心脳問題Request For Comments
Mind-Brain Request For Comments
RFC4 Qualiaの不在
Received 10 September 1999
Accepted 10 September 1999
In this paper I show an aporia which both a subjectivist view and a functionalist view of qualia have in common, and try to change the view of qualia in order to solve the aporia. The aporia of the qualia problem is this: as long as we take a subjectivist view or a functionalist view, qualia must shift either into something other than qualia, or just into nothing. A solution of the aporia which I try to present is: qualia is neither something nor nothing, but an uncompleted absence.
qualiaについての議論は、qualiaの特殊性や独自性を肯定的に論じる側と、否定的に論じる側との対立になる傾向がある。そして、その対立図式の中では、qualiaの問題はある隘路に陥る。そこで、qualiaの問題を、その対立図式とは別の仕方で捉えることが、本稿の課題である。この課題の一つの焦点は、対立する「主観主義」と「機能主義」の双方が共有してしまう「qualia問題のアポリア」を取り出すことであり、もう一つの焦点は、「qualiaの不在」における「不在」を別様に解釈することである。
「意識」の問題は、物理主義的・機能主義的アプローチにとっての「障害」として捉えられることがある。まるで、「意識」という領域は、「心」への物理主義的・機能主義的アプローチが挫折してしまう「異質なもの」であるかのように。「意識」が「異質」であるのは、それが直接体験されるしかない主観的なものであり、客観性と主観性との間には消去不可能なギャップがあるように感じられるからである。「意識」は、それが異質で特殊なもののように感じられるとき、哲学的な問題となる。
qualia とは、さしあたり、「主観的なあり方とはどのようなことであるかという、その質的なあり方」のことであり、意識の主観的なあり方の中でも最も主観的とでも言うべき「感触」としておこう。例えば、私が実際に痛みを感じているときの、その痛みの「痛さの生の感じ」が、qualiaだと言われる。このような qualiaの存在 は、「意識」への物理主義的・機能主義的アプローチが取りこぼしてしまうものとして持ち出されることが多い。どんなに精巧なロボットを作り、私たちの「痛み」の脳状態やふるまいをシュミレートしたとしても、そのロボットには結局「痛み」のqualiaが欠けているので、ほんとうは「痛くない」のだ、というように。物理主義的・機能主義的アプローチは、心的状態を物理的状態や機能的状態として捉えようとするので、「意識」の核心的要素である「主観的体験の<質>」の存在を取り逃がしてしまい、原理的に「意識」を捉えることができない、というわけである1。
qualiaの存在の特殊性・独自性を擁護する議論は、次のような二つの方向に分けることができる。一つは、「私たち」は、qualiaをすでに手にしていることを前提にした上で、そのqualiaの「不在」や「逆転」を想定して、機能主義的アプローチの挫折を示そうとする議論である。もう一つは、「私たち」とは異なる生物、例えばコウモリのqualiaは、「私たち」にはついに捉えることができないことを示そうとする議論である。前者は、「私たち」の主観的体験の<質>が、心的状態の機能主義的な記述からは抜け落ちることを指摘し、後者は、「私たち」の記述や理解によっては捉えることのできない異者の主観的体験=事実が存在することを指摘する。「主観的体験の<質>」が、前者では「最も身近な直接的体験」であるが故に記述不可能であると捉えられ、後者では「遠く離れた異者の体験」であるが故に、認識も記述も不可能であると捉えられている。
