RFC Listに戻る

 

RFC#18

志向性の彼方へ:認知の相対論と行動の実在論

 

柴田 孝

g6410103@ms.toyama-mpu.ac.jp

 

要約

 私達の周りには、容易に超えることのできる人為的国境線と、決して超えることの

できない自然の地平線がある。果たして、私達には、原理的に超えられない自然の地

平線を超えることは可能なのか?この地平線の彼方を超えるためには、自らの志向性

の限界を超えなくてはいけない。人類の英知である二つの考え方、認知の相対論と行

動の実在論との関係を論じながら、志向性の彼方へと至る手法を探った。そして、自

らの志向性の彼方を垣間見ることで、それが、心脳問題解決への糸口に繋がると考察

した。

 

 

1国境線と地平線

  私達の行動は、志向性に導かれている。例えば、医療現場で日常的に行われてい

る手術は、志向性の投影が最初に重要であり、志向性なくして手術は始まらない。ま

ず、志向性に基づく手術計画は、術者にとって、運動を伴う一連の意識の流れとして

昇ってくる。脳神経外科手術では、この自らの志向性の投影を実際の患者さんに行い、

その一連の意識の流れに従い、皮切、開頭、病変部切除と段階的に進んでいく。この

志向性に基づく線は、過去の先人達の臨床経験および人体解剖にもとづいて考えられ

た、自然界にはもともとない想像的線である。さらに、この皮切線以外に、もっと大

きな地球規模の視点で、志向性を通じて見えてくる想像的線を考えると、地球を大き

く分割する国境線も見えてくる。しかし、この国境線の場合は、自然界にない点は皮

切線と同じであるが、1)容易に変更不可能である、2)国家が独立して、その独自

の文化、経済、政治を繁栄させるうえで大事な生命線である、という点が異なってい

る。

  このように考えていくと、私達の周囲には、皮切線や国境線以外にも、志向性を

通じて始めて見えてくる様々な線がある。例えば、数学的な線(三角や四角など)、

自然界には存在しない線(フラクタル図形など)、過去から脈々繋がる因果的な線

(国境線など)、また、意味を伴う線(文字など)がある。さらに、自然界を代表す

る線に、地球を包む青い海と空で構成された広大な地平線もある。この地球の地平線

の場合、上記の国境線と異なり、安易に超えることはできないことを特徴としている。

国境線の場合は、陸上のゴールのように、私達が懸命に走れば、原理的には跨ぎ、そ

の線を超えることは可能である。しかし、地平線の場合、いくら私達が、地平線を超

えようと走っても、決して地平線を跨ぐことができないのである。地平線は、常に新

しく私達の目の前に更新し続けるのである。昔、アメリカ大陸を発見したコロンブス

も、この地球の地平線を眺め、その彼方を超えた未知なる世界に憧れ、広大な海を渡

る旅へ出た。しかし、コロンブスは、国境線をこえ新しい新天地を発見することがで

きたが、本当の意味で、地球の地平線を超えることはできなかった。そして、コロン

ブスの時代とは異なり、21世紀、心の謎に迫る人類は、始めて、地球の地平線を超

えるチャンスを与えられたのである。このチャンスとは、自らの志向性の限界をこえ、

本当の自分自身を知るチャンスである。遥かで壮大な、自分の内奥に広がる、人類が

体験したことのない未知なる世界への旅の始まりである。

 

