしばある。

 この本の著者は、人類学者/心理学者である。しかし、この本は、人類学、心理

学の方法論によって人間を割り切ってしまおうという本ではない。また、方法論

が、人類学、心理学に限られているわけでもない。様々な方法論を駆使しつつも、

それらにとらわれることなく、著者は自分の「生きざま」をかけて「人間とは何

か?」という問いの複雑さ、難しさに向き合っている。そのことは、本書に書か

れていることと同じくらい、書かれていないことからもわかる。

 この本の魅力の一つは、展開される様々なメタファーの力である。

 例えば、ドラッグ・メタファーを通して、人間が語られる。ドラッグには、ア

ッパーとダウナー、サイケデリックスの3種類があり、それぞれ、人間が得る快

楽、幻覚の性質が違う。アッパーはどこまで追究しても充足されない快楽を生み、

ダウナーは、「今、ここ」を肯定する方向に心を導く。恋愛や、真理の探求、あ

るいはイデオロギー、宗教的感情など、我々が単なるドラッグ・アディクション

と区別する「あるものに固執する」という人間の精神の働きの背後にも、ドラッ

グと類似の神経伝達物質の作用があるのかもしれない。もちろん、神経伝達物質

の化学構造式に、我々の精神性の秘密が宿っているわけではない。しかし、我々

の心の中に時々あらわれる求道的精神の背後にドラッグ・アディクションと類似

の神経メカニズムが潜んでいないかを考慮することは、人間とは何かを考える上

で、ぜひとも必要な作業であることは間違いない。

 進化心理学は、人間の心の様々な働きが、人間が社会的な生物であるという拘

束条件とどのように整合的に進化してきたかを明らかにする。例えば、父系社会

であるか、母系社会であるかが、その社会の社会経済的発展の様式に影響を与え

る。そして、父系社会であるか、母系社会であるかということは、その社会の中

の生殖行動の様相と相関がある。そして、人間の場合、この生殖行動に、恋愛な

どの物語が張り付けられる。ここでは、「生」と「死」、そして「快楽」(の先

延ばし)が、規定的な要素として絡んでくる。もちろん、恋愛の真っ最中の人間

にとって、そんなことは知ったことではない。ただ、恋愛という感情、物語の背

後に、ある種の遺伝的、社会的に規定されるメカニズムがあるということは、人

間を知る上で欠かせない。

 神経メカニズムや進化心理学から人間を解釈することは、しかし、どこか微妙

な点において、「人間とは何か」という問題の本質に、到達しきれないのかもし

れない。著者は、そのことも判っている。教科書にもなるくらい、幅広い分野の

成果をバランス良く紹介しながら、本書は、微妙なところでバランスを崩しかけ

ている。バランスを崩しかけながらしかし崩さない、ここに、著者の志の高さを

感じる。

 もし、続編が出版されるならば(おそらく出版されるだろうが)私は、バラン

スを崩して何かにのめり込んでしまった著者の内面も覗いてみたい。バランスを

保ち続けながら手際よくまとめるのは、知性である。何かにのめり込むのは、知

性とは違った資質である。私は、著者にはその資質があると感じる。作家の瀬戸

内寂聴は、出家する際に、底知れぬ深い暗闇に身を投げ出すような感覚を持った

という。著者にもそんな瞬間があったはずだ。その瞬間を既存の学問の言葉では

なく、自分自身の、到達力のある言葉で表現することに成功すれば、それはとて

つもない本となろう。 

 

<書評3> 

by 羽尻公一郎

khajiri@csl.sony.co.jp

 

「痒いところに手が届く」。こうでありたい。なかにはこうであるべきであると

主張する人もいる。科学について論じる時には特にこの色合いが強くなる。しか

し、である。全てが崩壊し、再構築の必要性があるとも論じられている。そし

て、そう言い出されたのは最近ではない。しかし、である。しかし、その”再構

築”は遅々として進まない。そこには、科学を生み出した人間の認知特性という

障壁があるからである。少なくとも私はそう思う。そして、人間の認知特性その

ものを題材とする科学は、常に危険が伴う。刃の上を歩くような危うさである。

意識や人間の起源や主観性などについて論じることは、斯様に危険なのである。

しかし、我々は蛮勇をふるってそこを歩まねばならない。本書は著者の集めた情

報と、著者自身の研究と、著者自身の考察が記されている。そして、変性意識や

生物学的に見た婚姻などの社会制度や、ミームと人類の共進化などについて触れ

る。しかし、何かが足りない。それは、著者自身があまりに健全に対象と距離を

置いているからだ、と、読み進むうちに分かった。なので、この本は健全な立場

からの危険への接近という矛盾を孕んでおり、「痒いところにノミ放し飼い」な

のである。ただし、読む価値は十二分にある。先に述べたように、科学が接近す

るにはあまりに危険な、しかし重要な問題を掘り下げ、かつ包括的に見渡した者

は少ないからである。しかし、望むならば、著者自身がエスノメソドロジを初期

に研究したカスタネダのように、のた打ち回りながら危険な対象と格闘する立場

からの内部記述を伝え知りたい。著者の今後に注目したい。

 