第一の方向は、次のようにqualiaの「不在」や「逆転」を想定する2。例えば「痛み」という心的状態に、十分な科学的記述(脳状態や機能的状態の記述など)が与えられたとしてみよう。その記述を完全に満たしながら、なお「痛みの感覚そのもの」「痛みの<質>」が欠如している「特殊人間」を原理的には想像することができると言われる。つまり、その「特殊人間」は「完璧な超人演技者」で、あらゆる振る舞い(しかるべき時には「痛い」と言ったり泣いたり等)や脳内状態すらシュミレートでき、他の様々な心的状態に関しても「私たち」とまったく区別がつかないが、「痛みの<質>」だけは欠落しているとする。この「完璧な超人演技者」のように「qualiaの不在」が想定できてしまうことは、機能主義的アプローチの不十分さを示していると言われる。なぜならば、「痛みの感覚そのもの」がないにも関わらず、その「完璧な超人演技者」は、機能的な記述の下では「痛み」という心的状態を持つことになってしまうからである。
また、AとBという二人は、機能的な記述の下では、それぞれ「赤く見えている」と「青く見えている」という心的状態にあるとしてみよう。Aは、赤い色見本に対して「赤」と答えるし、赤信号では車を停止するし、その他のふるまいにも何の齟齬もないし、脳内状態もしかるべき状態であり、Bもまた同様に「青く見えている」と言っていい心的状態にあるとしよう。それにもかかわらず、AとBとは特殊な人間であり、Aは「赤く見えている」という心的状態だとされる時には実は「青のqualia」を、Bは「青く見えている」という心的状態だとされる時には実は「赤のqualia」を持っている、ということは可能であると言われる。qualiaが逆転しているにもかかわらず、それ以外はすべて「私たち」と同じなので、その特殊さは決して表面化しないのである。AとBは「逆転したqualia」を持っていながら、機能的な記述の下では、その「逆転」は表現され得ないというわけである。
この第一の方向では、「私たち」が主観的に体験している「心的状態の<質>」は、「心的状態」の客観的な記述では捉えることができないものだと考えられている。
第二の方向は、「私たち」とは異なる身体組織・構造を持った生物のqualiaに焦点を合わせる。qualiaを、「Xであるとは、そのX自身にとってどのようなことであるか」という「体験の主観的で質的なあり方」と捉えてみよう。例えば、T.ネーゲルによれば3、「コウモリであるとは、コウモリ自身にとってどのようなことであるか」は、たとえコウモリの生態や身体構造等をどれほど詳しく知り、また「私たち」の経験から類推したとしても、結局は「私たち」の認識能力の限界を超えることなので、認識も記述も不可能なものである。にもかかわらず、コウモリにはコウモリ自身の「主観的で質的な体験のあり方」は存在するはずである。つまり、「私たち」の概念装置・認識構造によってはけっして捉えられない異なる「主観的体験=事実」が存在するのであり、コウモリのqualiaとは、そのような「私たち」には到達不可能な「遠く離れた事実」であると言われる。
この第二の方向では、「私たち」が決して認識することのできない、異者の「主観的体験の<質>」の存在を認め、それを「意識」への物理主義的・機能主義的アプローチが捉えることのできないものと考える。
こうして、qualia(主観的体験の<質>)は、意識体験の最小限の核であり、体験者X自身の視点からのみ捉えられるものであって、それは二重の意味で物理主義的・機能主義的アプローチが及ばないものであると考えられていることになる。すなわち、客観的・科学的な記述は、「私たち」が体験しているqualiaを捉えることができないし、さらに「私たち」の認識能力は、異者のqualiaへは決して届かない。したがって、客観的・科学的な記述は、最も近い「私たち」のqualiaにも、最も遠い「異者」のqualiaにも及ばないのである。これらの二方向では、qualiaとは、主観的には最も近く、客観的には最も遠い「何かあるもの」「完結した事実」だと考えられていることになる。
上述したようなqualia観(主観主義者のqualia観と呼んでおく)が、qualiaを、完結した「何かあるもの」、充実した「事実」として捉えていることに、本稿は同意できない。つまり、次の3点において、主観主義者のqualia観は、改変すべきであると考える。
(1) 「私たち」のqualiaが、「最も近い直接的体験」として捉えられている点。
(2) 「異者」のqualiaが、到達不可能な「遠く離れた事実」として捉えられている点。
