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心脳問題RFC#8 金沢創 『他者の心は存在するか』要約
Received 4th December 1999
Accepted 5th December 1999
* 金沢創
1966年兵庫県西宮市に生まれる。その後、兵庫県尼崎市にて過ごしたあと、1991
年京都大学文学部心理学専攻卒業。1996年京都大学理学研究科博士課程霊長類学専攻
修了。日本学術振興会特別研究員などを経て、現在、三菱化学生命科学研究所特別研究員。
理学博士。著書に『顔と心』サイエンス社 1994年(共著)、『「神」に迫るサイエンス』
角川書店 1998年(共著)がある。
電子メイル kanazawa-so@ma7.seikyou.ne.jp
金沢創著 「他者の心は存在するか」 (1999年)
金子書房 2400円
ISBN 4-7608-9405-5
目次
第一章 他者の心は存在しない?
・他人の本当の気持ち ・他者の心とコミュニケーション ・チューリング・テスト
・日常会話の中の「心」 ・考える石 ・「魂に対する態度」 ・推論能力
第二章 モデルから現実へ、現実からモデルへ
・進化論的な説明 ・説明という行為 ・モデルと説明 ・ユークリッド幾何学
・モデルと現実 ・反証主義と理想化された世界 ・ 認知科学とモデル化
第三章 コミュニケーションの推論モデル
・心の理論、その小史 ・自閉症児と心の理論 ・記号論的アプローチとその限界
・言語行為論によるアプローチ ・関連性理論 ・認知環境と顕在性
・言葉によらない意図的なやりとり ・情報意図と伝達意図
・相互認知環境と相互顕在性 ・認知環境を予測する ・意図中心主義
・ 誤解という理解 ・心の理論モデルと推論モデル
第四章 認識の3つの階層
・サルたちのかけひき ・チンパンジーとマカクの違い ・模倣の実験
・チンパンジーの模倣能力 ・階層構造 ・伝達意図と情報意図 ・仮説
・進化的な利益
第五章 「私」の起源
・「私」という謎 ・誤りうるものと誤りえないもの ・ 恒常性維持システム
・仮説としての外部世界 ・レベル2 ・ レベル3 ・レベルを下降してみる
・ 心身問題はニセの問題 ・感覚情報=宇宙
要約:
小さい頃から私はよく、「他人の本当の気持ちとはどんなものだろう」ということ
に興味があった。例えば「痛み」について考えてみるならば、他人が感じる痛みとは
どんなものであろうか、そして、そのときの他人の痛みと、私が感じる痛みとではど
こがどうちがうのだろうか、というようなことである。そのような疑問を抱いたと
き、私はよく他人の頭と私の頭をつないでみたい、と考えた。
仮に今、私の脳とある他人の脳をつないでみたとしよう。どのようにつなぐのか、
という大問題が存在するが、この点はクリアーされたと仮定する。一見すると、この
状態で、まさに私は他人の痛みを感じることができるように思われる。しかし、よく
考えてもらいたい。「他人の痛み」を私が感じた、といった瞬間に、それはすでに
「私の痛み」なのだ。その痛みの出発点がどこにあろうと、「痛み」を感じるている
のはやはり私である。私は、単に、他人の体のどこかに痛みを感じているにすぎな
い。ここに、「痛み」を含めたあらゆる感覚とは、私が感じるものであり、私が感じ
ていないものは、感覚とは呼ぶことができないという、単純な定義の問題が理解され
る。他者は私ではない。感覚とは私のことである。よって「他者の感覚」つまり「他
者の心」とは、概念の定義上、矛盾している言語表現であることがわかるだろう。
「他者」とは、「私」にとって、その感覚世界を定義上感じることができない存在で
あるということだ。
しかし、他者とはその感覚世界を定義上感じることができない存在である、という
考えは、それ自体は正しいが、他人の気持ちや考えていることがわかる、というのも
また日常的な感覚である。ではなぜ我々ヒトは、理論的にわかりえないはずの他個体
の感覚を、完全ではないにせよ推測できるのだろうか。
1つの考えは、生物としてそのような能力があらかじめ備わっている、というもの
である。つまり我々ヒトは、他者の感覚世界をうまくシミュレートできる能力を進化