<書評4> 

by 石村源生

ishimura@jsf.or.jp

 

 

「メタ進化論的マトリクスと認識論的腰の重さ」

 

現在、我々の殆どはDNAを遺伝情報の担い手と考えていると言ってもよいだろう

が、一方遺伝情報を一定のまとまりとして束ねる「主体」が存在し、それは生物

個体であるというのが一般的な感覚のようである。だからこそドーキンスの、遺

伝の主体は遺伝子(DNA)であり、個体は遺伝子の乗り物にすぎない、というキャ

ッチフレーズが衝撃を持って受け止められたわけだ。ドーキンスは更に、人間社

会において世代を越えて継承される習慣・文化的情報の担い手としてミームなる

ものを提案した。ここで、本書の解説を読む限りいささか議論が錯綜していると

思われるのは、ミームがあくまで自己保存と自己複製をその目的とする存在なら

ば、それが「個体」や「遺伝子」の保存、複製に寄与するかどうかは(それが遺

伝子とミームの共進化、というような形で間接的にミーム自身の保存、複製に役

立たない限り)その成立条件に無関係のはずなのに、その役割が再三強調されて

いる点である。

 

そもそも、遺伝子とミームの違いは、両者の時定数(ライフサイクル)と、相互

作用の範囲(システムと環境の分節化)の違いに過ぎないように思われる。両者

を実装している物理的実体の相違は、この二つの相違点に還元される。ついでに

言うと、”淘汰”の対象は「種」なのか「個体」なのか「遺伝子」なのか、と

か、「競争」か「棲み分け」か「共生」か、などという議論に関しても、これ

らは互いに異なる時定数と相互作用の範囲について論じているのであり、決して

背反ではないのではないか。つまり、これらのパラメータによって張られた空間

の各々の点に、各々の”進化論”が位置づけられ、分類、整理されるのである。

そうすると、その「メタ進化論的マトリクス」の空欄を埋めるような新しい進化

論、研究対象を同定することなども可能かもしれない。この作業は、例えば構造

主義生物学、自己組織化理論の研究者によってある程度進められているのかもし

れないが、今後のさらなる展開が期待される。

 

しかし、このようなメタ進化論的なフォーマライゼーションを行なったとして全

てが解決するかというと実はそうではない。ここからが本当の問題である。すな

わち、冒頭で述べたように我々は進化の主体を「生物個体」であると思いがちで

ある。また、ミームに関しても生物個体に引きつけて解釈しがちである。要する

に、我々人間の認識系は、そのようなフォーマライズされたメタ進化論的マトリ

クスの中を自由に往来できるわけではなく、そのごく一部分の領域に縛り付けら

れているわけである。従って、メタ進化論的フォーマライゼーションを精緻に行

なえば行なうほど、逆にその認識論的”腰の重さ”、もっと言えば「私」の有り

様が、あぶり出されてくるのではないかと期待している。(もちろん、そのよう

な偏向には進化過程の”純然たる”物理的特性の寄与も無視できない。しかしこ

こでは、そのような区別はあまり意味を持たない。)メタ進化論的マトリクスの

観点からは、認識の仕方によっていかようにでも捉えることのできるはずの融通

無碍の生物進化の過程を、どうしてそのように偏った見方で捉えてしまうような

認識系(=人間)が、他ならぬその”生物進化の過程自身によって”産み出され

てしまったのか?ホフマイヤーの「生命記号論」、松野らの「内部観測」とも関

係がありそうだが、是非とも本書の著者の意見を聞いてみたいところである。

 

 

<書評5> by 境界人

境界人

coo@mx2.mesh.ne.jp

http://www.bekkoame.or.jp/~alteredim/

 

 変性意識と心脳問題。現代社会における性と死、そして快楽をあぶりだす。

そういう意図をもって書かれた本として、楽しく読ませていただいた。実は著者から

化学の目から見て意見を(特に第一章)といわれたのだが、細かいところはあって

も、うまくまとまっている。「いいではないですか」(笑)。

 

 確かに現代社会は、死を隠し、いまここの快楽(存在、喜び)を先送りしている。なに

やら自分の生きていくに必要以上の作業を日々の生活の中で+αして強いられ、そ

の「おあずけのご褒美」として、たとえば金銭(など、価値と思い込んでいるもの)や

(狭義の)性的快楽などを「与えられて生きて」いる。与えられているというところ

が味

噌で、本人達は別に意識せずとも、実はがっちりそれに縛られている。

 