(3) qualiaと科学的記述との「ギャップ」が、主観性と客観性との「ギャップ」として捉えられてい る点。
ただし、主観主義者のqualia観が不適切であるということは、また、そのアンチテーゼとしての、qualiaへの物理主義的・機能主義的アプローチにも同様の「死角」があるということでもある。いわば、以下の見方の変更は、主観主義者とその反対者の両方のqualia把握に同時に及ぶものとなる。まずは、主観主義者のqualia観に対する機能主義的反論を見てみよう。
主観主義者のqualia観に対して、次のような二つの方向の機能主義的反論が考えられる4。
(α) 機能主義的アプローチは、1.で述べたようなqualia=「主観的体験の<質>」を、「科学」にとっては無縁のものとして無視しようとするかもしれない5。例えば次のように。「ある心の状態」(X)にとって本質的なのは、Xという心的状態が、その原因・結果や他の心的状態との関係においてどのように特徴づけられるかであり、Xがどのような質的状態を伴うかは、その関係のネットワークにとっては偶然的なものにすぎない。例えば、「痛み」という状態が、他の心的状態ではなくまさに「痛み」の状態になりうるのは、それがいかなる状況で生じ、他の心的状態とどのような関係にあるか等の「関係性」「概念的位置」によってであり、「痛み」の<質>が主観的にどのように感じられるのかとは独立である。したがって、qualiaは、機能主義的アプローチからは偶然的で無関係な要素として排除することができる。
(β) あるいは逆に、機能主義的アプローチは、1.で述べたようなqualia=「主観的体験の<質>」を、機能的な記述の中に取り込めるものと考えるかもしれない6。例えば次のように。「痛み」という心的状態からは、主観的体験の<質>を排除することはできないし、その必要もない。なぜならば、「痛くない痛み」は矛盾であり、「感覚」「主観的体験」は、むしろトートロジカルに<質>を含むものだからである。つまり、「痛み」という感覚には「痛み」という<質>が、「鈍痛・激痛・疝痛 ... 」という感覚にはそれぞれに対応した<質>が、そして「主観的体験」には各主体の視点に依存した<質>が、すでに意味として含まれている。そこで、感覚の<質>は、感覚をどのように記述するかという「差異」と切り離せないし、「主観的体験」の<質>は、「それぞれの主体にとっての」という視点の複数性(=主観の客観性)を前提にしている。したがって、qualiaは、機能主義的アプローチの届かない「異質なもの」ではありえない。qualiaには記述的な「差異」と視点の「客観性」がすでに組み込まれているのだから、機能的な記述を与えることができるのでなければならない。
(α)は、qualiaを、機能的な記述には無関係で偶然的な要素として捨て去ろうとし、(β)は、qualiaを、機能的に記述可能な「差異」として回収しようとする。しかし、それぞれの方向は、以下で述べるようなアポリアを孕んでいる。そして、この二つの機能主義的反論を照らし合わせてみるならば、「qualiaの消去」(α)と「qualiaの機能化」(β)という一見逆向きの機能主義的反論が互いに他を前提し合っていることが分かるだろう。
もしqualiaが、(α)の言うように心的状態の機能的な記述からは独立で、機能的な関係のネットワークの外にあって、まったくの偶然的な要素にすぎないとするならば、そもそも、排除され無視されるのが「何」であるのかさえ分からないはずである。qualiaは、それが「感覚の<質>」であれば「感覚」の機能的記述と、「鈍痛の<質>」であれば「鈍痛」の機能的記述と結びついてしまうし、たとえ言葉につまって「いわく言いがたいこの感触」と言ってみても、まだqualiaは、機能的な関係のネットワークの外にあることにはならない。もし、qualiaが、それらの関係性を全て取り去ったまったくの「非関係的な孤立物」だとすると、それは最低限「何」であるのかさえ分からなくなってしまう7。(α)では、qualiaの「非関係性」「偶然性」を捉えようとするが故に、無視されるqualia自体が「何」であるのかが捉えられなくなる。
一方、qualiaが、「何」であるのかが捉えられてしまうとするならば、(β)の言うようにqualiaは、差異と客観性に基づいて機能的に記述できるのでなければならず、qualiaの「非関係性」「偶然性」という特徴は抹消されてしまう。(β)では、qualiaを「一つの差異」として、機能的な関係のネットワーク内に位置づけるので、あらかじめqualiaからは「非関係性」「偶然性」が失われている。そこで、qualiaが「何」であるのかが捉えられてしまうと、qualiaの「非関係性」「偶然性」という問題性自体が、そもそも消えて無くなってしまう。
