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心脳問題Request For Comments 

Mind-Brain Request For Comments

 

心脳問題RFC#10 金沢創 「他者の心は存在するか」

Multiple Book Reviews & Response

 

Issued on 7th March 2000

 

 

本書の要約は、

心脳問題Request For Comments  #8

http://www.qualia-manifesto.com/rfc/rfc8.html

として出版されました。

 

Contents

 

第一部 

複数の著者による書評 Multiple Book Review

 

書評1 茂木健一郎

書評2 中塚則男

書評3 松元健二

書評4 細馬宏通

書評5 蛭川立

書評6 吉田正俊

書評7 相田

 

第二部

Multiple Book Reviewに対するResponse  金沢創

 

 

======第一部======

 

<書評1>

金沢創著 「他者の心は存在するか」 書評

 

"Innocent Qualia, Innocent World"

 

茂木健一郎

kenmogi@csl.sony.co.jp

http://www.qualia-manifesto.com

 

 私は、本を読みながら、マーカーで印をつける。あるいは、ページの耳を折ってい

く。後に、読み返す時に、重要な箇所にすぐ飛べるようにである。この本のページは

、折れた耳だらけになった。それだけ、多くの事柄が、要領良くまとまっている。特

に、第III章の「コミュニケーションの推論モデル」は、私にとって価値が高かっ

た。「心の理論」の周辺の理論を、コンパクトにまとめたこの章だけでも、この本は

読む価値があると言えるだろう。そして、III章を受けたIV章の議論も、著者の

専門である霊長類学の知見が生かされ、極めて興味深い。

 著者は、V章の「私の起源」の最後で、著者が「唯感覚情報論」とでもいうべき立

場を表明する。そして、客観的な物理的世界を前提にして、その部分集合になぜ心が

宿るのかという意味での「心身問題」は、ニセの問題であると断言する。感覚情報以

外に宇宙はなく、客観的な物理的世界は、感覚情報に基づいて我々が構築したモデル

に過ぎないと主張する。

 著者が、本書における様々な議論を経た後、このような見解で全体を閉じようと思

ったその必然性、深みは、私にも伝わってくる。そのことを受け止めた上で、私があ

えて問いかけたいのは、著者は、このような見解に留まるつもりなのか、それとも、

ここからさらにどこかに行こうとしているのかということである。というのも、「唯

感覚情報論」自体は、次の二つの理由で、私には最終的な解答だとは思えないからで

ある。

 まず第一に、著者の言う「感覚」自体が、我々が脳の中に構築する抽象的な世界モ

デルと無関係ではないということである。両眼視野闘争などの視覚の研究において明

らかにされているように、我々は、外界からの感覚情報を受動的に受け止めているだ

けではなく、むしろ、自分自身の中の世界モデルに都合のいい感覚情報をピックアッ

プし、アレンジし、外部世界を能動的に再構成している。我々は、「自らが望むもの

を見る」のである。感覚を構成するクオリアは、その意味でイノセントではない。ク

オリアは、すでに、私たちがつくる世界モデル(その中には、客観的な物理的世界と

いう世界モデルも含まれる)の洗礼を受けている。

 さらに、「唯感覚情報論」は、私には、天動説のようなものに感じられる。地動説

が誕生し、ニュートン力学によって天体の運行が記述されるようになったとしても、

座標系として地球が静止している座標系を取ることは許される。この点を捉えて、天

動説が正しいと言うこともできる。しかし、ニュートン力学で天体の運行を記述する

時、天動説の座標系をとらないのは、地球が太陽のまわりを回っているという座標系

をとった方が、物事がシンプルに記述できるからである。その意味で、地動説の座標

系は、天動説の座標系にくらべて劣っている。

 「唯感覚情報論」は、もちろん、否定することは困難である。なぜならば、我々は

、自分の意識に上るものを通してしか、世界を把握できないからだ。しかし、一方で

、客観的な物理的世界の一部である私、あなた、彼、彼女のみに心が宿っているらし

い、このような心脳問題の定式化が、どのような経験と叡智の積み重ねの上に形成さ

れてきたか、著者にはもちろんわかっているだろう。そのような歴史を踏まえた上で

、「唯感覚情報論」を今主張することに、どのような意味があるのか?