 人間は社会的な動物であるが、そのおかげで、生物的な実力レベル以上の

分不相応な繁栄をして、ここまでやってきたのかもしれない。しかし、これだけ生命

の直接的な危機から遠いところにいる、長寿で裕福な先進国においてさえ、

ほとんどの人間は社会というケージの狭い視野の中で本当の「快楽」とは程遠い、

息が詰まるような日々をおくっているのではないだろうか。

 

 「快楽」をエクスタシーと呼ぶとすれば、その語源はエクスタシス(外側に立つ)

という意味だという。この忘我、他者との境界の喪失。全身全霊を打ち震わすよう

な感動や恍惚、オーガズムとて、脳の中のある発火パターンによって記述できる

のだとしたら。しかもそれが脳の正常な機能だと思われている時間感覚や身体

感覚、それらを統合する、自我、<私>といったものの機能の低下・喪失によるも

のだと著者は言う。だとしたらどうだろう。健全な肉体。健康な精神。満ち足りた食

と栄養を勝ち取ってきた我々の社会は、ますます「快楽」と切り離されていくので

はないだろうか。

 

 オーガズム=「小さな死」ではなく、実は本当の死が、もしかしたら最大のエクス

タシー

であるのかもしれない。ただし、そのことはたとえ真実であったとしても社会の主たる

構成員には秘密である。そういうミームを持った社会だけが、遺伝子とミームの器を

増やしつづけていけるのかもしれない。真実を知った、常に死と隣り合わせのシャー

マンがいるような部族社会は、それを知っているがために数だけが増えることもなく、

現代では少数派になってしまっているのではないか?

 真実がそんなこととは露とも知らぬ「現代人」だけが、いまだに何も知らぬまま、あ

くせくと働き続け、さらにさらに数だけを増やしている。のかもしれない。数を増やし

たものが勝ちではないのかも。

 

 

 

 人に、「自分の面白いと思うこと」を話すときに、一番つらいのは、伝えたい相手

が自分の伝えたいことに関して興味を持っていない。ということがあるだろう。もと

もと興味のない話題に相手を持っていくことほど大変な作業はない。

 その次につらいといえば、たとえ、自分が受け手の興味を持つような話題を持っ

ていたとしても、自分の言うことの用語や理解するためのバックグラウンドを相手

が持っていないということがある。そのためには国語辞書的に、まず用語の、そし

てその領域の全体像から説明しなければならず、その時点ですでに話しの勢い、

ひいては自分の興味は薄まってしまう。

 

 とくに専門雑誌ではなく一般の読者を想定した書籍となれば、その問題は切実な

ものになるだろう。その点、苦労は察しする。

 そのような場合、伝達方法は二つあるように思う。先にインパクトのある言葉を

投げかけ、興味をひきつけておいて、そのヒトのレベルでの用語や意味合いを

丹念に説明していく。そして、大体判ってくれるであろうレベルへと受け手を導い

た上で自分の言いたいことをちょこんと載せるというやり方だ。(1)こうすると、量

的にテーマの幅は限られてくるが、相手のペースを先読みして理解の道を作って

いくので、納得は得られやすいだろう。

 そしてもうひとつ、とにかく相手が今、判らなくてもある時間がたてば、「あっ、な

るほどσ(^_^;)」と思ってくれるように、キーワードを並べていくというやり方だ。

それ

はまるで言葉の時限爆弾のように、読者のなかでミームがこなれていくのを待つ。(2)

 

 『性・死・快楽の起源』を読み進む上で、蛭川氏の興味の対象はあまりにも広く、

<私>に関する様々な領域を総括的に網羅しておられる。そのため上記(1)の

方法では量的にも長くなりすぎるのだろう。そのため、どちらかというと、随所に方

法(2)でもちいる「キーワード爆弾」を仕掛けてあるところがみうけられる。その

端々

を楽しませてもらった。変性意識に関連する記述等は、は特にそうしないと話にす

らならないところがある。

 

 著者は、今後の宿題として、これらのそれぞれ9章について1冊ずつ精密な議論

をしていかれるということであり、それらは大変楽しみである。ここにある「爆弾」

が数発。

すっきりとした形でこの社会に受け入れられたとき、なにかが「ぽんっ」とはじける

ような

気がする。私の周りで精霊たちがくすくす笑いながらそう言っている。(笑)

 

<書評6> 

by 金沢創

kanazawa-so@ma7.seikyou.ne.jp

 

まずは笑おう。とにかく笑い飛ばそう。

我々のセックスへのこだわりを

死の恐怖を

そして<私>をおびやかす、すべての身体的力を。

 

