心脳問題RFC #13 『「知」の欺瞞』、『脳と生命と心』書評
issued on 5th August 2000
『「知」の欺瞞』 ― ポストモダン思想における科学の濫用 ―
アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著
田崎晴明・大野克嗣・堀茂樹訳
岩波書店 (2000年)
「知の欺瞞」書評
・伊藤周
・茂木健一郎
・羽尻公一郎
『脳と生命と心』
― 第1回養老孟司シンポジウム ―
養老孟司編
哲学書房 (2000年)
「脳と生命と心」書評
・竹内薫
・中塚則男
・「知の欺瞞」書評
伊藤周(半導体技術者)
bartok@lsi.nec.co.jp
この本でソーカルが批判しているのはポストモダニズムの思想家たちによる数学や
科学の濫用である。ソーカルは彼ら高名な思想家たちが数学や科学を全く理解してい
ないこと、それにもかかわらず数学や科学を乱暴に使用していることを逐一具体的に
指摘し、分析している。その分析はきわめて精密、的確であり、この点に関して反論
の余地はない。彼らポストモダニストによる科学や数学の誤用はあまりにも出鱈目で
馬鹿げているので、読者はしばしば爆笑せずには居られない。例えば、ラカンによる
トポロジーやクリステヴァによる集合論、ドゥルーズとガタリによるカオス理論の誤
用などは、まさしくコンノケンイチや「相対論は間違っていた」論者などのトンデモ
本のレベルである。この分析からわかることは、ポストモダニストによる数学の濫用、
誤用は単なる枝葉末節の間違いとか知的能力の不足による不可抗力的なミスなどでは
ないということである。なにしろ、彼らの言説はあまりにも荒唐無稽であり、また、
あまりにも多くの科学や数学の誤用に溢れているので、科学用語や数学用語の見せか
けの飾りを除けば陳腐で凡庸なアイデアしか残らないからだ。
ポストモダニズムの思想家や哲学者が科学や数学に無知であることが問題なのでは
ない。問題の本質は彼らが科学や数学を権威主義と蒙昧主義のために用いていること
なのである。明らかに、彼らポストモダニストは、読者の目を欺き、騙し、自らが博
識であり、自らの言説が深遠であるかのように見せかけるために、多くの文科系の読
者が科学や数学に詳しくないことを利用しているのだ。このような姿勢は読者を愚弄
するものであり、ほとんど詐欺であると言ってさえよい犯罪的行為である。彼らにと
って、数学用語や科学用語は、自らの言説の陳腐さと貧困さを覆い隠し、見せかけの
虚勢を張るための小道具なのである。ソーカルは、ポストモダニズムの中に、このよ
うなこけおどしの権威主義や知的不誠実がはびこっていることを告発したのだ。ソー
カルが企てたことは文系と理系の対立を煽ることではなく、ましてや哲学や人文学や
社会科学一般を攻撃することでもない。正反対に彼はこれらの分野における明らかな
インチキと詐欺を暴くことによって「二つの文化」の間の真の対話を模索しているの
である。その結果、ネーゲルやブーヴレス等の多くの哲学者や思想家がソーカルを賞
賛したことは当然であろう。
ソーカルの真意は「エピローグ」を読めばよくわかる。本来、権威主義や反知性的
な蒙昧主義は右翼や保守反動勢力の専有物であり、左翼や進歩勢力は啓蒙の精神の伝
統を引継ぎ、理性と反権威主義を精神的誇りとしてきたはずだった。しかし、少なく
とも表面的にはリベラルな進歩勢力であることを自称しているはずのポストモダニズ
ム左翼がこのような奇妙な知的蒙昧と権威主義に陥ってしまったことによって、カル
ト化し、現実の社会に対する批判力を失ってしまったことを彼は憂慮し、真摯に批判
しているのである。
この本で批判されたポストモダニスト達はなんら有効な反論もできず、ソーカルに
対する中傷と悪口雑言に終始した。さらに、ポストモダニスト達やそのシンパはソー
カルの真意を理解しようとせず、悪意からこの本を「保守科学者による社会的弱者叩
き」であると意図的に曲解して「サイエンス・ウォーズ」と称する卑劣なプロパガン
ダを行った。しかも、これに呼応して日本でも金森修、村上陽一郎、野家啓一などの
科学論者や科学哲学者が「現代思想」誌上で「サイエンス・ウォーズ」を扇動しよう
とし、彼らに卑屈にもへつらってみせた姿は醜悪そのものであった。
この本は重い一冊である。本書のp.275の文章「迷信、蒙昧主義、民族主義的狂信、
宗教原理主義が西洋「先進」国をも含めた世界中に蔓延している時代にあって、歴史
的に見てこれらの愚挙に対する最大の防御策であった合理的な世界観をこれほどいい