この(α)(β)のアポリアを照らし合わせてみるならば、qualiaは、機能的記述のネットワークの外に追い出して無視することも、また、ネットワーク内に取り込んでしまうこともできない、というあり方をしていることになる。そのあり方は、(α)と(β)という二つのアプローチが、一見逆向きでありながら、互いに他を前提し合うことの中に現れている。すなわち、(α)で偶然的なものとして無視されるもの=qualiaは、それが「何」であるかが捉えられると同時に、(β)における記述的な「差異」として捉えられて、「非関係性」「偶然性」が消えてしまう。そこで再び、偶然的なものとして無視されるもの=qualiaは、その必然的な「差異」からは逸れてしまう「何かあるもの」としてのみ理解される。そしてまた、その「何かあるもの」は記述的な「差異」として捉えられて ... 。この(α)ヒ(β)の「往復運動」に終わりはない。だからこそ、機能主義的反論として、(α)か(β)のどちらか一方のみを選ぼうとするならば、それはアポリアに陥るのである。
この同じアポリアは、主観主義者のqualia観に基づいたqualiaが不在である想定、すなわち、完璧な演技を行える「超人」の想定の中にも、読み取ることができる。(α)(β)に対応する事態を、まず(β)から述べてみよう。
(β)「痛みの生の感じ」だけが抜け落ちた「完璧な超人演技者」の想定は、ある意味では理解可能である。というのも、欠けているqualiaとは「何」であるのかが、「痛みの生の感じ」という記述によって指定されうる限り、それがある状態とない状態は差異づけ可能なものとなり、qualiaの不在は機能的な関係のネットワーク内に位置づけられ、機能的な差異として理解できてしまうからである。つまり、「完璧な超人演技者」のqualiaの不在は、「痛み」を感じていないのに「痛いふり」をするという私たちの「演技」を基に、アナロジーによって理解されてしまう。qualiaを欠いた「超人」は、「私たち」と同様の演技を、ただし極度に完璧に遂行しているものとして理解されてしまうのである。換言すれば、qualiaの不在という想定を、機能的な差異以上の何かの不在として想定しようとしても、それは必ず機能的な差異の中での不在として理解されてしまうのである。
(α)一方、「完璧な超人演技者」の想定は、ある意味では理解不可能である。というのも、「完璧な超人演技者」が「完璧」であるためには、その超人演技者には、通常のふるまいやしかるべき脳内状態だけでなく、機能的な差異として理解されてしまう「痛みの生の感じ」も、その超人に帰属させた上でなお、qualiaだけが欠如しているという想定でなければならない。「痛みの生の感じ」がある場合とない場合の機能的な差異があり、「ほんとうは痛くないのだ」と言えてしまうのでは、まだ「完璧な」超人演技者とは言えないからである。「完璧な超人演技者」の想定とは、機能的な差異としての「痛みの生の感じ」も十分にあるのに、なおqualiaだけが不在であるという想定でなければならない。ところが、こうしてqualiaを機能的な差異から孤立させて「完璧」なものにしようとすると、qualiaは機能的な関係のネットワークから放逐されて、qualiaの不在とはそもそも「何」の不在であるのかさえ分からなくなってしまう。
「完璧な超人演技者」の想定は、機能主義的アプローチの「挫折」を示すために、主観主義者により提示されたものであった。しかしその想定は、理解されてしまうならば、機能的な記述に取り込まれうるし、機能的記述の外にqualiaを位置づけようとするならば、その想定自体が理解されえなくなってしまう。つまり、(α)(β)のいずれも、qualiaの問題自体を立ち上げることができないのである。
一見逆向きの(α)(β)は、実は、互いに他を前提し合っており、その「往復運動」は終わらない。すなわち、(α)で欠如していると想定されるqualiaは、それが欠如している「何か」として捉えられると同時に、(β)における機能的な「差異」として捉えられて、「完璧な超人演技者」は「通常の演技者」へと移行する。そこで再び、qualiaの欠如は、通常の「ふり」のようには「ほんとうは...」と言うことのできない「何かあるもの」としてのみ理解される。そしてまた、その「何かあるもの」は、拡張された「ふり」に欠如した機能的な「差異」として捉えられて ... 。この(α)ヒ(β)の「往復運動」に終わりはない。これは、一見逆向きの機能主義的反論が、互いに他を前提にしてしまうのと同じ事態である。