 若い著者にとっての著作は、一種のマニフェスト(所信表明)である。著者が、「

他者論」において独自の議論を展開する準備ができていることは、各章の議論でわか

る。では、最後の「唯感覚情報論」のマニフェストから、彼はどこに行こうとしてい

るのか? あるいは、これは、一種の箸休めに過ぎないのか? どのような驚きを見

せてくれるのか? 次作に対する期待が高まるところである。

 

 

<書評2>

■書評:金沢創著『他者の心は存在するか』(金子書房:1999)

 

 

 氏名:中塚則男

 電子メイルアドレス:norio-n@sanynet.ne.jp 

 webpage URL:http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n

 

 

 読者の思索を促す豊かな素材と議論に満ちた書物である。とりわけ進化論的な「私

」の表現レベルを論じて「今、ここにある感覚情報の宇宙」という根源的存在へ降る

最終章が素晴しい。真正の哲学の問題とは自然科学書の最後の頁に記されるものであ

るとするならば、ここに叙述されているのは出来合いの心身論や意識論、他我論をめ

ぐる退屈な哲学談義ではなく、自らの感覚と直観と生の現実に即した思考の果てにま

ぎれもない哲学の問題とその言語的表現を見出した者の驚きである。

 

 このような著者の驚きが読者である私(もうひとつの宇宙)に伝達され理解されさ

らなる思索を導くことのうちに、他者とのコミュニケーションをめぐる奥深い謎が孕

まれている。哲学の問題とはこうした類の謎をかかえて生きる者、生きて行かざるを

得ない者をとらえる「哲覚」とでもいうべき感覚にほかならないのであって、それは

本来ヒトが自然科学を志す契機ともなるはずのものだ。この感覚の外部に立った哲学

的言説や科学理論は、ここでいう外部の設営そのものも含めて死んだモデルにすぎな

いだろう。

 

 寺田寅彦はかつて科学者がもつべき要素として、数理的分析能力や実験によって現

象を体系化し帰納する能力とともにルクレチウス的直観能力を挙げ、ルクレチウスの

みでは科学は成立しないがルクレチウスなしには科学はなんら本質的なる進展を遂げ

得ないと書いた。真正の哲学的センスと自然科学的センスが融合した本書は科学的思

索の書であると同時に「科学」批判の書であり、哲学的思索の書であると同時に「哲

学」批判の書である。

 

 ところで内容の豊穰はその過剰につながる。第II章から第IV章にかけて多彩に繰り

出される方法論的・理論的検討は鋭く示唆に富むが、著者自身の議論との有機的な関

係は必ずしも明快ではない。叙述に不足があるのではなく、素材が過剰なのである。

また第IV章後半の議論と第V章の議論では問題や方法の次元と質が異なっている。著

者が本当に書きたかったのは後者だと思うが、ある意味で本書は第IV章で完結してい

る。ここには構成上の過剰がある。さらにいえば、随所にちりばめられた科学者とし

ての著者の態度表明ともいうべきメタ・メッセージが本論に繰り込まれ明示的に展開

されることもない。

 

 しかし以上の事柄は少なくとも私にとって本書の魅力の一部である。これらの切断

面をつなぐことで未だ言語化されていない著者の「宇宙」に迫るスリリングな読後の

作業が残されているし、ベイトソンの進化理論=メタローグ説の眩暈的世界を彷彿と

させる本書の構成上の多次元性が私自身の哲学の問題をめぐる思考を刺激してやまな

いからだ。完成された書物がもたらす陶酔は読者の思考を奪うのであって、本書最終

章のテーマに即していえばそれは失敗したコミュニケーションの残香にすぎないので

ある。

 

 

     **********************************

       中 塚 則 男 norio-n@sanynet.ne.jp 

       http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n

 

 

<書評3>

 

金沢創著『他者の心は存在するか』(金子書房)書評

松元健二

matsumot@postman.riken.go.jp

 

