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心脳問題Request For Comments 

Mind-Brain Request For Comments

 

RFC2 「私がクオリアと遭遇した日」

Received 15 August 1999

Accepted 16 August 1999

 

柴田 孝 

富山医科薬科大学 脳神経外科

富山市杉谷2630

g6410103@ms.toyama-mpu.ac.jp

 

<要約>

私は、1999年1月、突然、クオリアと遭遇してしまった。そのとき以来、私の人生

観は大きく変った。自然界に潜む様々なクオリアをあるがままに感じ楽しめるよう

になったのである。そして、環境のクオリアを重視するアフォーダンス思想と出会

い、その思想に徐々に傾倒するようになっていった。物質とクオリアとが共存する

生態学的実存から始まり、様々な異なる世界が共存する創発的時空間へと私の思想

は発展していった。私がクオリアと遭遇した日、その日初めて、今まで無意識とい

う深い闇に閉ざされていた精妙なる五感の世界が私の意識上に顕在化したのである。

 

1、クオリアへの目覚め

 

 誰にでも、人生の世界観が変わる転機はあるのだろう。私にとって、その転機は

、1999年1月のある日、突然、訪れた。いつものように、私は、心地よい音楽が流

れている喫茶店で、何気なくコッヒーカップでブラックコーヒーを飲んでいた。そ

して、ぼんやりと何も考えずに、窓の風景を眺めていた。その窓の風景からは、雲

が広がる青空の下、うっすらと雪がかった壮大な山が聳え立っているのが見えてい

た。そして、私はコーヒーを口に持っていくと、舌が熱く、甘い砂糖の味と苦いコ

ーヒーの味を感じていた。このコーヒーをごくりと飲み込むと、食道に熱いものが

流れていき、自分の胃が熱くなることを感じた。そして、ふと、青い空を眺めると

、白い鳥が海の方角へと飛んでいき、雪がうっすらと大地に降り始めたことに気が

ついた。

 この場面は、誰でもよくある何気ない日常生活の一場面であろう。しかし、この

日は、私にとって何かが違っていた。普段の日常生活で眠っていた私の鈍い五感が

環境に開かれていたためなのだろうか?それとも、単なる個人の幻想的世界へと紛

れ込んでしまったのだろうか? 未だに、本当の理由はわからないし、なぜ私がそ

んな体験をしたのかもわからない。しかし、このときばかりは、今までの自分の感

性が変わってしまう程の衝撃が、突然私に走った。

 「私は、赤いりんごを見ている。」

 このごく当たり前の日常的事実が、私の今まで培ってきた人生観を大きく揺さぶ

ってきた。教科書的にも知識的にも、自分の脳の神経細胞の発火することで、赤い

りんごという映像が作られていることは頭で既に知っていた。何を今さらそんな常

識的なことで感動するのかというヒトもいると思うが、しかし、私は、今まで一度

も人生において赤いりんごを真剣にまじまじと眺め肌で感じたことがなかったのあ

る。恐らく、自分の今生きている日常的環境にさほど注意を向けたり関心がなかっ

たために、どこか人事みたいな感覚で自分の身の回りの環境に接して生活していた

ためだろう。しかし、この日は、なぜか赤いりんごという映像がただ眼前にあると