結局、「主観主義者」の側にも「機能主義者」の側にも、qualiaについての同型のアポリアを見ることができる。つまり、qualiaは、qualiaとは別の「何かあるもの(something)」に移行してしまうか、「単なる無(nothing)」になってしまうかであるというアポリアである。そして、このアポリアを回避するためには、qualiaを、(α)と(β)の「共犯関係」の中で受け渡され続ける「あるもの」としてではなく、むしろその「往復運動」自体として捉え直すべきなのである8。
見方を変更しよう。「私たち」のqualiaは、機能的に記述されるものでも、またその記述とまったく無縁なものでもない。換言すれば、qualiaは、機能的記述によって差異化され指定が完結する「何かあるもの」でも、まったく差異化されえない「単なる無」でもない。むしろqualiaとは、「鈍痛の<質>」と比べた場合に「痛みの<質>」には欠如していて、さらに「鉛のように鈍く重い痛みの<質>」と比べた場合に「鈍痛の<質>」には欠如していて、さらに「いわく言いがたいこの重だるい感触」と比べた場合に「鉛のように鈍く重い痛みの<質>」には欠如していて ... というように続く、機能的差異に対しての差異化である。換言すれば、qualiaは、完結せず繰り返される欠如として、機能的記述の連鎖の中に織り込まれているものなのである。
確かに、どんなに細密に機能的記述を与えたとしても、qualiaには到達しえないのだが、それは、qualiaが「最も身近な直接的体験」だからではなく、原理的に完結しない「不在」として働いているからなのである。その「不在」を「最も身近な直接的体験」で埋めようとしても完結しないことが、qualiaなのであって、「私たち」はqualiaを「直接的体験=何かあるもの」としてすでに手にしているわけではない。2.で述べたqualia問題のアポリアは、この「完結しない不在」を、「不在を埋めるもの」(=何かあるもの)と「不在それ自体」(=単なる無)とに無理に分離しようとすることから生じていたのである。「完結しない不在」とは、二つに分離できる概念ではなく、「記述で欠如を埋め続けること」と「それが完結しえないこと」とが一つになっているものとして理解すべきでなのである。
「主観性」と「客観性」の間にある消去不可能なギャップというqualiaの問題点に関しても、同様のことが言える。
qualiaが「主観的な直接的体験」として捉えられてしまう場合には、すでにその主観性は客観的なものである。なぜならば、体験者自身の視点からのみ捉えられる体験の<質>があるということ自体は、その体験者以外の視点からも容認できる「客観的なことがら」だからである。主観的な視点の成立は、同時に客観的な視点の成立を伴ってしまうのであり、「主観性」は客観的な「主観性」でしかありえない。その意味で、「主観性」と「客観性」とは、相即的である。
しかし、qualiaを「完結しない不在」として捉えるならば、事情は異なる。qualiaはむしろ、客観的な「主観性」によっては埋めえない不在をこそ指し示していることになる。すなわち、複数の視点の中の一視点として「主観性」が把握されてしまうことによって、あらかじめ失われているものの方が、qualiaの領域なのである。しかも、その「あらかじめ失われているもの」は、「つねに失われ続ける」という形でしか登場しえない。つまり、それは完結せず繰り返される不在として、客観的な「主観性」の記述の連鎖の中に織り込まれている。例えば、「それぞれの主観にとってのqualia」ではなく「ある特定の主観にとってのqualia」、いや「ある特定の主観にとってのqualia」ではなく「この主観にとってのqualia」、いや「それぞれの「この主観」にとってのqualia」ではなく... と続けたとしても終わりが「ない」ということが、qualiaと主観性/客観性との間の「ギャップ」なのである。
主観主義者は、qualiaを「私たち」の「最も身近な直接的体験」と捉え、それを物理主義的・機能主義的なアプローチが及ばないものと考えていた。しかし、変更されたqualia観では、qualiaとは、「私たち」の「最も身近な直接的体験」も、物理主義的・機能主義的なアプローチも、共に及ばない「完結しない不在」であり、それは、完結せず繰り返される欠如として、「客観的な主観性」から、あらかじめ失われているものである。