著者は、現代の進化論の用語を駆使し

我々の日常生活の様々な場所に降り立つ。

あるときは台湾の山奥に

あるときはヤップ島の海辺に

あるときはガンジス川にほとりに

そしてまたあるときは、日本という国のラブホテルの前に降り立つ。

そしてこうつぶやく。

「日本には、もっぱら性交用にセッティングされた部屋を提供するホテルさえある」

そ、そ、そんなことは誰でも知っている。

だってみんなガイドブックでキッチリ場所までおさえてあるんだから。

ホテルの場所と値段さえ頭にたたきこめば、あとは食事にさそってからが勝負。

「どっかで休もうかぁーー」の一言を言うか言わないかだ。

 

でも、誰もその奇妙な場所に言及などしない。

それは、我々の欲望と身体があらわになるからだ。

著者はその奇妙さを、火星からやってきた宇宙人のように指摘する。

その視点こそ、文化人類学がもちうるものだろう。

著者はいつも「なんだか、おかしなはなしである」と笑っているのだ。

 

この本が、そうしたユーモアを生み出している最大の根拠は、と問われれば

それは、著者自身がそうした身体と欲望に真正面から出会っているからだろう。

 

そう、彼はセックスにこだわり、死をおそれている。

そして、その奇妙さを、なんのてらいもなく見つめている。

文化人類学の目で

進化論の目で。

 

<私>という世界にとって最大の脅威は何か。

それは、<私>の終わり、つまり死である。

これを避けるにはどうすればいいのか。

一つには、死が終わりではなく、

もう一つの世界への始まりである可能性を検討することであり

もう一つは、身体の終わりを越えて<私>の存続の可能性を検討することである。

著者が「死後の世界はどこにあるのか」と問うとき

また最終章で、<私>をコンピューターに移し変えうる可能性を論じるとき

<私>がいかにして終わりえないものであるか、その策が検討されている。

 

では、いい策は見つかっただろうか?

例え現世において死をむかえてもダイジョーブだろうか。

ちゃんと次の世界が待っているから、という保証はえられただろうか。

あるいは、身体が滅びてもダイジョーブか。

<私>を、コンピュータに移しかえればいいのだ、ということだろうか。

いやいや、著者の論を読む限り

我々は少しも安心できないことがわかる。

例えば著者は、臨死体験や霊の存在の報告をいかに考えるかということを

3通りにわけて論じている。

1)作り話である

2)体験は本当だが幻覚である

3)実際に超常現象がおきている

えっっ、それだけ?

ちょっとこれだけでは、

とても霊の存在や死後の世界を信じる気にはなれないのではないか。

超常現象とはどういうことだろう。

現象ならぬ現象。現象を超越した現象。

もし、それが実際におきた出来事なら、それは現象だ。

そして、もしおきていないなら現象ではない。

我々が、「ダイジョーブ、次の世界があるから」と安心するためには

「報告」を現実の現象として描き出すことが必要なハズである。

また著者は、モラベックの楽天的な方法を引用し

<私>をコンピューターへ移し変える可能性を論じている。

しかし、私ならとても今目の前にある

目もたず手ももたない

ペンティアムUのCPUと1GあまりのHDのせまい世界にイきたいとは思わない。

だってそれじゃあ本もよめないし

女の子も抱きしめられないぢゃないか。

 

著者はたしかに様々な場所に降り立った。

しかし、少々駆け足が速過ぎたのではないか。

死後の世界の報告にしても

それがいかに超越的に思えようとも

その報告がいかなるメカニズムによって生じているのか

その手品の種を探し

この世界におこった現実の出来事として記述することが求められるだろう。

 

しかし、私は著者に期待している。

性や死から自由になりうる妙案を、現実の現象として描きだしてくれることを。

様々な箇所で、著者はチベット密教やインド哲学が

そうした問題に取り組んできたことに触れている。

インド思想は、思想というよりも実践的で現実的な方法論である。

私が期待しているのは

著者が文化人類学者として、その場所に降り立ち

こうした方法論がしばしば語るトンデモ科学的な言説を笑い飛ばし

進化論者・生物学者の目をもって

その世界を現実のものとして描き出すことだ。

その際、ユーモアは著者の最大の武器となるだろう。

科学とは一種のユーモアだ。

ただまっすぐにnature=性をみつめ

端的にそれを描き出す。

そして「なんだか、おかしなはなしである」と最後には笑うのだ。

 

ただ、なぜ、どうして「おかしい」のか。

笑ってばかりいないで

我々は、著者にもっと説明してほしいと思うのである。

 

<書評7>

by  細馬宏通

mag01532@nifty.ne.jp

http://ux01.so-net.ne.jp/~ev-net/

 