いう、そのごく当たり前の日常的事実が、私の日頃鈍い感性へ強烈に訴えてきたの

である。

 「なぜ、このりんごがもつ赤さや丸さ、甘さ、固さが、現実の今生きている私の

眼の前にあるのだろうか?」

 こうした疑問が私に湧いてきた。脳内事象であるべきりんごがもつ赤さや丸さ、

甘さ、固さが、現実の今生きている私の眼の前にあること自体が、私には不思議で

仕方がなかった。これは、今まで感じたこともない、言葉で表現しがたい神妙な感

覚を僕にもたらしてくれた。そして、この不思議な感覚のままに、周りの自然をふ

と観察してみた。すると、さらなる不思議な感覚が私を襲ってきた。

「自然には、広大な青い空に浮かぶ白い雲、壮大な雪が積もった山々、ひっそりと

咲く色鮮やかな花々、小鳥達の歌声といった、色、音、形、テクスチャーに満ちて

いるではないか? なんと、この自然という環境と今生きている私とは直接に繋が

っていたのか?」

 この瞬間、私は、今まで自己の狭い物理的な脳内に閉じていた意識が周囲の環境

へと広がっていくことを感じた。さらに、この自己の意識が周囲へ広がっていくの

と同時に、いつのまにか、私という存在が周囲へ溶けて同化して消えていなくなっ

ていた。この自己が消えていなくなることに、恐怖感は全くなく、むしろ、自分が

本来生まれたきた母なる世界へ再び帰っていくような安堵感に包まれていた。そし

て、自然界にある美しい色、形、テクスチャー、音という未知な何かに包まれてい

るといった不思議な感覚は、私の人生で今まで感じたことのない大きな喜びと幸福

な気分をもたらさせてくれた。この喜びと幸福感は大きく、しばらく、私の体内に

留まり、私の体全体や体の隅々にまで広がっていった。私はこの感動を何度も確か

めるために、その日、何度も何度も、真剣に赤いりんごを直接見て、触って、感じ

てみた。自らの生きている五感を総動員して、眼の前の赤いりんごの存在の正体を

確かめるために、一心にそこに本当に何が存在しているのかを、己の知覚だけを信

じて確かめてみたのである。そして、何度も何度も、りんごをまじまじと見ては、

そこには赤くて丸い物体が、何度触ってみても、硬い未知な何かが、確かに環境に

存在していることがわかってきたのである。しかし、それが何であるのかをうまく

言葉で表現できなかったが、物質とは異なる未知な何かであることは確実だった。

そして、偶然、それをうまく表現してくれる言葉と出会ったのである。その言葉が、

クオリアであった。そこで、初めて、私は、五感のクオリアを直接見て、触れてい

たのだと理解した。 

 そのとき以来、私は、なぜか、環境の中に潜む五感のクオリアを自分で散策し、

楽しめるようになっていた。自然の中を歩いていると、今まで気づかなかったこと

に気づくようになっていた。突然、河から白い鳥が飛び出すことを眺めたり、緑々

しい木々の存在を肌で感じたり、ありの行進に驚いたり、黄色い蝶の舞いなどを見

つめたり、自然界で密かに行われている創造的な営みに対して、従来の感性では考

えられない感性で感じ始めていた。そして終には、従来の物質的世界観の常識に反

して、自分の生きている環境には、物質で構成された物理的時空とは別に、自然界

のクオリアがすでに環境に実在している時空があるのではないかという考えが脳裏

を掠めたのである。

 

2、物質とクオリアの生態学的共存

 