の過程で獲得した、と考えるのである。それは、本当の意味での「他者の感覚」では
ない。が、我々ヒトという生物は、なんらかのメカニズムによって、他者の感覚世界
を推測できるような能力を獲得したのではないか。もし、そのような能力をもたない
ならば、ヒトという種はうまく社会を構成できないだろう。
では、それはどのような能力だろうか。本書は、この問いをめぐって、他者と自己
の情報処理に関する、進化論的なモデルを検討する。このモデルでは、様々な生物た
ちの世界認識の方法を階層的に分類し、それを1つの進化の過程と考える。
例えば今、エサが入っている箱を介して、実験者とチンパンジーが相対している場
面を想定してみる。このとき、チンパンジーは単に、箱の中にエサが入っていること
を知っている(レベル1)、チンパンジーは、(実験者が箱の中にエサが箱に入って
いることを知っている)ということを知っている(レベル2)、チンパンジーは(実
験者が(チンパンジーが箱の中にエサが箱に入っていることを知っている)ことを
知っている)ことを知っている(レベル3)、という3つの階層的な他者の知識に関
する処理が考えられる。このように、階層的な他者の知識を想定できることは、一連
の「心の理論」に関する実験研究や、スペルベルとウィルソンによる関連性理論など
の理論により、様々な形で議論されてきた。現状の実験から、チンパンジーや類人猿
以外の霊長類が、どの段階の階層的な処理を行っているかは確定できないが、少なく
ともヒトが、レベル3の認識をもっていることは間違いないだろう。このような分類
を行ったとき、レベル3の認識において、はじめて他者の視点からみた、自己の心の
状態というものが記述される。つまり、レベル2以前の認識においては、世界のフ
レームとしての自己は存在するが、その世界の中に、自己という1つのまとまりを
もった物体は存在しない。
このように考えるなら、まず1つめの段階として、世界の因果的な知識に基づいて
感覚世界を処理する段階があり、その感覚情報のうち、ある部分のみを「他者」とし
て処理する第2段階が生じる。このような処理が可能になってはじめて、我々ヒト
は、他者の心的世界のなかに表現される「自己」をもつ第3段階へと到達することが
できる 。つまり、まず「他者」という処理があり、その他者の視点の中に、あたか
も鏡の中に自分を発見するように、「自己」という1つのまとまりを、我々は獲得し
たのだといえる。
こうした説明は、ある意味オーソドックスなものだ。というのも他者という物体に
心を感じてしまう、という論理的に矛盾した能力を、進化的な過程に還元しようとす
るプローチだからだ。
しかし、こうしたアプローチが避けている重要な問題がある。それは、「私」とい
うものの謎についてである。私からみて観察される外界の特定の物体に、心的世界を
知覚してしまう、ということを説明するのはそう難しくはないだろう。しかし、私の
心の世界と、私の身体を含めた物理的世界との関係を、どう考えればいいのだろう
か。なぜ様々な物体のうち、私の身体にのみ感覚が生じるのだろうか。私の身体。こ
の言語表現には、すでに大きな矛盾が潜んでいる。この宇宙の中に1つの特異点とし
て「私の身体」とよばれるものが存在し、その特殊な物体に唯一感覚世界をもつ私と
いう存在が宿っている。この考え方こそ、心身二元論とよばれるものである。このよ
うな考え方を押し進めれば、この宇宙には、物質からなる物理的世界と、唯一私のみ
が知りうる主観的世界とが並列して存在し、この両者は協約不能なものであるという
結論が待っている。
唯一私だけが知りうる主観的世界とは、いったいどのような場所なのだろうか。そ
こでは、様々な感覚情報が立ち現われては消える。こうした世界が「主観的」とよば
れる最大の理由は、他人にそうした感覚を知られることがないという点だろう。特に
「痛み」などはその典型である。例えば私が「歯が痛い」といくら主張しても、本当
に痛いのかどうかは他者にはわからない。「痛み」は私的な感覚であり、主観的世界
と外部世界の問題を論じるときに頻繁に登場する題材である。
ここで、主観的感覚世界について、1つ重要な区別をしておこう。それは、誤りう
る感覚と誤りえない感覚である。我々はよく何かを別のものと見誤ることがある。例