 本書では、進化理論があちこちで援用されているいっぽう、通常の進化論の本

ではあまり扱われないドラッグや超心理学などが扱われている。とはいえ、この

本の焦点はそうした事例の物珍しさではなく、それらがもたらす「私」という感

覚のゆらぎ、なのだろう。

 では、この「私」のゆらぎは、どのように進化したのか。「私」がさまざまな

文化でさまざまな形を取ることは事例紹介から明らかになっている。が、なぜ、

それぞれの文化や階層で異なる形を取るのか、はたしてそれぞれの事例は本当に

適応的なのか、となると、論は食いたりない。もっともこうした論を立てるに

は、個々の事例の詳細なモノグラフに分け入っていくことが必要となるだろう。

そこでは、たとえばシャーマンのみならず、シャーマンを取り巻く人々、そして

シャーマンを戴かない人々も含めた複雑な適当的競争が問題となるだろう。

 しかし、これはまったくのヤマカンだが、「一人称」という視点に重きをおく

著者は、進化に対する科学的好奇心以上に、「私」のゆらぎに関するなんらかの

個人的体験をドライブに書き進めているのではないか。もしそうだとしたら、本

書とは別に、著者の「私」のゆらぎが「一人称的」に書かれたものを読みたいと

思う。そちらの方が圧倒的におもしろいはずだ。

 

 最終章で論じられている「一人称AI問題」について、コメントしておく。

 著者は、モラヴェックの心の転移の問題を次のように書いている。

「高分解能の磁気共鳴測定によって脳内の情報を数値化し、その情報はスーパー

 

コンピューターに入力される。しかし、コンピューター上に移し替えられた情報

は「私」という意識をもつだろうか。そうだとしても、それは転移前の「私」と

連続した「私」なのだろうか。」

 そもそもこうした数値化の可能性が「観測問題」に抵触しないのか、という疑

問も残るが、とにかく強引に、「私」という意識を仮に移植できた、としよう。

そのとき「私」にとって問題になるのは、たとえば手を動かしたいと思ったと

き、そこに手からのフィードバックを触覚的にも視覚的にも、それどころかあら

ゆる五感で発見しそこねる、といった事態だ。そもそも、手が「ない」という感

覚はこうしたフィードバックなしに起こりうるだろうか。ここで、起こるのは、

(バッドトリップ的妄想をたくましくするなら)おそらく幻肢(それは単に

フィードバックがない、という事態ではなく、複数のフィードバックの齟齬から

起こる事態だ)よりもおぼろげなフィードバックの欠如からくる違和感であり、

その違和さ加減がかろうじて、「ここにいない私」の手掛かりになる、といった

事態だろう。こうした違和感が、はたして否定的に「ここにいない私」を囲い込

めるかどうかはわからない。が、少なくとも「ここにいない私」に確信が持てな

ければ、「転移前の「私」」、あるいは「連続」という概念じたいが危うくな

る。

 というわけでぼくにとって、この思考問題における「私」のイメージは、「さ

まざまなハードウェアの上を、そのつど意識の状態を変容させながら、渡り歩く

ような存在」というよりも、目覚めさせられながら不確かでいわれのない悪夢に

のたうち回るような存在だ。

 いや、これは、運動もフィードバックも含めた神経発火の時系列パターンをす

べてコンピューターに記録・再生する、という問題なのかもしれない。その場

合、「私」はフィードバックの欠如にとまどうことはないだろうが、逆にそのこ

とによって「ここにいない私」の手掛かりを失うことになるだろう。

 いずれにせよ、著者のいうようにモラヴェックはあまりに「楽天的」過ぎる。

それは身体を甘く見ているからだ。

 移植されるのではなく、特定の身体につながれたまま、感覚が不連続にぶっと

んでいる(そして、ぶっとんでる最中に「AIにいる私」という感じにもぶっと

ぶ)という話なら経験的にわからなくもない。そうした体験はときにはドラッグ

などによって加速されるだろうし、「そのつど意識の状態を変容させながら、渡

り歩く」感じをもたらすようにも思う。ならば、これら「変性意識」の間をぶっ

とび渡りながら、「私」はなお、どのように/どのような身体につながれている

のか。著者の次なる「私」そして身体との格闘を期待する。

細馬宏通(ほそまひろみち)

 

 

蛭川立 著 「性、死、快楽の起源:進化心理学からみた<私>」

福村出版 1999年

 

<書評8>

by 野原san

rnohara@amy.hi-ho.ne.jp

 

