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心脳問題Request For Comments 

Mind-Brain Request For Comments

RFC12  コンピュータは心を持てるのだろうか?

 

田森佳秀

金沢工業大学人間情報システム研究所

〒924-0838石川県松任市八束穂3-1

http://hisl.kanazawa.ishikawa.jp/~yo/

yo@his.kanazawa-it.ac.jp

 

 

*本論文は、脳の科学 22: 319-328 (2000) に発表された原論文を、

RFC用に再編集したものです。

*原論文の数式を含む全文は、

http://hisl.kanazawa.ishikawa.jp/~yo/cyber_mind/cyber_mind.html

を参照して下さい。

 

 

1、 はじめに

 

人類が「心」を科学的な対象から除外して考えるようになったのは、恐らくデカルト

が精神の根源が松果体を通して我々の体と相互作用すると考えた頃[1]であろうから

、近代科学の誕生と同時であったと考えてもよいだろう。以来、我々は心と科学が取

り扱う物理的な存在とは独立であるという二元論の立場をとりつづけてきた。これは

世界を心的実態と物理的実態とに分割する立場であり、この二つの実態の間の関係に

いかに折り合いをつけるかという問題は心身問題と呼ばれ、物理的な実態を総称する

「身」が、脳の理解が進んだ現代では「脳」に置き換わり、心脳問題と呼ばれるよう

になった。主観性が問題となる心的実態は、客観性を教義とする科学的立場とは絶対

に相容れない対象であるため、心脳問題は長らく哲学者のための問題であり、科学が

これに触れるのはタブーとされてきたのである。しかしながら我々の心に現れては消

える様々な「意図」や「理解」等の心的現象は、誰にとっても厳然と存在する事実で

あり、デカルトが松果体を必要とした[2]ように、主観が物理的実態と相互作用して

いることも、誰にとっても明らかな事実である。事実を取り扱うのが科学であるとす

るなら、心が科学の対象となりえることは疑いようもないことでなのである。それに

もかかわらず心を科学の対象としない態度は勝算の無い戦いに逃避を決め込む賢者の

態度であったのかもしれない。実際、過去に幾度となくあったかもしれない「心の科

学的研究」の試みは記録に記されていない。一方、哲学においては、そもそもこの二

元論的図式を疑う考え方が現れた。ライル[3]に始まる多くの哲学的研究の結論は、

そもそもデカルトの提示した「心」対「機械(又は物質)」という分離自体に意味が無

いとするものであり、その正しさには議論の余地は無い。しかしながらこれは単に二

元論はダメだということであり、心と物質を分離できないとすること(同一説)が、心

を科学で理解することができるという意味にはならない。ましてや心が科学で理解で

きないという結論も導くことはできない。科学とは単に理解の方法のことであって、

ここでは理解の対象ではないからである。

 

ところが、近年、コンピューターの発達とともに、心はプログラムすなわちソフトウ

エアであり、脳はそれを実行するコンピューターのようなものであると考える研究者

が増加してきている。すでに意味が無いとされていたはずの二元論の復活である。こ

の考え方は、ソフトとハードへの対応付けを比喩的な表現であるとする考え方と、ソ

フトウエアは本質的に心と同じものであるとする考え方に分かれる。後者の考え方を

支持する人々は「強いAI論者」と呼ばれる[4]。「強いAI論者」によれば、コンピュ

ーターが我々が持つような心を持っていないのは、単にその規模とプログラムの書き

方が違っているからであって、近い将来コンピューターの規模が大きくなり上手に脳

の行動の規則をプログラムに書けば、そのコンピューターは心を持つことになるとい

う。単なる例えにとどまらず、「本質的に同じ」などという強い言及がなされるのに

は理由がある。コンピューターサイエンスにおいては、「コンピューター(マシンと

も呼ばれる)」や「計算」という言葉は、非常に明確に定義されており、この意味で

彼らの結論は科学的となりうるのである。以下ではコンピューターサイエンスにおけ

る「計算」の定義を明確にし、従来の「強いAI」批判が「強いAI」に対する直接的な

批判になっていないことを確認する。むしろ「強いAI」の立場は情報論的な意味で正

しくないのである。本稿では、このように定義されたコンピューターが、将来規模が

爆発的に大きくなり巧妙なプログラム技法が考案されたとしても、心を持つことが無

いことを確認し、コンピューター批判でしばしば議論される自由意思の「自由性」は

脳科学の問題ではないということを示す。また、なんらかの人工物が将来に心を持つ

ことがあるとすれば、どのような理解が必要かということを論じたい。このような理

解は、心の科学的な理解と同義語であると考えている。言い替えれば、そのような人

工的装置を設計できない程度の理解では、心を科学的に理解したとは言えないという

ことである。

 