 理論とモデルとの区別を論理的前提とした上で、「心の理論」と「関連性理論」と

の批判的検討および霊長類の認知機能の種間比較を通じてなされた、認識の三つの階

層の進化モデルの提案。本書における著者のこの展開は、近現代の動物行動学、認知

心理学の諸成果を踏まえ、個と全との統一の構造の解明にも迫ろうという認識論構築

の試みとして高く評価されるべきである。ただし、本質的なある一点を除いて。

 認識された世界について、自己と他者との間に同意が成立しうるという社会的事実

は、その世界が客観的に存在するという考えを証明しはしないが、やはり支持するも

のではあろう。ところが、「他者の心」という表現自体矛盾したもので、結局のとこ

ろ自己の産物であることを著者は強調し、他者の心を含めて、世界を感覚情報に還元

してしまうことになる。ここがその問題の一点である。そこまでの展開が優れていれ

ばいるほど、この一点は、面白いモデルであればよいと看過することのできない問題

となる。なぜなら、客観的世界の排除は、認識の物質的根拠を空虚と化し、主観と客

観との統一に基づいて人類の行く末を照らし出す究極の倫理追求の道を、封印すべき

ことを説かざるを得なくなるからだ。「感覚情報の数だけ宇宙がある。本当は、まっ

たく交差することのない宇宙が複数あり、それらが『恒常性を作り出すシステム』に

よって、一つの物理宇宙の中に存在するように仮定してわれわれは生きている。その

システムの作用を取り去って、ただ感覚情報の海の中に身をおいたとき、私にできる

のは、この真に存在する『今、ここにある感覚情報の宇宙』以外に、また別の宇宙が

存在することを漠然と想像することだけである。」という結語とも言えよう記述それ

自体は正しかったとしても、その論理の適用限界を定める必要があろう。個体間コミュ

ニケーションの問題を超えて、「心身問題はニセの問題である」と断言するまでの根

底的な諦めに向かうべきではない。

 このような諦めの結論に至らざるを得なかった根拠はもちろん、出発点から現在の

到達点に至るまで徹頭徹尾、著者は自身の感覚情報をしか問題にしていないことにあ

る。その感覚情報のみが、著者にとっての公理となっているのだ。ただ、レベル1に

加えて主客未分化のレベル0をも設定し得たところには著者の卓見がある。まさに

「そこ」へ片足を踏み入れながらも、まったく惜しまれることに、著者はもう一方の

足を引き入れることをしない。レベル0を「永遠で場所のない今に、感覚情報が並列

されている世界」とすることにより、感覚情報を根元においてしまうのである。しか

し「そこ」には、無機的な物質が、自己の恒常性維持システムを獲得する生命の誕生

という進化史上最大のイベントがある。生物の進化と軸を一にして、感覚情報の階層

構造が深化していく事実と、恒常性維持システムという生命と感覚情報との共通基盤

とを考慮するに、生命誕生にこそ、感覚情報の起源を求めるべきではないかと私には

思われる。生命誕生はビッグ・バンより後の出来事である限り、両者のアナロジーは

あくまでアナロジーでしかなく、同一視されてはなるまい。「(感覚情報の)起源を

強引に問うことは、ビッグ・バン以前の宇宙を考えるというのと同じくらい意味がな

い、あるいは困難なことだ」として、感覚情報の起源を度外視している限り、アキレ

スは亀を追い越すことができないのである。

 

 

 

<書評4>

「他者の心は存在するか」(金沢創/金子書房)書評

細馬宏通

mag01532@nifty.ne.jp

 

 「私 (self)」論について、これだけ多様なジャンルに渡る議論をコ

ンパクトにまとめた本はこれまでなかったように思う。単にまとまって

いるだけでなく、III章以降の「心の理論」「関連性理論」「(デネッ

トの)レベル」を軸にした議論では、「私」の発生をめぐるさまざまな

論点が浮き彫りになっている。

 この本の要は、IV章のp164-165の図だろう。この図では、送信者

から見た世界(「関連性理論」)と受信者から見た世界(「(デネット

の)レベル」)が描かれている。双方の「私」を非対称に向かい合わせ

た点に、著者のセンスを感じる。こうした送信者・受信者の非対称性へ

の配慮のセンスは、柄谷行人の「教える−学ぶ」関係に触れているIV

章、あるいはコミュニケーションを「相互顕在性の修正の連続」と論じ

ているIII 章からも感じられる。

 