それでは第二の方向のqualia、すなわち「私たち」とは異なる者のqualiaについては、どうだろうか。主観主義者のqualia観では、例えばコウモリの主観的体験は、「私たち」には認識不可能であっても、それでも存在する「遠く離れた異者の主観的体験」であった。いわば、それは認識はできないが存在する「事実」なのである。認識できないが存在する「コウモリのqualia」とは、「コウモリであることは、私たちにとって、どのようなことであるか」ではなく、「コウモリであることは、コウモリ自身にとって、どのようなことであるか」であると言われる。
しかし、「コウモリであることは、コウモリ自身にとって、どのようなことであるか」という問いは、次のどちらかに帰着してしまうように思われる。「コウモリであることは、コウモリ自身にとって、どのようなことであるか」(Q)は、結局「私たち」がそれをどのように捉えるかという問題であるか、あるいは、(Q)はまったく理解不可能な問題であるかのどちらかである。
「私たち」が(Q)をどのように捉えるかという問題であるならば、それは、「私たち」が「コウモリ自身にとってのコウモリであること」を種々の知見に基づいて類推したり想像したりすることに他ならず、「コウモリ自身にとって」とは「私たちが捉えた「コウモリ自身にとって」」である。たとえ、バーチャル・コウモリ・マシーンが私たちの脳を直接刺激して、コウモリ体験がリアルに再現できたとしても、それは「私たちにとっての「コウモリ体験」」である。
一方、「私たち」の視点をまったく離れて「コウモリ自身にとって」を考えようとするならば、(Q)という問い自体が成立しなくなるだろう。なぜならば、仮に「私たち」の視点から完全に離脱して「コウモリ自身」の視点にぴったり重なってしまうとすれば、すでに人間ではなくなっていて、(Q)という問い自体が消滅してしまうはずだからである。コウモリ自身にとっては、「コウモリ自身にとって」という(私たちが考える)主観性すら、そもそも存在しないのかもしれない。
こうして、コウモリのqualiaは、「私たち」が捉えた限りでの「コウモリにとっての」主観的体験であるか、問題にすらできない「単なる無」であるかになってしまう。ここには、「私たち」のqualia場合と同様の、qualiaは別の「何かあるもの(something)」に移行してしまうか、「単なる無(nothing)」になってしまうというアポリアが生じている。
コウモリのqualiaを、認識不可能だが存在する「遠く離れた主観的体験」「完結した事実」と捉えようとする限り、このアポリアが生じる。コウモリのqualiaが「主観的体験」「事実」である限り、それは「私たちが捉えた「コウモリ自身にとっての」」体験として認識可能なものでなければならないし、逆に、コウモリのqualiaが「私たち」の視点からまったく離脱してしまうならば、それは他の生物の「主観的体験」「事実」とすら言えなくなってしまうのである。
ここでも見方を変更しよう。コウモリのqualiaとは、「私たち」が捉えた限りでの「コウモリにとっての」主観的体験でもないし、「私たちにとって」という視点からまったく無縁の、問題にすらできない「単なる無」でもない。むしろ、コウモリのqualiaには、次の二つのことが折り畳まれている。一つは、「私たちが捉えた「コウモリ自身にとっての」体験」はどこまでも未完結で、いくらでも更新されうるということであり、もう一つは、その更新に伴って「私たちにとって」という視点も回帰し続けるということである。私たちが捉えるコウモリの主観的体験は、完結した事実ではなく、「私たちにとって」は原理的に未完結のままであり、それゆえコウモリの主観的体験はつねに開いたままである。一方、その理解が更新されるごとに「私たちにとって」という視点は再び回帰し、「コウモリであることは、コウモリ自身にとって、どのようなことであるかを、私たちはどう捉えているか」という形を取る。この「私たち」という視点の回帰は、「コウモリの主観的な体験」についての「私たち」の知識や理解が更新されていくことに伴って、何度でも繰り返されうる。そして、「私たちにとって」という視点は回帰しながらも、依然、異者の主観的体験は未完結で開かれたままである。こうして、コウモリのqualiaには、「コウモリの主観的体験」の内実が原理的に開かれたものであり続けることと、それに伴って「私たち」という視点の回帰が不可避であること、この二つが一体となって織り込まれているのである。「私たちにとっての異者の主観的体験」は、その「開放性」と「私たちの視点の回帰」とが反復され続けるから到達不可能なのであって、遠くに位置するすでに完結した「事実」だから、到達不可能なのではない。こうして、「異者」のqualiaもまた、「完結しない不在」なのである。