 しかし、私は、ここで、冷静になって考えてみた。この自分の今体験したことを、

できるだけ、理論的に説明したくなったのである。この私の体験は、脳科学的に、

脳内の神経細胞が発火したお陰で、りんごを見ていることになっている。つまり、

私の今体験したことは、個人の脳の作り出す単なる幻想であるのかもしれない。し

かし、今の私にとって、環境に自然と溢れている様々なクオリアが脳の作り出す単

なる幻想であるとはどうしても信じがたかった。そして、クオリアが個人にしか存

在しない幻想であるのかどうかを議論するよりは、いかに、この私の感じている様

々な美しい自然のクオリアを説明することの方が断然魅力的だった。それにしても、

脳内の神経細胞の発火と、自分の生きている日常生活を支えている五感の世界とは、

あまりにも違いすぎた。この果てしない底なしの世界観のギャップを私は肌で直接

痛感した。この不思議な感覚は、人生で始めて、五感のクオリアを知性でなく体験

した瞬間であったといえる。

 そして、さらに不思議な体験を日々重ねているうちに、この自分の感覚を説明で

きるようなアイデアが浮かんできた。それは、この眼の前の赤いりんごをぼんやり

と眺めていると、りんごという分子や原子で構成された物質的な映像と、今自分が

眺めている赤いりんごというクオリア的映像が、同時に重なって見えてきたためで

ある。つまり、この赤いりんごという3次元映像のもつ現実感が、従来の物質的な

世界観以上に私には確かな存在に思えてきたわけである。このアイデアから、私は、

物質とクオリアの共存モデルという概念にたどり着いた。この共存モデルは、私が

現在生きている世界観に少しでも近づくために、強引に考えたモデルであった。そ

して、私は、ギブソンの提唱したアフォーダンス思想と出会い、このアフォーダン

ス思想に徐々に傾倒していった。このアフォーダンス思想とは、脳内よりも環境を

重視する思想であり、私達の環境を客観的特性でも主観的特性でもない生態学的実

在として捕らえている。そして、アフォーダンス的知覚とは、有機物の行為が、環

境の中に既に実在している多数の意味と価値を発見することであり、つまり、人は、

広大な潜在的な可能性の情報の海を探索することで、その情報をピックアップして

直接知覚していることになっている。私は、情報が人間の内部ではなく人間の周囲

にあると考える、ギブソンの提唱した生態学的実在こそが私達の環境を本当に理解

するために必要な概念なのだと直感した。そして、生態学的実在の概念をクオリア

に適応し、私達の環境を物質とクオリアの共存した生態学的実存を基盤とすること

で、知覚の本当の謎が解けるのではないかと考えるようになった。

 しかし、果たして、本当に、生態学的実存が示唆するように、脳以外の複雑な物

質の集合でもクオリアが生じる可能性はあるのだろうか? 現在の科学で、脳とい

う物質の部分集合だけの特殊性を第一原理で示せない以上、脳以外の複雑な物質の

部分集合でもクオリアが生じる可能性があるとだけはいえる。つまり、まだ、単な

る複雑な物質の部分集合で生じる公共的クオリアの可能性はあるのである。この自

然界の脳以外の物質の相互作用が織りなすことで生じる公共的クオリアの一例には

、「空の青さ」があるだろう。

 「地球の空は青い。」

 これは、多くのヒトが認める単純な日常的事実である。現在の脳科学では、この

空の青さとは、ヒトの脳内の神経細胞の発火することで生じていることになってい

る。つまり、空の青さとは、ヒトの脳内で情報処理された結果であると説明してい

る。ここで50億人の地球上の人類が一つの空を見たと仮定しよう。それぞれの5

0億人の脳内には、それぞれ異なった青い空が自動的に再現されるだろう。しかし、

この50億人のヒトの脳内にしか青い空が存在しないと考えるのは、私にはなぜか

奇異な感じを覚えて仕方がない。むしろ、私は、50億人の脳内で情報処理される

以前に、人類共通となる原始的な、空のもつ青色という公共的クオリアがあって知

覚の基盤を支えていると考えた方が、うまく知覚を説明できるような気がするので

ある。ここで、視覚の役割を考えてみると、視覚とは、もともと外界に実在する物

体の情報をもう一度、脳内で再現するために必要な器官だったはずである。生命の

進化の過程で、初めてヒトという種が誕生し、その特殊なヒトの脳内の情報処理だ

けで、空の青さというクオリアが創発的に生じたとする仮説は勿論ある。しかし、

それ以外に、もっと素直な単純な発想で、生物が進化する以前に存在していた自然

界の物質の複雑な相互作用のみで創発的に生じていた空の青色というクオリアを、

ヒトの脳が進化していく過程で積極的に利用できるようになったという生態学的実

存仮説もあると私は思うのである。視覚の役割とは、もともと外界に実在している

物体からの情報を、網膜で一旦失い、それを脳内で再び再現することにあることを

考えれば、むしろ、この物質とクオリアが共存する生態学的実存仮説の方が外界と

内界のバランスがとれて、自然に思えてくる。古来の人類誕生以来、自然界の空に

元来実在する青色というクオリアは、その青さを無償に全ての人類に提供している

のである。

 