2相対的思想の有効性と限界

  地球には、不思議な二つの代表的線、1)容易に超えることができない自然の地

平線と、2)パスポートで容易に超えることができる人為的な国境線がある。この地

平線と国境線の関係は、21世紀の新しい世界秩序を構築するうえで一度は考えてお

きたい視点であるが、今回は、大きな地平線に囲まれた、私が生きている日常空間に

焦点をあてて考えた。それは、遥か彼方に見える地平線の方が、自然界にもともと存

在し、今後、私達の心の謎を解くために鍵になると考えられるからである。もっとも、

人類で、国境線を巡って争う人はいるが、地平線の所有を巡って争う奇特な人はいな

い。そして、この地平線に向けて自分自身の目を信じて精一杯凝視すると、私達のい

きている環境に、青い空や青い海など、言葉で表すことの難しい、不思議なクオリア

達に溢れていることに気付く。このクオリア問題は、未だ人類の知性で解けない難問

題であるが、今回は、敢えて、この環境に溢れるクオリア達を言葉で表現した。では、

このクオリアを言葉で表現するとしたら、果たして、どのような表現にしたらより正

確になるのだろうか?私達の環境に、クオリアは、もともと何かあるもの

 (Something)なのか、それとも、全くないもの(Nothing)なのだろうか?最近、私は、

環境に潜んでいるクオリアとは、何かあるもの(Something)でも、また、全くないも

の(Nothing)でもないと考えている。それは、入不二基義氏の提唱するような、不在

(uncompleted absence)という形に近い状態で環境に存在しているのではないだろ

うか?私にとって、この不在というイメージは、環境の中に、未だ顕在化していない

可能性の海として、クオリアが静かに私達の周りに広がっているというイメージであ

る。

  では、なぜ、私達の身の周りのクオリアを言葉で明確に説明できないのか?その

説明不可能性の原因の一つに、私達の認識方法の限界が関係していると思われる。私

達の認識方法の中には、人類の英知である、アインシュタインの相対性理論を中心と

した、相対的思想がある。アインシュタインの相対性理論は、絶対時空間的宇宙論を

変えただけでなく、その相対的な物事に対する本質的な考え方を私達人類にもたらし、

私達の心に深く浸透していった。そして、この相対的思想は、真偽や善悪などは、そ

れを捉える枠組みや観点も、個人や環境に応じて変わる相対的なものであり、唯一絶

対の真理や正しさなどはないという考え方へと至るようになった。この相対的な考え

方は、私達、現代人の思考に幅広く浸透していき、従来の社会や組織の常識や偏見に

対して、いろいろな物事の視点から見ることを可能とし、思考の自由をもたらしてく

れた。しかし、その反面、私達の日常生活には、認知の相対論だけでは割り切れない

深い問題があることもわかってきた。例えば、この問題に善悪問題や死の問題がある。

通常、私達が考えている善悪とは、ある時、犯罪、非行、殺人などの悪行として現れ、

また、ある時、慈善活動、ボランティア、献身などの善行として現れる場合は、どち

らが善悪かを示すことは比較的簡単である。しかし、これが、社会の戦争問題の善悪

になると話は途端に複雑になる。例えば、アフガン戦争問題を一旦議論し始めると、

「戦争は絶対に悪であり即刻止めるべきである」「戦争は必要悪であるが現実的には

仕方がない。それが世界平和への早道である」「対話が困難なテロ組織ネットワーク

に対して、例え一部市民を巻き添えになっても、何としてもまず撲滅させることが大

切である」「報復は新たな報復を呼ぶだけだ。悪の連鎖からは何も生まれない。アフ

ガンの難民を救い、テロの根本的問題である貧困や不正の問題を解決するほうが先決

だ」といった様々な意見がでてくる。勿論、私は、真の平和的解決方法として、対話

による和解を支持するが、しかし、現実的には、延々と議論しているうちに、多数の

民衆の熱狂的支持と政治家の決定力で戦争は実際に実行されてしまう。この場合、対