2、 培養脳

 

培養液の中で細胞を生かしておくことができるように、思考実験として、あなたの脳

を培養液の中で生かした状態を考えることは可能である。この培養脳からは遠心性の

神経繊維と求心性の神経繊維の両方が in vivo の状態と完全に同じに保たれている

ものとする。この遠心性の神経繊維の温度変化に至るまでの全ての出力を観測して、

その時に外界が返すであろう感覚刺激や液性の作用をマイクロ秒のオーダーで計算し

即座に求心性神経や脳内循環器に対して与えることのできる装置をつないだ状態を考

える。この装置は、あなたの身体的情報を全て知っており、例えばあなたが私と会話

する時に、咽喉を通して伝わるあなたの音声信号を与えた時に活動する求心性神経繊

維の活動と全く同一の活動を培養脳の求心性神経繊維にひきおこすことができる。更

にこの装置は例えばあなたの会話の相手である私の情報も精密に兼ね備えており、私

の音声や私を含めた外界が与える全ての視覚性刺激を培養脳の求心性神経繊維に精密

に再現できる。この脳には心が宿っているのは当然のことであり、例えば今見ている

自分の掌は実際には存在しなくて、あなたの脳と外界シミュレーターの共同作業が作

り上げた幻影であることに、培養脳であるあなたは気づくことすらできないであろう

。この培養脳においては外界との境界は、遠心性及び求心性繊維に設定されたが、こ

れは心脳問題を考える上で便宜上設定されたものであり、実際には少しずつ外界に近

いところから外界シミュレーターで置き換えていって、あなたの培養脳が異変に気づ

く直前のところを外界と脳との境界とすべきである。例えば網膜神経節細胞が無くな

っても、精密に外側膝状体への入力を外界シミュレーターが再現できれば、あなたの

培養脳は異変に気づくことは無いと考えられるが、もしV4と呼ばれる大脳皮質まで切

り取ったら、例え脳の他の部位対して完全な入力を外界シミュレーターが再現できた

としても、あなたは世界から色が無くなったことに気づくに違いない。このような境

界の形を明確にできるためには、脳科学における我々の知識は不十分であるので、と

りあえず心との相互作用を持つ部分と物理的実態との境界を求遠心性繊維で代表させ

ておいて議論を続けよう。これは心的実態と物理的実態が相互作用する場として松果

体を仮定したデカルトの考えを培養脳の大きさにまで拡大しただけのことに過ぎない

。我々が知りたいのは、デカルトの松果体すなわちここでの培養脳が心を生み出す仕

組みなのである。ここでは外界との境界への入力を完全なものであると仮定している

ので、心脳問題を考えるステージをこのような培養脳の中だけに限定できるのは明白

である。

 

 

3、イデアルな「コンピューター」=チューリングマシン

 

コンピューターサイエンスにおいても培養脳と同様な考え方で、コンピューターの情

報処理を理解する道具立てが揃っている。現代のコンピューターは千差万別で様々な

コンピューターが商品として出回っている。しかしながら、電卓やエアコンの制御装

置に組み込まれたCPUからチェスの世界チャンピオンになったディープブルーに至る

まで、全てがチューリングマシンと呼ばれる単純化されたコンピューターのプログラ

ムでエミュレーションが可能であるということが知られているのだ。すなわち、これ

らの装置において、違いは入出力のインターフェイスと処理速度の違いだけにあるの

であって、培養脳的考え方で「計算」の部分だけを取り出すと全て同じ装置となる。

この事実においては「並列コンピューター」とて例外ではない。実際、数十年前から

逐次的処理をするCPUで並列計算は行われており、それを並列計算できるCPUで置き換

えられるようになったのは最近のことである。従って、チューリングマシンで示され

た事実は全てのコンピューターに例外無く当てはまる。従って、以降ではこれらのコ

ンピューターを総称して、チューリングマシンと書くことにする。コンピューターサ

イエンスにおいて「計算」とはチューリングマシンの情報処理のことを指しており、

「計算可能性」とはチューリングマシンが有限時間で処理を停止できるかどうかとい

うことを意味する明確な概念なのである。

 

チューリングマシンの仕様は以下のようなものである。

 