エソロジストとはオソロシイ。キリスト教的な倫

理観の残る国でなら違和感を覚えずにはいられな

いだろう。ましてや、ファンダメンタリズムの気

質を持った人々にとっては、悪魔の教えのように

とられてしまうに違いない。人間の行動の基盤を

猿やカマキリやハチやゾウリムシらの行動から演

繹して欲しく無いに違いない。確かにあまり人間

行動に結びつけて理解するべきではないのかも知

れない。筆者は人間の本能的な快楽は社会構成の

為の重要なモチべーションとして働き、そこから

価値が生まれ、社会行動が形成されてゆく、と説

く。たとえそんな客観的(?!)な態度が悪魔の

行為のように見えても、だ。

 愛、性愛、と死にまつわる快楽はまさに根源的

なモチベーションだろう。脳科学の世界では性的

な快楽も化学的なあるいは物的なニューロンの活

動して捉えられようとしている。

これらの科学的(?)事実が我々一般に広まるに

つれ、疑問と混乱は深まる。とっくの昔に旧来の

宗教的なこの世の見方、(そしてあの世の見方)

は押し流されてしまっている。

 

 よく言われるが、分断された知識の中で、世間

知に近い、生きるための知識の構成体が必要な、

科学者で無い大多数の人間は(科学)情報の海中

に放り出されている。

 私も間違い無くその中の一人だと言える。こん

な混乱の渦の中から秩序への希求は大きな力とな

って今現在、地面をゆっくり押し上げようとして

いると思う。これは目に見える形ではないかも知

れないが。著者は人類学者としてシャーマニズム

を研究しながらシャーマンの世界とサイケデリッ

ク、ドラックの世界、いわゆる変成意識の世界に

ついて説明する。彼等の体験する世界は、この

「私」の自我が消滅する。それは「イッ」ってし

まうことといっていい。

 この「私」は最大の悦楽として、この「私」を

消滅させることを望むようだ。

 これはなんとも逆説的な話ではないか。

ドラック、サイケデリック、シャーマニズムは全

て現代では「悪」であり、忌避されている。これ

らは表に出てくることはない。しかし、やはり禁

 

忌に中に実は真実は多く潜んでいるようだ。筆者

は敢えて(選ばれて?)この道にはまり込んでい

る。

 この本は多くの関連項目を網羅しており、語ら

れる領域が広大過ぎて、体系的な形では把握しに

くいかも知れない。

 しかしこの広大無辺な地を筆者が(多分道しる

べもなく苦しみながら)渡り歩いたように、これ

から先は自らの力で進むしかない。その意味では

この本には示唆的な「オイシイ」ヒントが随所に

発見できるよい入門書だと思う。あとは自分の好

むヒントをピックアップしていくしかない。専門

家ではないフツーの人向けの良質な啓蒙書、だと

思う。

(今は若くはないが)かつて生物界の貴公子、リ

チャード・ドーキンスが「利己的な遺伝子」の概

念と本を発表したのは、彼が30代の半ばだった

と聞く。それを思うと次の本では筆者なりのフィ

ールドの解釈が構成的により立ち現われてくるこ

とを望みたくなってしまう。

 

 それはもちろん、神秘主義の色の濃い、検証不

能な形而上学の世界でないことは確かだ。このこ

とを考えに入れれば、この問題はとたんに厄介な

問題になってしまう。あくまで冷静な視点が必要

なのだ。

 それは筆者に対してまた、この広大な土地をま

たまた放浪して欲しいという無理なお願いになっ

てしまうのであるが。

他の者が敢えて行かないフィールドを脳科学、生

理学、人類学、動物行動学と渡り抜いた上で、こ

れからの私達に相応しい「性」と「死」の見方を

私達の前に見せてくれることを期待してしまう。

 

 

======第二部======

 

 

<Multiple Book Reviewに対するResponse >

by 蛭川立

t-hirukawa@bekkoame.ne.jp

http://www.bekkoame.ne.jp/~t-hirukawa/

(Virtual Museum of Anthropology)

はじめに

 

 まず、書評を寄せてくださったみなさんに、(そして、書評というほどでもないけ

れど、といって、こっそりと個人的な感想を寄せてくださったあなたにも、)ありが

とうを言いたい。読者のみなさんとの出会いがあり、そこから議論がさらに発展して

いく。それが、物書きをしていて一番嬉しいことだと、いつも思う。

 

  内容について

 