話可能な認知の相対論は影を薄め、世界は一方的な暴力的行動で支配されていく。で

は、なぜ、世界の一部の人々は、暴力的行動の方を支持するのだろうか?その理由の

一つに、議論より実際に行動を起こすほうが、現実に強いリアルティーを直接相手に

与えることが可能だからである。この肉体への暴力信仰は、言葉の暴力とは異なり、

自分とは異なる相手に不条理な死をもたらし、現実問題の解決方法としては、一番単

純かつ相手に強い影響力を与える方法である。しかし、この暴力的行動の背景にある

のは、他者への視点の欠如であり、開かれた対話の不在である。では、私達人類に、

暴力行動を予防する方法があるのだろうか?その予防には、人類の英知、相対的思想

を幅広く浸透させるしかない。この認知の相対論を多くの人が獲得することで、人は、

自らの想像力を飛躍させ、他者への視点の獲得が可能となる。それは、自分の思想を

絶対視せず、謙虚に自分の思想と相手の思想を相対的に見つめ、相手との直接な対話

を可能とする。しかし、この相対的思想の到来は、私達人類に自由な考え方をもたら

したが、逆に、一部の人々に混迷を与えた。それは、相対的思想を追求することで、

古来から人々が求めていた神の絶対的な視点を失うことになるからである。神なき時

代の始まりである。この神の視点を失うことは、終に、私達現代人の行動への絶対的

基盤も失うことになる。この自分の行動に対する心の基盤を失うことは、多くの現代

人に、表面的な自由の獲得の裏腹に、私達の心の奥に、大きな心の空白感や虚無感を

与えた。一方、宗教とは、本来、神の絶対的な視点を求め、また、己の行動に対する

強い意志を育て、心の空白感や虚無感を埋めることに大きな意義を見いだしてきた。

この神の絶対的な視点を追求する人にとって、人類の英知である相対的思想にはあま

り意味をなさない。つまり、人の認知思考に大きく貢献した相対的な考え方では、人

の思想に様々な自由な視点をもたらしたが、そこに絶対的な視点がないために、自ら

の行動に対する強い意志が育たないのである。

  さらに、この相対的認知思考の限界の一例に、死の問題がある。例えば、現代の

子供達に、「なぜ、人を殺してはいけないのか」と問いかけられた場合、我々はどの

ように答えたらいいのだろうか?この種の問題を解決する場合、いくら言葉で説明し

ても子供達は納得しない。それは、子供達は、無意識に、死がもっている非論理的か

つ不条理な一面も知っているからである。この解決には、子供が成長し、死をある程

度理解できるようになったら、死のもつ実在性について素直に話すしかない。この死

のもたらす実在性問題は、相対的認知思考を超えた世界観へと子供達を導くことにな

る。もし、今、ここに死を目前にひかえた人間が独りいるとしよう。この死を目前に

ひかえた人に、私がいくら相対的な認知思考を駆使して論理的に話しても、本人はきっ

と微笑みながら死んでいくだろう。それよりも一緒に静かに沈黙した方が、本人が自

分自身の死を理解する助けになる。もし人が自分自身の死に真摯に対峙するとき、相

対的な認知思考は沈黙し、人は、自らの死と対峙することで浮かび上がる実在する真

理と遭遇することになる。この死によって浮かび上がる実在のひとつに、今、ここに

いきている私という視点がある。この私という視点は、全宇宙の中で咲いた一輪の小

さな花のような視点である。己の死に対峙して始めて浮かび上がる私という存在。そ

して、この私の視点をきっかけに、さらに、私の眼前に、ものいわぬ様々な多様な物

達が次々と実在してくる。今まで心の迷いで気付くことのなかった、子供の笑顔、青

い空、白い雲、鳥の鳴き声、風の暖かさ、愛する人などである。もしこれら物達が人

生で永遠にみることができないと深く悟った瞬間、周りの風景が妙に鮮明にかつ唯一

絶対な実在性を帯びて見えてくるのである。つまり、人が己の死と対峙した時、環境

に潜在的に隠されていたクオリアが鮮明に実在してくるのである。このクオリアの実

在性問題は、人の相対的な認知思考だけでは解答を与えることが困難な一例である。

  相対性思想は、上記のように限界もあるが、昔からの様々な偏見や迷信を壊し、