3、創発的時空間

 

 最後に、この生態学的実存仮説をさらに発展させていろいろ考察してみた。今の

私にとって、生きている環境とは、物質を含む物理学的時空間以上のものと感じて

いる。つまり、私の生きている環境とは、私にとって、物理的時空間を当然含んだ、

さらに高次の公共的クオリアも含む、もっともっと意味や可能性に満ちた、予期

せぬ出来事が起きる一回限りの創発的時空間だということである。この創発的時空

間とは、具体的には、物質の世界、五感の世界、数学の世界、言語の世界、夢の世

界、記憶の世界、感情の世界、私の世界など、全く異なる世界をパラレルに含む多

様な時空間のことである。そして、私という高次な特異的存在が、脳内に潜む多数

の神経細胞を発火させることで、それぞれ自然界に創発的に元来存在していた異な

る未知な世界への扉を開くことが可能となっていくのである。脳とは、進化の過程

でこの未知な世界を積極的に取り入れてきたのである。ヒトの脳内には、まだまだ

未知な世界が隠されているのである。例えば、子供の頃、人生で初めて物質的世界

へと接触し、その物質のもつ自然の秘密に魅かれた人は物理学者になり、また、五

感の世界へと接触し、その五感のもつ感性の秘密に魅かれた人は、絵画や音楽など

の芸術家になることだろう。また、言語的世界へと接触したヒトは、その言語のも

つ底知れぬ魅力に魅かれ、言語学者や哲学者になるのかもしれない。また、数学の

世界へとまともに接触したヒトは、勿論、数学者になることだろう。つまり、それ

ぞれの世界が、それぞれの独自の魅力を持ち、確かにこの宇宙に実在していている

のである。しかし、残念なことに、私達には、このお互いの異なる世界同士を結び

つける自然法則をまだ見つけていない。

「なぜ多様な異なる世界という創発的時空間が、私達の環境に潜んでいるのだろう

か?」

 その答えは、今の私には、自然がそのような時空間になっているのだから仕方が

ない、今の段階では自然から謙虚に学ぶだけだとしかいえない。でも、私達の環境

には、自分が未だ知らない未知な世界があることを知ることで、私を頂点とする高

次な特異点から、今後ますます、その異なる時空間同士をアクセスしやすくなり、

異なる世界を観賞しやすくなることだろう。きっと、それは、20世紀、闇に閉ざ

されていたヒトの無意識という広大な暗黒宇宙空間への旅行の始まりを意味してい

るのかもしれない。21世紀を間近に控えた今、ヒトの暗黒の無意識の世界が、徐

々に意識化顕在化されつつあるのである。

 今、当時を振り返り思い返してみると、私が初めてクオリアと遭遇した日、それ

は、今まで無意識の世界であった五感の世界へと、私がダイレクトに接触したこと

ができた初めての日ではなかったのだろうか? 五感の世界とは、五感を確かに感

じることが出来る人にとって、物質の世界や言語の世界と同様に確かな存在なので

ある。普段は、五感の世界は、無意識のベールで隠されているが、私という高次な

存在が、無意識の暗やみの世界へと深く深く侵入することで初めて発見できる、暗

い闇を抜けた先にある明るく世界を照らす精妙な不思議な世界なのである。今の科

学では、この五感の世界の証明は、説明不可能で論理を既に超えているかもしれな

い。しかし、五感を肌に感じている私にとって、今できることは、この自然界に潜

む五感の世界というあるがままの事実を謙虚にそのまま受け止め、その事実を少し

でも理論的に説明しようと試みるしかないと思っている。そして、この自然の精妙

なる摂理に少しでも肌で直接感じ、そこから謙虚に学び、それを理性で説明しよう

とする努力の中にこそ、次の新しい21世紀の未知な壮大な世界観が待っているに

違いない。

 

参考文献

James J. Gibson, (1979), The Ecological Approach to Visual Perception.

Lawrence Erlbaum Associates.

(C) 柴田孝 1999

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