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RFC6 『性・死・快楽の起源:進化心理学からみた<私>』要約
Received 11 November 1999
Accepted 12 November 1999
蛭川立(ひるかわたつ)
1991年京都大学農学部農林生物学科卒業後、理学部大学院に進み、動物行動学を学ぶ。
さらに、博士過程では東京大学大学院(人類学専攻)にて文化進化の研究に従事。現在、
帝京大学非常勤講師(心理学)、明治大学非常勤講師(情報科学)。既存の学問領域に
こだわらない幅広い視点に立ちつつも、一貫して「性」と「死」という現象を通じて、
「意識」「自我」という難題にアプローチ中。最新の研究成果は、
蛭川研究所付属仮想人類学博物館
http://www.bekkoame.ne.jp/~t-hirukawa/
にて公開中。
電子メイル t-hirukawa@bekkoame.ne.jp
本RFCは、蛭川立著
『性・死・快楽の起源:進化心理学からみた<私>』
福村出版 1999年
の要約です。福村出版
http://www.fukumura.co.jp/
では、宅配サービスもしています。
目次
1 快楽の化学
2 利己主義と利他主義
3 「性」と「死」の円環
4 「私」は身体の道具
5 「死後の世界」はどこにあるのか
6 特権化される「性」と「死」
7 「不倫」はなぜ禁止されるのか
8 性愛の人類史
9 ミームは身体を超える?
要約
<私>とは不条理な存在である。<私>は、自分で望んだわけでもないのに、ある
日突然この世界に産まれ落ち、ふつうは、自分で望んだわけでもないのに、ある日突
然この世界から消えていく。なんのために産まれ、なんのために生き、なんのために
死ぬのか、その意味は不明だ。もし、脳が<私>という感覚を生みだしているのだと
したら、<私>という認識世界は、数十年以内に、脳の消滅と同時に消滅する。この
ことは、たとえば地球生態系の破壊などよりもはるかに確実で差し迫った問題だ。
地球環境問題などでよく現れる、子どもたちの未来のためにこの美しい地球を守り
残していこう、というタイプの語りは、基本的には血縁主義の語りである。ネオ・ダー
ウィニズムから発展した行動生態学あるいは社会生物学と呼ばれる一連のパラダイム
(以下、社会生物学と略記)の論理も、これに似ている。つまり、「生」の単位を<
私>から<遺伝子>に移動させれば、<遺伝子>は世代を越えて受け継がれ、半永久
的に不死だから、個々の<私>が生まれては死んでいくことにはたいした意味はなく
なる。それどころか、有性生殖を行う多細胞生物にとっては、できるだけ効率よく遺
伝子の組み替えを行い、次世代に生息地をゆずるために死ぬことには、<遺伝子>の
生き残りにとって積極的な意味がある。老衰はたんにエントロピーの増大によって起
こるのではなく、次世代に生息地をゆずるための繁殖戦略としてプログラムされてい
る。老衰死という自殺は性の営みの総仕上げなのである。
たしかに、このようなモデルには整合性がある。<遺伝子>が一貫して利己的な存
在であると仮定することで、<私>がときには利己的に、ときには利他的にふるまわ
ざるを得ない、そして最後には「自殺」さえしなければならないということがうまく
説明できるのだ。
このような社会生物学的生命観によれば、行為の真の主体は<私>ではなく、<遺
伝子>だということになる。<私>はただ<遺伝子>から送られてくる命令を欲動と
いう形で受け取って、それを外界の状況と照合した上で代行するために進化してきた
エージェントにすぎない。たしかに、人間には高度な学習能力があって、その行動が
遺伝的に決定される度合は低い。しかし、人間の場合は、そうであるがゆえにまた、
<遺伝子>だけでなく、ミーム=文化が<私>の意思決定過程に介入するようになる。
しかし、文化は<遺伝子>とかならずしも対立するわけではない。たとえば、男は複
数の女とセックスをしてもいいが、(素人の)女は複数の男とセックスをしてはいけ
ない、という父権的な二重規範を持つ文化は世界各地にみられるが、このような文化
は、自分のコピーを確実に残そうとしている男たちの<遺伝子>の繁殖戦略の延長線
上にある、といえる。たしかに父権的な文化が遺伝的な制約を離れて自律的に展開し、
ほんらいの遺伝的なプログラムに反するところまで肥大化することもあるが、いっぽ
うで現代の地球上でもっとも近代化した都市社会で、頻繁な離婚や婚外性行動など、
性を生殖から切り離して社会的なネットワークの拡大に役立てるという、狩猟採集民
的な行動パターンが急速に復活してきているのも事実である。社会生物学から派生し
た進化心理学は、ヒトの脳の生得的な情報処理のアルゴリズムが、狩猟採集経済にも
とづくバンド社会における淘汰圧のもとで形成され、その後現在に至るまでほとんど
変化していないと主張する。現代の都市社会で起こってきた「性革命」は、じつは、
狩猟採集民的な生得的情報処理パターンがいまだに存続しつづけていることの証拠で
はないだろうか。
どんなに文明が「進歩」しても、われわれの身体の基本構造は太古の時代のまま変
わらない。多細胞の個体は、<遺伝子>にとっては自らを次の世代へと受け継いでい
くための一時的な乗り物にすぎない。いっぽう、われわれの脳から発生する自我は、
この細胞たちのかりそめの集合体こそがかけがえのない<私>だと認識する。しかし、
脳は、<私>に、狩猟採集社会で繁殖成功をおさめるための性欲をひととおり送り込
むという役割を終えると、たかだか数十年で他の体細胞と同様に自滅してしまう。こ
れはやはり不条理だ。