さらに、他者の視点を含めた、物事を様々な角度からみる視点を与え、人類に豊かで

自由な発想をもたらしてくれた。しかし、相対性思想は、1)絶対的視点がないため、

行動への積極的な指導原理がない 2)死の実在性問題に対処できない、3)環境に

実在する唯一の真理を表現できない、などの様々な限界がみえてきた。しかし、この

相対的思想は、私達に他者に開かれた対話を可能としてくれる人類の英知である。だ

からこそ、なんとか、この相対的思想を有効に発展できないのだろうか?では、この

相対的思想をどのように深化させれば、自らの思想の限界を超え、現実の行動へと飛

躍できるのか?その方法をわずかに知るためにも、私達は、相対的思想と現実の行動

との間に横たわる深い溝を埋める思索の旅へ出なくてはいけない。まずは、ひとりひ

とりが、自らの認知が行う相対的思考過程を一度徹底して見つめ直し、自らの相対的

認知の有効性と限界を知ることから始めなくてはいけない。この認知の相対論の有効

性と限界を知ることで、さらに、行動の実在論へと発展していくことになる。

 

3認知の相対論から行動の実在論へ

  認知の相対論とは、人の認知は個人特有であり、その個人の視点は常に変わるた

め万人にとって唯一絶対の真理や正しさはないという考え方である。一方、その対極

にある行動の実在論とは、認識から独立する、絶対的な真理(物質、クオリア、私)

が環境に実在し、そして、私達が実際に行動することで、この唯一実存する真理に対

して直接働きかけるという考え方である。私達が真摯に行動する時、自分の生きてい

る環境に対して、ある種の手ごたえ、実在感を得ていることは確かである。これは、

私達の環境に、唯一絶対の真理があることを示唆している。さらに、この真理を求め

る心は、多くの人を、神の絶対的視点を求める心へと導いている。では、果たして、

認知の相対論と行動の実在論、どちらが、私達の日常生活に本当に必要なのだろうか?

私には、認知の相対論も行動の実在論もどちらも人生に必要な真理のように感じられ

る。つまり、どちらも人が生きていくために必要な人類の英知であり、どちらか一つ

を選択することはできないのである。そして、この二つの理論の関係は、今まで厳密

に討論されたこともなく、まだまだ議論すべき余地は残っている。そのため、今後、

この二つの理論の統合へと人類の英知を結集すべきである。

  私が真摯に環境へむけて行動する時、確かに環境に実在する真理と遭遇している。

行動とは、環境に唯一実在する真理に直接働きかける行為であるが、この環境に唯一

実在する真理を言葉で表現しようとすると、人は深い認知の壁にぶちあたる。いくら

認知の相対的思考を駆使しても、この未知な真理を言葉で表現できないのである。唯

一、最近、クオリアと呼ばれる沈黙なる言語でその存在を示唆され始め、少しずつ私

達の環境に対する見方は変わり始めている。しかし、依然、私達人類が、真理へ到達

する道のりは長い。それでは、どのよう方法を通じて、我々は、この環境に唯一実在

する真理を理解できるようになるのか?その方法には、恐らく、物理学的手法(量子

力学、相対性理論、カオス理論など)が有効であるだけでなく、自らたった独り環境

に向きあい現実に行動することも必要であると私は考えている。この環境に真摯に自

ら向き合うことで、私達はその実在の一部をわずかに直接触れることができるのであ

る。これは、水の化学式の究極を求める認知と、現実に喉が乾いたときに一杯の水を

飲む行動時に感じる、水の確かな実存の違いである。でも、だからといって、環境に

実在する真理への到達には自分自身の直観的行動のみで充分であり、相対的思考を使

わずにいいということにはならない。むしろ、逆に、それは危険であり、人が相対的

思考を通過せずに、絶対的視点を強く求めて行動した場合、独我的な行動へと陥って

しまう可能性がある。この独我的行動は、終には、イスラム過激派の主張する聖戦の

ように過激な行動へと走る。つまり、我々は、今後、相対論(認知)と実在論(行動)