加減にあつかうのは、どう控えめにいっても責任ある態度ではない。」は、まさに今
現在の日本の状況に重ね合わせることができる。深刻な反知性主義が蔓延した結果、
オウム真理教のようなカルトがはびこり、森首相は「日本はまさに天皇を中心とする
神の国である」と公言することによって民族主義的狂信と宗教原理主義を恥じること
なく堂々と主張している。新しい世代には、今こそ、ソーカルのような何者をも恐れ
ぬ勇敢で誠実な批判精神が必要とされているのだ。
・「知の欺瞞」書評
言語は自然現象である。
茂木健一郎
脳科学者
kenmogi@csl.sony.co.jp
ソーカルが、Social Text誌にそのパロディー論文「境界を侵犯すること」を投稿
した時、彼は、多くの自然科学者(とりわけ物理学者)が長年感じていた憤怒ーポス
トモダンと呼ばれる思想家たちによる思わせぶりな自然言語の使用に対する義憤ーに
はけ口を与えたのだった。実際、ソーカルと似たようなことをしようと思ったことの
ある科学者は、私を含めて少なからずいるに違いない。
科学的真理とは何かという問題について、社会構成主義からアプローチする、それ
自体は、一つの思考のあり方としてもちろん許容されうる。私にどうしても理解でき
ないのは、社会構成主義にしろ、ポストモダニズムにしろ、彼等が流麗に言語を行使
することを可能にしている彼等の脳を含めた、この世界の中の物質が、ある因果的法
則に従って時間変化していってしまうという、この恐ろしい事実に殆ど無頓着だと思
われることだ。彼等は、言語の使用は自由だと思っているのかもしれない。しかし、
自由だと思う思考自体が、脳の中のニューロンの活動によって引き起こされ、そして
そのニューロンの活動は物理的な因果律に従って生じているという事実を、一体彼等
はどれくらい深刻に受け止めているのだろうか?
世界がある法則に従って進行していってしまうということそ、我々人間を含むこの
世界の実在に関するもっとも基本的な事実である。我々は、いつか死んでしまう。そ
れも、我々の肉体がある法則に従って変化していくからだ。この変化の法則を、物理
学を典型とする自然科学は明らかにしてきた。そして、この変化の法則をもっとも厳
密に記述しようとすれば、自然言語ではなく、数学的言語を使用するしかない。その
ことを、私たちはニュートンやライプニッツ以来学んできた。数学的言語と世界の発
展の因果性との結びつきが、数学的言語の自然言語に対するある種の優越性を担保し
ている。
翻って考えれば、自然言語もまた、ある法則に従って進行する世界の中の一つの自
然現象である。このような見方ができるかどうかが、社会構成主義やポストモダニズ
ムに酔えるか、あるいは違和感ないしは嫌悪を感じるのかの分水嶺になっているよう
に思える。科学の真理が社会構成主義で説明できると本気で信じる人がもしいるとす
れば、その人は、言語を生み出す自分の主観性をブラックボックスとして世界から切
り離している点において、極めて不徹底な知的態度を持っているとしか思えない。実
際、自分の身体を含めた世界の進行の法則性に対する感受性が、世界について考える
際の最低限の知的誠実さの必須条件だと私は考える。この、最低限の知的誠実ささえ
身についていない人が、哲学や言語について考える。それは、パリのカフェでワイン
を飲みながらのよた話しとしてはいいかもしれないが、まさに刻々と変化していって
しまう、世界の実在のあり方全体を引き受けた思考にはつながり得ない。
このようなことは、私には殆ど自明のように思えるのだが、その自明なことが、ま
た一部の人たちには通じにくいようである。だから、ソーカルのような人が必要にな
る。真に難しいことは、因果的法則に従って発展していく世界の部分集合に、いかに
して我々の心的表象が宿るのかということを理解することである。このような心的表
象への関心は、あくまでも、世界の因果的発展の暴力性、その背後にある法則性を押
さえてのことでなければならない。このあたりの知的誠実さにおける微妙な温度差こ
そ、袋小路とブレイクスルーを分ける分水嶺になると私は考えている。
・「知の欺瞞」書評
羽尻公一郎
言語学者 khajiri@csl.sony.co.jp
さて、様々な議論を呼んだ「知の欺瞞」であるが、その感想は、一言でいうと、
「著者たちも同じ穴の狢」に尽きる。著者たちは慎重に、いわゆる「ポストモダ
ン」の人たちの数学概念の乱用にスポットを当てて、しかも「ポストモダン」の活動
全体を否定しないように、かつ衒学的な使用に関してのみ、手厳しい批判を繰り