 さて、茂木氏が指摘されているように、この本は、ただ、社会生物学や進化心理学

で、人間の心理や行動がこんなにうまく解釈できます、ということを示すために書か

れているのではない。わたしが社会生物学や進化心理学の発想に心を惹かれているの

は、細馬氏の正確なヤマカンどおり、「進化に対する科学的好奇心以上に、『私』の

ゆらぎに関するなんらかの個人的体験」のゆえにである。だから、じつは、わたしは、

ネオ・ダーウィニズムによって行動がどこまでうまく説明できるかとか、行動がどう

進化してきたのかという細かいプロセスにはあまり関心がない。そうではなく、社会

生物学には、死にゆく運命にある<私>という実存的な不安に対するアンチテーゼと

しての魅力を感じるのである。じっさい、ウィルソンの大著『社会生物学』の冒頭は、

いきなり不条理の思想家カミュの自殺論を否定するところから始まっている。

 もちろん、単純な社会生物学的説明には限界がある。たとえば境界人氏は、死が最

大のエクスタシーなのかもしれないという可能性を指摘しておられるが、もしそうな

ら、われわれの脳はなぜそのような非適応的な情報処理を行ってしまうのだろうか。

同じく境界人氏は、健全に成長を続ける社会ほど、エクスタシー的な快楽を抑圧して

しまうということも指摘しておられる。なぜ、このような食い違いが生じるのだろう

か。それは、遺伝子とミームの利害のズレに起因するのだろうか。

 また、いくら個体は遺伝子の乗り物にすぎないといっても、石村氏が指摘している

ように、依然としてわれわれ人間の認識系は、生きていることの主体を細胞の集合体

である個体とみなしてしまうという認識のパターンに縛りつけられているようだ。し

かし、ホフマイヤーや松野が具体的にどういうことを言っているのか、残念ながらわ

たしは知らないが(かんたんに教えていただけるとうれしいです)、人間の認識系が

生命活動の主体をこの個体と見なしているとはいっても、ひょっとしたらそれは、わ

れわれの社会が正常だと考えている、あるひとつの意識状態においてそうであるのに

すぎないのかもしれない。ある別の意識状態では、自他境界の消滅なども起こりうる

からだ。社会生物学と変性意識という、一見無関係なテーマは、わたしの中ではそん

なふうに結びついている。また、この、生の主体の問題は、死の問題とも表裏一体で

ある。

 金沢氏には、<私>の死が回避されうる可能性を、大きく二つに整理していただい

た。第一は、死がたんなる終わりではなく、別の世界への始まりであるという可能性

である。つまり、第五章で論じた、「死後の世界」の可能性である。もちろん、こう

した問題設定が、かならずしも非科学的だということにはならない。まず第一に、科

学的だということは、唯物論的だということとイコールではない。むしろ、いったん

は物質や心といった実体概念をすべて括弧に入れ、観測される現象それ自体とそれら

の相互関係だけを評価すること(現象主義)こそが、より科学的な態度だと、わたし

は思う。たとえば、二人称的な死の場合、そもそも他者の身体が意識を持っているか

どうかが厳密にはわからない以上、死体が意識を持っているのかどうかも厳密にはわ

からない。そういう意味で、死体も意識を持っている、という立場も、死体が意識を

持っているはずがない、という立場も、同様に、たんなる信仰にすぎない。にもかか

わらず、後者の見解が良識であって、前者の見解が異端であるとみなされるのなら、

それは科学的な根拠のないものだといわなければならない。浜田氏が指摘するように、

良識派というのは、じつは、ただ「多数派の側に居るというだけ」なのだ。

 なお、金沢氏が指摘するように、「超常」現象という言葉の使い方にはどうも自己

矛盾したところがある。なので、この言葉は、本書では極力使わないようにしたつも

りだ。金沢氏の「現実の現象として描き出す」という言葉の意味がいまひとつよくわ

からないのだが、常識的な時空の観念からすれば「超常的」な現象が観測されたとし

ても、それを、それまでに構成された物理法則に従わないからといって「超常」現象

と呼んでしまうよりも、時空のモデルのほうを、(たとえそれがどんなに非常識なも

のであったとしても!)その現象を説明しうるように拡張することのほうが、やはり、

より科学的だと思う。じっさい、現代物理学はそのようにしてできあがってきたので

はないだろうか。

 さて、金沢氏が整理された、死の回避の第二の可能性は、身体の終わりを超えて、

<私>が存続するという可能性である。これについては、第九章で、モラヴェックの

「心の転移」を取り上げた。しかし、たしかに、細馬氏が指摘されたように、モラヴ

ェックは楽天的すぎる。じつは、この本の原稿の最後の部分には、永井均の「もう一

人のぼく」、茂木健一郎の「コピー人間」、渡辺恒夫の「偏在転生観」などをたたき

台にしながら、モラヴェックの楽天的なモデルを批判する論考が続いていたのだが、

これについてきちんと論じはじめると、ページ数が大幅に超過するということがわかっ

たため、今回の本を出版するにあたっては、この部分は思い切って削除した。それで、

この本の最後はちょっと尻切れトンボになってしまった。この点はご容赦いただき、

かつ続編をご期待いただければ幸いである。

 

  形式について

 