(1) 無限長の紙テープに「1」か「0」の数が一列に並んで書かれている。

 

(2) Nビットのキャッシュメモリを持つ読みとりヘッドはプログラムに従って以下の3

種類の動作をする。すなわちプログラムの命令コードは以下の3種類。

 

(3) (i) (a,x) ----> (b,y,R) (R: ヘッドが右に動く)

(ii) (a,x) ----> (b,y,L) (L: ヘッドが左に動く)

(iii) (a,x) ----> (b,y,S) (S: マシンが動作を停止する)

 

(x,yは、ヘッドの位置の、紙テープに書かれた1ビットの値)

 

(4) a,bはマシンの各「状態」を区別する自然数の番号である。Nは「状態」の数の

ために必要な大きさを持つものとする。

 

(5) プログラムは上の命令コードの表であり、記述の順序は何の意味も持たない。

 

チューリングマシンの動作を決めるプログラムやプログラムとデータの間の区切り子

も一つの二進数で表すことができるので、これをテープ上に記述することができる。

従って、テープの上に書かれたデータとプログラムの組を表す「1」と「0」からなる

数列を、ある巨大な自然数の二進数表現と考えることができるので、チューリングマ

シンの一ステップの動作は一つの大きな自然数を別の自然数に対応づける関数で表さ

れる。このことは、全てのコンピューターの動作は自然数を自然数に対応づける数学

的関数にすぎないということを意味する。従って、筆者が本稿を書くときに使用して

いるワープロも、あるとてつもなく大きな自然数なのだ。心がコンピューターでシミ

ュレーションできると考えることは、「心」は一つの大きな自然数であると主張する

ことに他ならないのである。この関数を上手に書くことによって、同じチューリング

マシンの動作をするプログラム(万能チューリングマシンと呼ばれる)を書くこともで

きる。この事はイメージしにくいかもしれないが、例えば、Windows98の一つのウイ

ンドウの中で、Windows98が動いているというようなことに相当する。チューリング

はこの万能チューリングマシン(自然数の関数)を利用して、「チューリングマシンが

停止するときに1を出力し、停止しないときにを出力する(いわゆる「停止問題」を解

く)プログラム」が存在しないことを証明した。

 

チューリングマシンにとって不可能な「計算」が存在するということは、コンピュー

ターには正しいかどうかを判定できない問題があるということである。ヒトの心が判

定することができる数学的真理の中には、この「停止問題」と同じカテゴリーに属す

るものがあるとして、ペンローズ[7]は心をシミュレートするプログラムは存在しな

いと主張した。この主張には説得力はあるものの、「コンピューターに解くことがで

きなくても、ヒトの心はこれを解くことができる」という証明をしない限り科学的回

答とは言えない。ヒトの心をもってしても「停止問題」を解くことができないかもし

れないからだ。そもそも、現代の有用なプログラムの殆んどは停止しないプログラム

なのである。筆者が使用しているワープロも「終了」のメニューを選択しない(外界

からもたらされる入力がない)限り停止しないプログラムである。例えば、円周率を

好きな桁数だけ計算するプログラムは停止しないプログラムだが、上で述べた「計算

可能」の定義に従えば、意味のないプログラムということになる。このような停止し

ない計算も含めた、実数の連続性の帰納的な定義に基く「計算」をするマシン(タイ

プ2マシン)[8]も考案されている。タイプ2マシンは非決定性を持っていて、オラク

ルと呼ばれる非局所的な情報を利用して「計算」を行う。このようなプログラムの実

行開始の時点で与えておくことができない外部情報のことをチューリングはオラクル

と呼んだ。つまりチューリングマシンは、一つのヘッドの位置に書かれた数(局所的

な情報)だけで次の状態を決定できるが、タイプ2マシンは、テープに書かれた情報

の履歴を用いた「計算」を行う。どの時点の履歴を用いるかというルールがこの場合

のオラクルである。このオラクルのルールまで含めた装置はチューリングマシンでシ

ミュレートできることに注意しよう。

 

タイプ2マシンにおいても、オラクルには意味が含まれることはあっても、その処理

自体には上で述べたような単純な意味(紙テープからの読みとりやコピーのこと)しか

存在しない。この単純な処理を、中国語を知らないアメリカ人が黙々と決められた処

理をする部屋に例えたのがサール[9]の有名な「中国語の部屋」による「強いAI」批

判である。この思考実験が「《意味》を持てないからAIはダメだ」という結論を導く

ためのものであるかのように語られることもあるが、脳が決められた処理を黙々とこ

なすニューロン達の総体であることを思い起こせば、この解釈は間違いであることが

分かる。本来、サールの批判は、脳というシステムとしての機能を持つものに対して

、入力と出力が精密に再現できればそれでよいとする議論の誤りに向けられたものな

のである。これをシステムを構成している部品(ニューロン、或は、分子)にまで適用

するのは誤りである。

 