広げている。
しかし、たとえば、その批判をするにあたっての彼らの”健全性”を示すための
立脚点として、以下のような文章がある。
「われわれは、専門知識のない読者にも、ある主張はなぜまちがっていたり意味
がなかったりするのかわかってもらうために、科学的な予備知識を詳しく説明すよ
う非常な努力をした。むろん、紙幅は限られているし、科学をわかりやすく説明す
るのは容易なことではないので、われわれの企てがすべての場合にうまくいったとは
いえないかもしれない、我々の説明が不十分だと感じるときは、
読者は判断を保留していっこうに構わない。」(はじめに 17P)
これは明らかな日和見である。このように書かれては、誰だって著者たちが中立
であるかのような印象を受けるだろう。これは衒学的な文章を意図的な目眩ませとして書く
ことと、どれだけ違うというのだろうか。と、このように「知の欺瞞」を丹念に引用し
ながら「メタ知の欺瞞」を書くことも可能であるが、これでは同じ穴の狢と同じ穴に住
んでしまうことになるので、これ以上この手法は使わない。ともあれ。
彼らはメタファとしての科学概念の使用を、概ね否定している。著者いわく、メ
タファとはわかり易くするためのものであり、混乱させるためのものではないと。これは、
言語学でのメタファ研究の立場とは少し異なる。言語学では、メタファとは決してわかり
易さという指標をもって使用されるものではなく、かりにわかりやすいメタファに
問題を限ったところで、状況や文脈や個々人の知識や
日常的感覚など、様々な要因がそれを支える。どうも、物理学や数学にはひとつ
の大きなドグマがあり、それを原器として思考することが、物理学者や数学者には染
み付いてしまっているのだろう。
アナロジに関しても同じである。類推による思考は上記のドグマに基づく思考と
は明らかに相性が悪い。これを数学や物理学の側から攻撃することはたやすい。しか
しまた、こうしたメタファやアナロジの力を殺さず表現する方法論もまた、一様に衒
学的になるわけではない。
確かに、ラカンやクリステヴァやその他「ポストモダン」の人たちには行過ぎた
ところはあるのだろう。そしてそれを安易に許す風潮が好ましくないことも指摘され
てしかるべきかも知れない。しかし、数学者でも物理学者でもない私、すなわちド
グマの外にいる私には、数学や物理学の議論もまたある種の衒学性を帯びているよう
に感じてならない。
そこで著者たちは言うだろう。「数学や物理学は、十分な時間と忍耐と学ぶ手段
があれば、ある程度は誰でも到達できるものだ。」と。この本を読んでいる間中、
そんな著者たちの声がずっと頭に響いていた。しかし、問題は「ある程度」の程度
の問題である。数学の専門書がすぐに読みにくいのと同様に
「ポストモダン」の思考形態にすぐに慣れることはできないだろう。
エピローグでも、著者たちは科学とそれ以外(哲学など)の違いをあげつつ、な
お科学概念の乱用の危険性を指摘している。「はじめに」と「エピローグ」の間は
個々の事例について細々と、彼らの設けた基準で「ポストモダン」な文章が検証されている。
思えば、レヴィ・ストロースが集合論(群論だっけ?)を用いて南の民族の家族
制度を”記述”したりしたあたりから、「ポストモダン」は数学に傾倒していったの
だろう(私の知っている数学者も民俗学に興味を示していたりする!!)そして、
それ以来、数多くの衒学的文章も書かれたし、知的な詐欺だって行われただろう。
そしてそれに危機感を抱いた著者たちには十分な健全性があると思う。しかし、
彼らは慎重に反論の機会を奪うような書き方で、じつに丁寧に批判を
行った。そして、決して「ポストモダン」全てを否定しないし、これから「ポス
トモダン」な人々が活動し続けることにもいっこうにケチをつけていない。このような
本の構成は、オクシモロンの一種ではない
だろうか?この本の著者たちが望んでいる世界とは、結局不毛な世界でないと、
誰が言い切れるだろうか?本当の問題はそこにあると思う。
・『脳と生命と心』書評
竹内薫
科学哲学者、ミステリー作家
kaoru.takeuchi@nifty.ne.jp
この本はシンポジウムをまとめたものだということだが、一部、講演を論文に書き直
してあるので、いささか他の本とは趣を異にしている。講演を書き直して論文にしてい
るということは、肉声でなく文字を読む読者の便を考えてのことだろうし、内容の拡充
という意味合いもあるのだと思う。
さて、私の素養でよく理解できたのは、
●茂木健一郎「クオリアと志向性」
●郡司ペギオ幸夫「クオリアと記号の起源」