 この本で取り扱った、<性>や<死>や<身体>や<欲望>や<狂気>や<未開>

などは、ようするに近代的自我の「影」の部分であり、それゆえ、危険な領域でもあ

る。しかし、わたしとしては、それなりに、「敢えて」(野原氏)「生きざまをかけ

て」(茂木氏)「危険な対象と格闘」(羽尻氏)してきたつもりである。けっして終

始、安全な領域にとどまったままで、危険な対象を、遠くから望遠鏡で眺めていたの

ではない。それなりに、自分の足で「この広大無辺な地を」「道しるべもなく苦しみ

ながら渡り歩い」て(野原氏)、見聞きしたことをもとに、論を組み立てたつもりだ。

しかし、わたしはその記述に、一人称的な文体を選びたくなかった。細馬氏のご指摘

どおり、この本のテーマは、もっぱら一人称的な問題である。そして、一人称的な問

題には、一人称的な記述がもっとも似合っている。たしかにそうなのだが、それは下

手をすれば自己愛的な告白ごっこに終わってしまう。だから、わたしはあえて一人称

的なテーマを三人称的な視点から突き放して書いてみたかった。生きた思想は、個々

の「生きざま」を離れては成立し得ないが、同時に、三人称的な突き離しによる客観

化の作業を経て、はじめて普遍性を持つ思想として成立しうると考えている。

 また、たとえば、金沢氏が指摘しているような、現代の日本に、性交用にセッティ

ングされたホテルが存在することの奇妙さは、「○月○日、ぼくは○○子と××のホ

テルに行った」というような、べったりした一人称的記述からは見えてこない。身近

な対象とあえて距離をとって相対化すること。これが金沢氏のいう、「文化人類学の

目」というものの、また羽尻氏のいう、エスノメソドロジーというものの、極意では

ないかと思う。もっとも、フーコーは、日本という東洋の神秘的な国に、ラブホテル

というイキな文化が存在することを深い憧れを持って記述したのだが、わたしじしん

は東洋の神秘なんかに、そんなに深い憧れなんて持っていない。エソロジーやニーチェ

やフーコーは、野原氏が指摘しているように、キリスト教社会では、そのような社会

に対する真摯な(悪魔的な?)たたかいとしての意味を持つのだろう。しかし、もと

もと非キリスト教的な社会に生まれて、自分自身もクリスチャンではないわたし自身

にとっては、けっきょくのところは、そういうたたかいは、つきつめれば、一種のお

笑いとしか感じられないのかもしれない。

 なお、続編のご要望をたくさんいただいたが、現在、すくなくとも二冊の本を構想

中である。まず、細馬氏が指摘されたような、たとえばシャーマニズムをめぐる権力

の問題などについて、個別のエスノグラフィーをもうちょっときちんとフォローした

論考をまとめたいと思っている。これは書けたところから順に、わたしのWebサイト

(http://www.bekkoame.ne.jp/~t-hirukawa/)にアップしていきたいと思っているの

で、ぜひみなさんにお読みいただいてコメントをいただければと思っている。もうひ

とつは、多くの方が希望されていたような、より一人称的なものである。羽尻氏の挙

げられたカスタネダは、半フィクションという微妙な手法を採っているが、この手法

はわたしも参考にしたいと思っている。もっとも、こちらのほうは、漠たる構想だけ

で、具体的な執筆のめどは立っていないのだが。

 さらに、野原氏からは、さらなる放浪のご要望があった。もっとのめり込むべし、

という茂木氏のそそのかしもあった。了解。これからも引き続き「危険な対象」と前

向きに「格闘」していく所存である。しかし、わたしは、なにかにのめり込むことと、

バランスを崩さない知性を持ち続けることは、両立しうることだと考えている、とい

うか、両立させなければならない。たとえば、「恋愛の真っ最中の人間にとって」そ

の神経メカニズムや、周囲の社会的規範のカラクリなどということは「知ったことで

はない」(茂木氏)のだろうか。わたしはそうではないと思う。恋をすることと、い

ま、自分の脳内でどんな分子たちがめぐっているのかということに思いをめぐらせる

ということは、背反なことではない。むしろ、脳内分子の働きを自覚的にモニターし

ながら、そしてときには意図的にその濃度をコントロールしさえしながら、突っ走る

ことは、可能なのだ。目を閉じて突っ走るのは、知性を欠いた行為である。しかし、

しっかりと目を見開いたまま突っ走るのは、むしろ高度に知性的な行為ではないだろ

うか。わたしの耳元で精霊たちが、そうささやいている(笑)。

 

(c) 浜田浩 1999

(c) 茂木健一郎 1999

(c) 羽尻公一郎 1999

(c) 石村源生 1999

(c) 境界人 1999

(c) 金沢創 1999

(c) 細馬宏通 1999

(c) 野原san 1999

(c) 蛭川立 1999

 

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