以上、qualiaについての見方の変更とは、qualiaを「直接体験性」や「主観性」あるいは「充実した事実」としてではなく、「完結しない不在」「開放性と視点の回帰」として捉え直す試みであった。1.で述べた主観主義者のquallia観と比べるならば、変更された捉え方は次のようになる。
変更されたqualia観
(1) 「私たち」のqualiaは、「完結しない不在」である。
(2)「異者」のqualiaが到達不可能なのは、「開放性と視点の回帰」の反復ゆえである。
(3) 「ギャップ」は、主観性と客観性が相即的であること自体とqualiaとの間にこそある。
「私たち」の内なる主観性には、「完結しない不在」が内在し、「私たち」の外なる異者の主観性は、「私たちにとって」という視点が回帰しながらも開かれているために、常に「未だない」という形で成立している。こうして、機能主義への反論あるいは擁護というコンテクストでは、「qualiaが不在であること(その可能性・不可能性)」という意味であった「qualiaの不在」が、「(反復され完結しない)不在としてのqualia」へと変更されたことになる9。
この変更を経た上で、アポリアを振り返るならば次のようになる。アポリアとは、qualiaが、qualiaとは別の「何かあるもの(something)」に移行してしまうか、「単なる無(nothing)」になってしまうかである、というものであった。しかし、「反復され完結しない不在としてのqualia」とは、「何かあるもの1(something1)」が「何かあるもの2(something2)」「何かあるもの3(something3)」....へと置き換え続けられても、その記述の移行に終わりがないことであり、その移行に随伴し続ける「不在」に他ならなかった。従って、qualiaは、そもそも確定した「何かあるもの(something)」ではないのだから、アポリアの前半は成立しない。さらに、qualiaは、確かにある意味で「ない」ものだが、その「不在」は記述の移行に随伴し続けて完結しないのだから、「単なる無(nothing)」にはどこまでもなり得ない。結局、変更されたqualia観の下では、そもそもアポリアは発生しないのである。
最後に、qualia観の変更がもたらし得る、主観主義・機能主義とは別の可能性に触れておこう。主観主義者と機能主義者はともに、「反復され完結しない不在」を捉え損なっていた。主観主義者はその「不在」を直接的体験で充填できると誤解し、機能主義者はその「不在」を単なる無と取り違えた。主観主義者も機能主義者も、qualia特有の「なさ」が、当のqualiaに構成的に働くということを見落としていたのである。従って、qualia観の変更が示しているのは、意識や主観性の問題の核心には、当の意識・主観性自体を構成するように働く「不在」「無」が位置しているということであり、意識・主観性の理論はそのような「不在」「無」を巡って組織されねばならないということであろう10。
注
1 qualiaが機能主義的な仕方で説明できないことに注意を促す論考としては、Ned Block, "Troubles with Functionalism", The Nature of Mind, ed. David. M. Rosenthal, Oxford UP, 1991, pp.211-228. Frank Jackson, "What Mary Didn't Know", op. cit., pp.392-394. を参照。
2 Ned Block は、前掲論文において、qualiaの「不在」や「逆転」という思考実験によって、機能主義が心を持たないものにも心を帰属させてしまう「リベラリズム(自由主義)」か、心を持つものにも心を認めない「ショービニズム(排他主義)」に陥ってしまうと批判した。一方、Sydney Shoemaker のように、機能主義とqualiaとのゆるい繋がりによって、qualiaの「逆転」の可能性はみとめるが「不在」は認めず、機能主義とqualiaとの両立を主張する論者もいる。cf.. Sydney Shoemaker, "Functionalism and Qualia", op. cit., pp.395-407. また、土屋俊『心の科学は可能か』(東京大学出版会、1986)pp.53-55の「感覚質の不在」「感覚質の反転」についての記述がたいへん参考になった。