4、ラプラスの魔物

 

ラプラス[10]は、世界を作る全ての物質の位置とあらゆる瞬間に各物質に働く力を知

り、あらゆる物質の運動方程式を知って全ての物質の運動を計算するだけの能力を持

つ(ラプラスの魔物と呼ばれる)英知の目には、過去も未来もただそこに存在するもの

として映ると考えた。この魔物が実在しないにしても、宇宙の全ての物理的実態(粒

子や場)の初期状態を知れば、原理的には以降の状態は数式によって導かれるという

考え方は一見正しそうに見える。もしこれが正しいとすれば、未来の宇宙の状態は決

定していることになる。ヒトの脳とて原子からできている宇宙の物理的実態の一部で

あるから、その脳の振舞いは決定していることになる。従って、自由意志を持つよう

に感じられるあなたの心もあなたの脳やその環境を作る有限個の分子の初期状態に決

定づけられた振舞いが予定されているということになる。この議論に対する批判に量

子力学の不確定性を持ち出すのは誤りである。何故ならシュレディンガー方程式は時

間に対して確定的に書かれており、ラプラスの魔物は宇宙全体のハミルトニアンを知

っていて、宇宙の外の観測者を想定していないからである。従って、全宇宙のための

シュレディンガー方程式をタイプ2マシンが「計算」可能であれば、これをシミュレ

ートできるチューリングマシンはラプラスの魔物になる資格があるし、宇宙の一部と

なっているあなたの心も「計算」できるということになる。しかしながら、話はそう

単純でないことがわかる。実際、オラクルを必要とするような運動方程式も存在する

 

(詳細は、このRFCのhtml版のURL、

http://hisl.kanazawa.ishikawa.jp/~yo/cyber_mind/cyber_mind.html

を参照)

 

実際の物理現象にはこのようなオラクルを必要とする方程式が存在しないのだとする

考え方も誤りである。ポアンカレはたった3個の質量が重力の相互作用のもとで運動

する場合がカオスとなることを示した[11]。物理学で言うカオス(混沌)という言葉は

数学的に精密な定義を持っていて、「系の未来永劫の運動を決定するためには無限精

度の初期値を必要とする」という場合のみに用いられる。無限精度の初期値を必要と

するということは、「計算」の過程のあらゆるステップにおいてオラクルを必要とす

るということと等価でもある(図1)。

 カオスを示す方程式においては数十桁の初期値が与えられていたとしても、数十ス

テップ以上未来の系の状態を予想することが不可能なのである。宇宙が決定論的であ

るとする考え方は、この無限精度の停止しない「計算」を宇宙が行っているという考

え方と等価であるが、それはあらゆる瞬間に無限精度の初期値に埋め込まれた決定論

的で非局所的な外部情報(オラクル)を用いて「計算」が行われるということとも等価

である。オラクルを用いた「計算」においては(1)式のように無限精度であってもオ

ラクルを初期値に埋め込めない場合も存在するが、初期値を与えるのと同様に、決め

られた時刻に(時空点において)オラクルが導入されるということにすれば「計算」は

決定論的なものとなる。従って宇宙が決定論的であるかどうかは、非局所的に与えら

れるオラクルが、予め考えている系の一部として含められるかどうかに帰着される。

我々はあくまでも一元論的立場をとるので、方程式の境界条件等のオラクルは決定論

的に考えている系に含めなければなるまい。宇宙の一部としての脳と心の問題にかえ

れば、ペンローズ[7]は「ヒトが数学的真理を見抜く瞬間がプラトン的世界との接触

の瞬間である」と述べているが、ここまでの議論で我々が無限精度の「計算」につい

て考えたことは、この「プラトン的世界」をオラクルという言葉で言い替えたことに

過ぎない。心を科学的に理解するためには、これらの内容を理解することが不可欠な

のである。ペンローズは、そのためには量子重力理論が重要な鍵をにぎっていると考

えているが、それだけでは、我々が知りたいニューロンと心との関係が希薄である。

自由意思の「自由性」を未来の予測不可能性と捉えるなら、これは純粋に物理学の問

題であるが、我々が「自由性」を知覚(錯覚)していると考えるなら、これは脳の認識

の問題である。すなわち脳が「自由性」を持っているかどうかという議論は、脳科学

においては意味のない議論なのであって、「自由性の知覚」が説明されなくてはなら

ない脳科学の問題であるということになる。脳におけるオラクルの正体と、脳を作る

ニューロンが各時空点においてオラクルが用いられる方法を明らかにすることが必要

なのだ。

 