えば、暗闇の中でひもをヘビに見間違えるということは、充分におこりえることであ
る。しかし、痛みについてはどうだろうか。「痛み間違い」というものはありえるだ
ろうか。例えばあるとき体のある部分に痛みを感じたとする。ところがしばらくする
と、別の場所が痛いことがわかった。このようなとき、我々は「痛み間違いをした」
などとはいわないだろう。あるとき「痛かった」ということは何がどうあっても痛
かったわけである。これに対し、視覚については「見間違い」が存在しうる。あると
き「ヘビ」に見えていたものが、実際には「ひも」である可能性がある。痛覚はウソ
をつかないが視覚はウソをつくことがある。我々の感覚には、恒常性を維持し一貫性
を作り出そうとする性質のものと、一貫性を作り出さず単に並列されているだけのも
のとの、2種類のものがあることがわかる。そして、前者の感覚こそが、外部世界を
構成することにつながっているのに対し、後者の感覚は主観的世界、内部世界とよば
れている世界を構成する。
しかし、よくよく考えてみると、視覚など恒常性を作り出す感覚に関しても、常に
誤ってはいないという観点も成り立つ。というのも、先の例に即して言えば、ある瞬
間に見えたヘビのイメージも、その瞬間にはヘビが知覚されているのだから。
おそらく、恒常性を作り出すメカニズムをもたいないと思われる昆虫などの生物で
は、幻覚というものが存在しない。昆虫は、外界が「こうなっているハズだ」という
外部世界のモデルをもっているのではなく、単にある刺激に対して生得的に反応を
行っているにすぎないと思われる。例えば、ガが羽を広げることで羽の目玉模様が提
示され、それを見た鳥が驚くことで、捕食者である鳥から逃れるという行動を考えて
みる。このときガは、もちろん目玉模様が鳥にどのような印象をもつかを推測しなが
ら羽を広げたわけではなく(つまりレベル2以上の認識能力ではない)、また羽を広
げることで鳥から逃れることができるという因果的な推論をもって羽を広げたわけで
もないだろう(つまりレベル1の認識能力ももたない)。ガは、鳥という捕食者の知
覚的なパターンに対し、単に生得的に羽を広げるようプログラムされているものと思
われる。
このような生物にとって、知覚情報とは、恒常性を作り出さず、単に連続する今、
今、今として並列されているものと思われる。そして、そのような生物は「世界はこ
うなっているハズだ」というモデルを持たないがゆえに、外部世界をもたない。それ
は、いわばレベル0の世界であるといえる。
結局のところ、外部世界とは、並列する感覚情報を比較し、「世界はこうなってい
るハズだ」という仮設に基づいて構成された1つのモデルだ、という言い方ができ
る。そして、生命体の認識の起源にある感覚情報から出発し、1)世界モデルをもつ
ことで物理世界を構成する、2)物理世界の中で感覚情報をもつと推測できるものに
他者というモデルを構成する、3)他者からみた視点の中に自己という物体をモデル
として構成する、という進化の階梯を考えてみれば、心身問題とよばれている問題が
1つの転倒によって作り出されたニセの問題であることに気づくだろう。まず物理世
界があり、そこになぜ「他者の心」や「私」という不思議なものが生まれてくるの
か、と問うのではなく、まず感覚というものがあり、この情報をもとに、いかなる情
報処理によって物理世界や他者の心が構成されるのか、と問うべきなのである。この
ような観点にたてば、すべての出発点としての「感覚情報」という用語は、外部世界
を前提とする誤解をうむような表現であって、むしろ世界あるいは宇宙とよぶべきも
のであることが理解される。
我々を含めたすべての主観的世界をもつ生物は、本当は交差することがない別々の
宇宙を、1つの物理宇宙を共有するというモデルを構成し生きている。「他者の心」
の存在とは、もう一つの宇宙という、概念としては矛盾した存在のことである。なぜ
なら、宇宙とはその定義上、すべてを含む全体のことだからだ。しかし、そのような
矛盾した存在が、確実に存在すると想像してみること。それこそが真のコミュニケー
ションであり他者の認識ではないだろうか。
(c)金沢創1999
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