●池田清彦「同一性、記号、時間」
の三つだったので、この三つについて感想を述べることにしたい。
まず、「クオリアと志向性」については、茂木健一郎氏の主張がコンパクトにまとめ
られていて、今のところ、一番よい「茂木説早わかり」になっているように思った。ま
だ茂木健一郎氏の著作に触れたことのない読者にはオススメである。
討論が少し気になった。なんだか噛み合っていないような印象を受けた。
議論が噛み合わなかった根本の理由は、「認識におけるマッハの原理」と「相互作用
同時性の原理」の意味と、それが茂木健一郎氏のオリジナルな発想である点が充分に認
識されていないからなのではないかというのが正直な感想だ。
もっとも、マッハの原理と(アインシュタインの特殊相対論における)同時性の定義
を脳の「認識」の場面に持ち込んだユニークさは、やはり、物理学の基礎的な理解なし
には感じ取ることが難しいのかもしれない。
あらためて、生物系と物理系の「溝」を感じさせられた。
次に、「クオリアと記号の起源」は、最初、郡司ペギオ幸夫氏の難解な文体に驚かさ
れた。だが、「わかりやすさ病」にかかっている昨今の日本の知的事情からすれば、逆
に、こういうほうがいい。「わかりやすさ病」にかかっていない読者は、わからなけれ
ば、読み流したりせず、背筋を正してじっくりと読むはずだ。ということは、逆に理論
の内容もよく理解されるにちがいない。
「正則文法」と「認識機械」のレベルの混同によって「記号」が生まれるという郡司
ペギオ幸夫氏のアイディアは、ゲーデルの定理の証明や小説の作中小説のレベルにみら
れる混同と同じで、独特の知的な快感を与えてくれる。記号の本質はレベルの意図的な
混同にあるという考えは、芸術家にもすんなりと理解できるものだろう。
このアイディアがモデルから発展して実際の脳の構造や働きと結びつくのが待ち遠し
い。
最後に、「同一性、記号、時間」は、できれば論文に書き下ろされたものを長く読み
たかった。「最後の瞬間にだけ、左の膝小僧がすごく気持ちよくなるんです」というの
が、脳における足の感覚と生殖器の感覚の領域が隣り合って交差している実例としてあ
げられていて面白かった。「餌がほしいから僕のところに来るんだろうと思っていたの
です。ところがあるとき、一生懸命体をなすりつけてきたあと、餌をやったのに食べず
に帰ってしまったのです。そのとき、このネコは餌をもらいに来てたんじゃなく、僕と
交際しに来てたんだということに気づきました」というのが人間とネコの脳の構造の同
一性を感じさせる例としてあがっているのもよかった。
文章が面白いというのは天賦の才である。池田清彦氏は小説をお書きになるといいの
ではなかろうか。
そういえば、この前、食中毒で熱を出して一週間ほど寝込んだ。その数時間前、東京
駅のホームで奇妙な体験をした。僕は就職した学生と一緒だった。僕は体調が悪いのに
しこたま酒を飲んでしまって、頭が朦朧として足もフラフラの状態だったので、周囲に
まったく気を配っていなかった。
さて、電車が入ってくる数分ほど前になって、僕は、突然、後ろに並んでいる人物が
養老先生なのだということに気がついた。奥様がご一緒だったらしく、誰かから来た手
紙のことを話されている口調で気づいたのだ。その瞬間、僕は大いなるジレンマに悩ま
されることになった。すでに何分も並んでいたのに、いまさら、何食わぬ顔をして振り
向いて「こんにちわ。えへへ、実はさっきから前に立っていましたよーん」と切り出す
のは非常に不自然な感じがしたし、おまけに内容は聞いていなかったが、ご夫婦で手紙
の話をされていたのだ。プライベートな会話であろう。まるで盗み聞きしていたみたい
ではないか。
今さら振り向くことができなくなった僕は、耳を塞いで、知らんぷりを決め込むこと
にした。幸い、養老先生は僕が前に立っていることはご存じないようだ。
そのとき、一緒にいた学生が「茂木先生はソニーコンピューターサイエンス研究所に
お勤めなのですね」と発言し、それと同時に背後での養老先生の発話がとぎれた。やば
い。もう知らんぞ。僕の脳はフリーズした。それから一分ほど、僕は、ひたすら電車が
来るのを待ちわび、扉が開くなり、学生を引っ張るようにして車内へと逃げた。
あとから考えて、とても異常な行動だったと思う。でも、あのときの僕の熱っぽい脳
ミソは、ジレンマの解決作として、「あれ?」という声を発して後ろを振り向く自然な
選択はせずに、そのまま何事もなかったかのように現場を立ち去る不自然な方法を選択
して、その戦略は学生の発言によって見事に崩壊し、まさにどつぼにはまったのであっ