3 Thomas Nagel, "What Is It Like to Be a Bat ?" op. cit., pp.422-440. を参照。
4 N. A. スティリングス他著『認知科学通論』(新曜社、1991)の第8章「哲学―認知科学の基礎」におけるpp.413-417の解説を参照。
5 例えば、Churchland, P. M., and P. S. Churchland, "Functionalism, qualia, and intentionality", Philosophical Topics 12, pp. 121-45. は、科学の領域からqualiaを放逐しようとするし、Daniel Dennett, "Quining Qualia", Mind and Cognition ed. William Lycan, pp. 519-47. は、qualiaの存在を端的に否定し消去する。
6 例えば、L. Davis, "Functionalism and qualia", Philosophical Studies 41, 1982, pp.231-249. は、qualiaと「差異」を切り離せないことについて論じている。そして結局、「差異」は機能的記述へと回収可能なものである。
7 ウィトゲンシュタイン『哲学探究』261節における、次の発言を参照。「...「感じている」や「何か」という言葉にしてもまた、共通の言語に属しているのである。―こうして結局、人は哲学する際に、いまだ不分明なままの音声を発したいという段階に達するのである。」
8 qualia問題のアポリアに対しては、取りうる態度が二つあるだろう。一つは、アポリアが示しているのは、qualia問題の端的な解消であると考える方向であり、もう一つは、以下で述べるように、qualiaを「完結しない不在」として捉え直す方向である。本稿が前者の方向を取らないのは、そもそもqualiaが含む問題性が「擬似問題」として解消しうるものだとはまだ思えないからである。
9 qualiaという「反復され完結しない不在」は、虚構的対象の「非存在」とも、サルトル的な対自存在(etre-pour-soi)の「無」とも、さらに、端的に「ないこと」とも異なる、独特の「なさ」である。この「反復され完結しない不在」と、無関係ではないが異なる水準にある「なさ」の問題を扱った拙稿としては、「「ない」よりもっと「ない」こと」(『駿台フォーラム』15号記念号、駿台教育研究所、1997)を 参照。
10 例えば次のような論考も、同様の方向性を指し示していると思われる。Vincent Kenny & Philip Boxer: Lacan and Maturana : Constructivist Origins for a Third-Order Cyberneticsモ, Communication & Cognition, Vol.25, 1992, pp.73-100. この論考では、主体の問題について、マトゥラーナのオートポイエーシス論とラカンの精神分析理論が組み合わされて、ノートポイエーシス(Naughto-poiesis)ということが主張されている。
付記
本稿は、1996年12月14日、日本認知科学会・冬のシンポジウム―テーマ:意識―における、口頭発表の原稿を修正し、加筆したものである。シンポジウムに参加する機会を提供してくれた三宅芳雄氏(中京大学)、またシンポジウムにおいて貴重な批判的コメントをいただいた土屋俊氏(千葉大学)、山田友幸氏(北海道大学)、および参加者のみなさまに感謝の意を記しておきます。
(山口大学・哲学)
(C) 入不二基義 1997, 1999
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入不二基義 「クオリアの不在」 日本科学哲学会『科学哲学』30,1997年11月, pp.77-92.
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