5、クオリア

 

例えば、我々が赤い色を知覚するときに心に生じる質感(例えば「赤の赤さそのもの

」と表現される)のことを(赤の)クオリアと呼ぶ。チャルマーズは「真に心を理解す

るということはクオリアを科学的に理解するということだ」として、これをハードプ

ロブレムと呼んだ[12]。一見、質感を脳という物理的実態から切り離して考える二元

論の再来に見えるが、「クオリアが脳のメカニズムによってのみ理解されなければな

らない」と言う困難を指して「ハード」と呼んでいる意味で、二元論ではない。心の

属性として、クオリアや「数学的真理に対する気づき」、「意図」、「意味」、「理

解」等を同列に考えるのには理由がある。これらは脳のメカニズムによって説明され

なければならないのだが、その脳はニューロンという同じ機能素子によって構成され

ており、その違いはニューロンどうしの関係性の違いだけによっていると考えられる

からである。本稿では敢えて、心の定義を明確にしないまま議論を進めてきたが、「

心」という言葉でしめくくられる上記の科学的理解の困難な対象の中で、クオリアが

心の科学的理解に到達する近道であると筆者は考えている。その理由はクオリアが比

較的脳の中で限局された領域で生じていると考えられ、脳の知覚機能は最も神経科学

的理解が進んでいる分野だからである。

 

培養脳を想定したときと同様な考え方に基づいて、問題をクオリアに限局すれば研究

のステージをクオリアと関係する皮質領野に限局することが可能なように見える。し

かしながら、培養脳の思考実験では自分を取り巻く世界に異変を感じる「自己」とい

う存在が暗黙に仮定されている。この「自己」という存在まで外界シミュレータで置

き換えてしまったら培養脳と外界の境界を定義するための条件まで消えてしまうので

ある。従って、クオリアを考える時には培養脳と同じ考え方を用いることはできない

。ここでは議論が不完全であることを承知の上で培養脳の時とは逆の方法で研究のス

テージをクオリアに限局することを考えようと思う。例えば赤い色のクオリアを考え

る時に、外界シミュレーターと我々の培養脳との、でき得る限りの境界の形を試み、

ちょうど赤のクオリアだけが消えるような場合を考えよう。この時外界シミュレータ

ーで置き換えた境界の外にあったニューロン群の神経活動だけに研究のステージを限

局するのである。これは神経科学において行われる破壊実験でも議論されることであ

るが、本質的に不可能な操作である可能性もある。しかし、例えばピアノで「ドレミ

ファソラシド」を奏でたときに聞こえる音をイメージした時に、我々ははっきりと音

階を認識するが、この音階のクオリアが存在しないことに注意しよう。すなわち、実

際に音階を聞いた時の入力を外界シミュレーターに与えた場合の培養脳全体の神経活

動と、音階をイメージしただけの時の培養脳全体の神経活動との違いの部分がクオリ

アを研究するステージなのだと考えることができる。

 

しかしながら話をクオリアに限局できたとしてもなお問題は極めて困難である。例え

ば440Hzの音のクオリアを作り出すニューロン群と、緑色のクオリアを作り出すニュ

ーロン群はどちらも、機能素子としては同じメカニズムを持ったニューロン達から構

成され、異なるのは素子どうしのシナプス結合強度の値と、そこから生み出される活

動の時空間パターンだけである。それにもかかわらず440Hzの音と緑色はあまりにも

違いすぎるのである。我々が緑色を見た時に440Hzの音を聞かないのは何故なのであ

ろうか?