しかし、改めて考えるなら、意味もなく生まれ、意味もなく死んでいく、孤独で、
かけがえのない実存的主体としての<私>、などというものは、近代ヨーロッパがつ
くりだした自意識過剰な文化の産物にすぎないのかもしれない。
じっさい、これに対して、ほとんどすべての非・近代文化では、霊魂と肉体は別の
もので、肉体は死んでも霊魂としての<私>は存続すると考えられてきた。それをさ
らに徹底させたインドの哲学的伝統によれば、そもそも認識や行為の主体としての<
私>などというもの自体が妄想であり、もし仮に真の自己とでもいうべきものがある
とすれば、それはこの宇宙それ自体以外にありえない、とされる。瞑想、つまり自己
の心の働きをよく観察することによってそのことに気づけば、個々の<私>が生まれ
たり死んだりすることは意味を失う、というのだ。社会生物学は「生」の主体を<私
>から<遺伝子>へと移行させることで<私>の不条理を解消しようとするが、瞑想
哲学はそれを<私>から<ブラフマン>あるいは<空>へと移行させることでその不
条理を解消しようとする。両者の論理には類似性があるが、後者のほうがよりラディ
カルである。
ところで、こうした「霊的な」思想はたんなる空想上、論理上の観念にすぎないわ
けではない。臨死体験に典型的にみられるような体外離脱体験においては、じっさい
に<私>が物質的な身体から独立しているかのよう現象が体験される。トランスパー
ソナル体験においては<私>と他者や外界との区別が消滅する。これらは、少なくと
も経験的な事実である。しかも、もし超心理学が積み上げてきた実験結果が正しいと
するなら、これらはたんなる主観的な体験ではなく、ある意味では客観的な現象でも
あるということになる。もちろん、行動主義の影響を受けた実験超心理学が示してき
たのは、霊魂や死後の世界が実体として存在するということではない。そうではなく、
脳の働きが古典力学的な意味での時空の制約を超えうるという可能性である。ただし
それはあくまでも可能性であって、超心理学実験が示してきた、「サイ」という相互
作用の実在にかんする統計的な有意性を(実験手続き上の誤りという以外に)満足に
説明できる理論は今のところない。
人間社会の原型である、狩猟採集民のバンド社会では、シャーマニズムが社会の中
心的なイデオロギーとして機能している。もしシャーマンが、共同体の成員が信じて
いるように、ほんとうに予知や透視の能力のようなものを持っているのだとしたら、
「非局所的」なリアリティを認識する能力もまた脳に組み込まれた生得的なプログラ
ムなのかもしれない。じっさい、シャーマニズムなどとは無縁な文化で生活している
現代の都市民でも、サイケデリックスなどの物質を使用すれば、容易にシャーマン的
な意識状態を引き起こすことができる。しかし、そのようなリアリティにチューニン
グするような意識状態は、集権的な社会構造を維持するためには有害なものでもある。
だから、バンド社会以外の多くの人間社会はそれを、平常時には周縁的なものとして
抑圧し、しかし必要なときにだけ「聖なる」力として活用する文化を発達させてきた。
さらに、近代社会はその抑圧を恒常的なものにしてしまおうとしてきた。近代社会は
そのような意識状態やそれを引き起こすための技術を、非科学的な「迷信」、治療さ
れるべき「狂気」、反社会的な「麻薬」として排除してきた。しかし、にもかかわら
ず繰り返されるシャーマニズム的カルト運動やサイケデリックスの流行などは、「性
革命」と同様、やはり、狩猟採集生活で形成された脳の生得的な情報処理のパターン
がいまだに存続しつづけていることの証拠なのかもしれない。
やはり、われわれの脳は、狩猟採集社会でより多くの<遺伝子>を残すような行為
に欲望を感じ、快楽を感じるようにプログラムされているのだろうか。しかし、もし
そうなら、これは逆手に取ることもできる。もしも<私>が感じる快楽というものが、
脳内の化学的な反応のあるパターンであるのなら、われわれの人生における歓びや悲
しみも、すべて脳内のある化学的な反応のパターンによって作りだされているという
ことになる。逆にいえば、その定型的なパターンを解明し、脳内に適切なパターンの
化学的変化を起こさせれば、原理的には外界の出来事とはまったく無関係に各種の快
楽や幸福をつくりだすことができる。たとえば快楽を引き起こす薬物の使用は人間が
古くから開発してきたそのような技術のひとつである。無論、そのような方法を全面
的に肯定するような文化は存在しえなかっただろう。<遺伝子>の繁殖につながらな
い行為を奨励するような文化を持った集団は絶滅に向かわざるをえない。
しかし、<私>という意識が脳内のニューロンのあるパターンにほかならないのな
ら、そのパターンだけを、生物学的な身体から切り離し、そっくりコンピュータに移
植してしまうことさえ、原理的には可能である。それは、<遺伝子>によってプログ
ラムされた身体による支配からの、<私>の決定的な解放になるかもしれない。それ
は、社会生物学でも、瞑想哲学でもない論理で、孤独に死にゆく<私>の不条理を解
決しうる。(ただし、この思考実験は、そのようにコピーされた<私>は、それ以前
の<私>と同じ<私>なのだろうかという新たな問題を生みだす。)
地球上の全人類が、数十年以内に訪れる<私>の死という不条理に直面している。
プレ・モダンな血縁主義や神秘主義に逆行する誘惑に抵抗しつつ、われわれは、近代
ヨーロッパ的な<私>という概念からいかに解放されうるだろうか。
(C) 蛭川立 1999
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