た。
よく帰国子女は何を考えているのかわからないといわれるが、やはり、僕の脳は、少
し構造がおかしいみたいです。決して悪意があって逃げたのではありません。この場を
お借りして、失礼をお詫び申し上げます。
・『脳と生命と心』書評
中塚則男
norio-n@sanynet.ne.jp
http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
脳や生命や心をめぐる現象と認識について考えるとき、「from soup to nuts」と
いう語句が威力を発揮するのではないかと思う。たとえば、茂木氏の志向性の概念を
「from 〜 to 〜」と、クオリアを「〜」とそれぞれ対応させ、計見氏のいう肉体も
しくは内臓(「こころ」とその枕詞である「むらぎも」の語源がともに内臓の意をも
つことから)や団氏の「物質の雑音状態」等々を「soup」に、そして郡司氏、池田氏
が論じている記号(郡司氏の場合はサインでなくシンボル)や団氏の「生命=安定状
態」等々を「nuts」に関連させることで、本書全体のラフな見取図が描けそうだ。
あるいは、質料から形相へ、可能態から現実態へ、普遍性から個別性へ──そして
ギリシャ語の「ヒュポスタシス」(サブスタンスにつながる「実体」の意味とともに
「固体と液体の中間のようなどろどろしたもの、濃いスープ」の意味をもつ)からラ
テン語の「ペルソナ」へ(坂口ふみ著『〈個〉の誕生』参照)──などと読み替え、
これを、素粒子は豆を煮たスープのようなもので、それを観察すると煮る前の豆に戻
る云々と天外伺朗氏が語っていたこと(茂木氏との共著『意識は科学で解き明かせる
か』)と組み合わせることで、天外氏の比喩がもつ遡言的かつ反エントロピー的な含
意も含めて、本書のもう一つのテーマである「物質の問題」(松野氏)を考える上で
欠かせない視点が導かれる。
さらにいうと、その経験の確立に時間を要し、つまり再現性が弱く、いいかえれば
一回性や個人性の要素が強く、したがって同一性の特定が困難な触覚的知覚を「soup
」に、本来触覚との協働を抜きにしては考えられないにもかかわらず、いったん成立
すると身体性から抽象され、無時間性や再現性や反復可能性や公共性が強くなる傾向
をもつ視覚的知覚を「nuts」にそれぞれ置き換えてみることで、分量・内容ともに本
書の骨格をなす茂木氏と郡司氏の二つのセッションを架橋する軸をしつらえることが
できそうだし、本書のハイライトの一つである澤口氏と茂木氏の応酬がもつ意味を解
き明かすヒントが得られそうに思う。もっとも、編者による簡潔にして要を得た総括
が示されているのだから、これ以上、言葉遊びに類する駄弁を重ねるのは控えたい。
それにしても養老氏の「まえがき」と「あとがき」は感動的なまでの刺激に満ちた
もので、討議を終えて興味をもった根本的な問題として氏が綴る文章──「たえず変
化していくものとしての生物というシステムと、それ自体は変化しないという性質を
持つ情報とが、どのようにして関係しているか」──の含蓄を吟味し玩味するために
こそ、本書は熟読されるべきである。(これは私の直感が語らせる蛇足にすぎないの
だが、養老氏がいう根本的問題は「神」や「聖性」の問題へとつながっていくのでは
ないだろうか。)
(C) 伊藤周 2000
(C) 茂木健一郎 2000
(C) 羽尻公一郎 2000
(C) 竹内薫 2000
(C) 中塚則男 2000
### 著作権について ###
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を表記して下さい。
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====お知らせ====
パネルトーク「サイエンス・ウォーズ」を/から考える
金森修氏+佐倉統氏+茂木健一郎氏
日時: 2000年8月28日(月)19:00〜21:00
会場: 青山ブックセンター本店 カルチャーサロン青山
お問い合わせ先: 03-5485-5513
参加条件・注意事項: 要電話予約。入場無料。
■95年頃から欧米を席巻した、いわゆる「サイエンス・ウォーズ」。
科学者、科学論・科学哲学論者、人文思想家を巻き込んだこの現象の実態を説き、
日本における建設的な議論の可能性について討論する、おそらく本邦初の本格的公開
討論となるでしょう。
青山BC
http://www.aoyamabc.co.jp
東京大学出版会
http://www.utp.or.jp