 

 

6、結びつけ問題と認識におけるマッハの原理

 

現在我々が手に入れている機能局在の知識が教えていることは、我々の知覚は脳の異

なる場所と異なる時刻、更には異なる時間間隔における神経活動によって作られてい

るということである。そのメカニズムを問う問題は(属性の)結びつけ問題と呼ばれる

。結びつけ問題を解くには、研究室時間において異なる時点に起こる神経活動を結び

つけるための基本原理が必要である。20世紀の始めに物理学は、相対性理論によって

、このような異なる時空点における事象を結びつけることに成功している。認識にお

ける結びつけ問題も物理学と同様な方法で解決することはできないだろうか? マッハ

が質点一個だけでは時空が存在できないと考えたように、茂木はニューロン一個だけ

ではクオリアは存在できないと主張している[14]。これは極めて自然な考え方であり

、疑う余地はない。マッハの思想を自然に定式化することによって一般相対性理論が

作られたように、茂木の考え方をニューロンの相互作用に適用することは可能である

と考えられる。筆者は、各ニューロン毎に異なる時間座標をその一般化座標とする座

標系が、各ニューロンの活動頻度で表される計量テンソルによって規定される時空モ

デルを記述した[16]。本稿の目的から離れるので理論の詳細は書かないが、このモデ

ルにおいては個々のニューロンの活動は固有の時間を持ち、その時間は他のニューロ

ンの活動パターンによって測られる。結果として複数のニューロンの活動は曲率を持

った時空間座標を構成することになる。筆者は、この時空の平均曲率が正になる時に

心は局在した(=命名可能な)対象(クオリア)を持つと考えている。通常の神経回路網

モデルの動力学が、特定の脳機能を研究室時間で同時刻の神経活動に対応させている

のに対して、このモデルは研究室時間で計って、ニューロン毎に異なる時刻、そして

異なる時間区間の複数の神経活動が張る時空の数学的構造がクオリアになっていると

主張している。ここでは異なるクオリアを構成する神経活動の時空はニューロンと切

り離して考えられないことに注意されたい。すなわち、通常の神経回路網モデルにお

いては、例えば「お婆さん神経集団」に対応するという同じモデルを、実は「赤ちゃ

ん神経集団」であったとしても矛盾が生じないが、筆者の時空モデルでは数学的構造

の異なる時空は固有のクオリアを構成しているために、これを実現している神経活動

の集合を切り離しては存在できないのである。このモデルにおける数学的構造は、前

の節で議論した神経系に与えられるオラクルに相当するが、数学的構造はその物理的

表現である脳の出現に拘らずアプリオリに存在していたと考えられるので、脳を数学

的構造というオラクルを発見するマシンと捉えることも可能であろう。

 

7、まとめ

 

自然界で自然に起こっているカオス的現象や、Cauchyの条件を満たさない現象には、

無限精度の初期値を与えるか、これと等価な非局所情報をオラクルとして用いなけれ

ば、停止しないことを許したマシンによっても、近似的なシミュレーションすらでき

ない。逆に言えば、無限精度の初期値を知り、無限精度の「計算」が可能なチューリ

ングマシンや、全ての履歴におけるオラクルを知っているラプラスの魔物を想定すれ

ば、宇宙の一部である脳、すなわち心も再現できる可能性はあるが、仮にそうだとし

てもそれでは我々が知りたい心を科学的に理解したことにはならない。従って、心の

科学的な解明のためにはデカルトの松果体に相当する脳の一部分の中身を研究のステ

ージとせねばならない。クオリアを構成している複数のニューロンの活動の時空間パ

ターンにまで研究のステージを限局した筆者のモデルは、二元論に陥らずに科学を自

然に拡張するものと考えられる。このモデルではクオリアに代表される心は神経活動

の時空間パターンの持つ数学的構造のことであり、物理的な実態である神経活動の時

空間パターンと独立には世界の中に存在できないからである。一方で、同じような心

を持つ脳が沢山存在できるように、同じ数学的構造を持つ人工物を創造できれば、そ

れは心を持つことになろう。しかし、さしあたってそれは現在のアーキテクチャを持

つ「コンピューター」ではない。

 

謝辞

 

本稿を書くにあたり、辰巳仁史氏から頂いたアドバイスに感謝致します。また、心脳

問題に気づかせてくれた茂木健一郎氏、日頃からの議論の相手になってくれている人

間情報システム研究所の鈴木良次先生を始めとする諸氏に感謝致します。

 

References

 

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14 茂木健一郎 (1997)「脳とクオリア」日経サイエンス社.

 

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16 田森佳秀 (1998) 「神経活動から主観的知覚の多様体を構築する」, 画像の認識

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17 Dennett, D.C. (1991) ``Consciousness explained'' Little Brown & Company

日本語訳: (1998)「解明される意識」山口泰司訳, 青土社.

 

(C) 田森佳秀 2000

 

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