のどちらにも片寄ることなく、うまく相対論と実在論との協調、融合への道を探らな

くてはいけない。もし今後この二つの理論がうまく融合した場合、この二つの理論の

関係は、20世紀初頭、私達の思考様式を根本的に変えたボーアの相補性の原理のよ

うな全く新しい関係の発見になるだろう。

  では、どのようにしたら、認知の相対論と行動の実在論とが矛盾なく融合できる

のか?また、認知から行動へと移るとき、私達の脳では一体何がおこっているのだろ

うか?もし相対的思考の認知過程を瞑想的に眺めた場合、偏見や雑念の多い自らの認

知系から、これら偏見や雑念を取り除き、自己の認知をある一点へと凝集し、純化、

そして、蒸発させ、終には、行動へと移っていく心を飛躍させていく過程がみえてく

る。この自らの心を見つめる作業は、ある意味で、子供のもつ無垢で純粋な視点を大

人でもう一度獲得していく作業に似ている。この認知から行動への通過地点は、相対

論の極北地点(認知が凝縮した心の特異点と定義)と呼ばれ、この心の特異点を通じ

て、人は、認知を凝縮した一貫した行動を起こすことができると考えられる。

 

4志向性の彼方へ

  では、この心の特異点は、一体、私達のどこにあるのだろうか?心の特異点は、

人の認知の限界地点であり、それは、同時に、私の志向性が届かない未知の領域であ

る。客観的には、心の特異点は、自分の脳内の神経ネットワーク内に存在するが、主

観的には、全く別のところにあるのではないかと私は考えている。この主観的な心の

特異点を知るために、たった独り、自然の豊かなところでぶらぶら歩いてみた。自然

豊かな環境で独り黙々と歩いていると、様々な花や木々、空、鳥など、自然の中に実

在する物達と出会う。これら私の志向性の広がる内面的風景を独り眺めていると、私

の心の特異点は、実は、自分の体の内奥ではなく、自らの体から遠く離れた、青い空

と海で構成された地平線の彼方にあるように感じてくる。それは一体なぜなのだろう

か?それは、依然、心脳問題が解けていないため、今は、うまく言葉で説明すること

はできない。しかし、私には、なぜか、この地平線の彼方にある、私の志向性が決し

て貫通しえない未知な領域にこそ、心の主観的特異点があるように感じるのである。

この地点を、哲学者の入不二さんの言葉を借りれば、人類にとって北方の彼方にある

伝説の地であり、世界の尽きる最果てであると同時に、はるかなる理想的な世界であ

るといえる。つまり、この地平線の彼方には、人の志向性が究極的に求めている未知

な真理が待っているのである。21世紀、私達人類は、志向性の彼方へと歩み始めた

ばかりである。私達がこの志向性の彼方へと歩み始めるとき、それは同時に、私達に、

閉塞的な心の孤独感から、蛹から蝶への脱皮のような心の大変化をもたらしてくれる。

志向性への彼方へ。その聖なる真理を一瞬でも垣間見ることは、私達人類にとって、

最後の謎である心脳問題解決へのヒントになることだろう。それは、終に、客観的特

異点(脳)と主観的特異点(心)との不思議な関係を知ることになるのかもしれない。

 

参考文献

1 入不二基義著 「相対主義の極北」 春秋社

 

(c) Shibata Takashi 2002

### 著作権について ###

 

心脳問題RFCに掲載された論文の著作権は、著者に所属します。

論文の一部を引用する際は、

 

著者、タイトル、心脳問題RFC #論文の番号、及びURL

(http://www.http://www.qualia-manifesto.com/rfc/rfc-list.html)

 

を表記して下さい。

 論文のその他の利用については、著者にお問い合わせ下さい。

心脳問題RFCについてのお問い合わせは、

kenmogi@qualia-manifesto.com

までお願いします。