 一方で、p164-165の図からは疑問も浮かんでくる。

 まず、チンパンジーが人にバナナをとってもらおうとする例で考える

限り、デネットのモデルは受信者Bが未だ起こっていないAの行為を頭

の中で期待するシミュレーションのモデルであり、「コミュニケーショ

ンが終了した直後の状態を扱っている」のではない。これをあえて「直

後の状態」とするのは、関連性理論とのすり合わせを考えてのことだろ

うが、だとすると次の疑問がわく。

 この図で見る限り、デネットのレベル論は、関連性理論とある点で根

本的に異なっている。それは、関連性理論では、「私」は相手の思考の

まわりに発生するいっぽう、デネットのレベル論では、「私」はできご

とXのまわりに発生する点だ。前者は、言語のような他個体の感覚情報

をオブジェクト化して扱うコミュニケーションにあてはまりやすいだろ

うし、後者は事物に穢れを見たり所有の痕跡を見いだすようなフェ

ティッシュなコミュニケーションにあてはまりやすいだろう。

 では、この2つの図は、できごとXと「私」の関係の違いを、異なる

場面でのコミュニケーションとして表そうとしているのか。それとも送

信者と受信者の質の差として表そうとしているのか。それによって今後

の論点も変ってくるように思う。

 もうひとつ。V章の議論では、レベル2と3の違いは、感覚情報に

「私」が入っているかどうかの違いだとされている。いっぽう、IV章

では、「ある個体の視点からみた他の個体の視点というものが表現され

るという点である」となっている。この両者は似ているようで違う。前

者の場合、観察による他者の心の推測はレベル2で可能になる。なぜな

ら、自身以外の他個体の表象がすでに感覚情報で含まれているからだ。

簡単に書けば、個体Aは「Xを考える個体Bを考える個体C」を推測す

ることができる。いっぽう、後者の場合、個体Aが「Xを考える個体B

を考える個体C」を推測する能力は、レベル3に属するできごとであ

る。金沢氏は「ある個体の視点からみた他の個体の視点というものが表

現される」という現象と「[私]の登場」という現象を、同一のものと

考えているのかどうか。

 

 あれこれ疑問を呈したが、これらの疑問は、本書においてコミュニ

ケーションモデルの形式化が威力を発揮した結果でもある。これは刺激

的な本だ。本書で扱われた事例に関して、ぼくはたくさんの図を描いて

あれこれ考えたことを最後に告白しておこう。

 

 

 

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細馬宏通

〒522-8533

滋賀県彦根市八坂2500

滋賀県立大学人間文化学部

tel:0749-28-8437

fax:0749-28-8512

 

<書評5>

 

 蛭川立

 t-hirukawa@bekkoame.ne.jp

 

 「他者の心は存在するか?」じつをいうと、わたしは、存在しようが存在しまいが、

どうでもいいと思っている。それで、たとえば、猫とじゃれ合ったり、恋人と見つめ

合ったり、人工無能と語り合ったりするのに、べつだん不自由は感じてこなかった。

すでに拙書「性・死・快楽の起源」に書いたように、わたしにとっての根本的な謎は、

わたしの身体とわたしという感覚の折り合いの悪さであり、それがわたしにとっての

心身問題だった。(わたしの身体が死んだら、わたしも、わたしの経験している世界

も、消えてなくなってしまうのだろうか!?)

 だから、金沢氏が、心身問題を、なぜ、ある物体は心を持っていないように見え、

ある物体は心を持っているように見えるのか、と定式化しているのを見て、不勉強な

わたしは驚いた。こんなものが心身問題なのか!しかし、最終章を読みすすむうちに、

どういうことなのかがわかってきた。心身問題には、すくなくとも一人称的な心身問

題と、二人称的な心身問題の、二通りの問題の立て方があるのだ。(それに加えて、

三人称的な心身問題というのもあるかもしれない。)わたしが考えてきたのは前者で、

金沢氏が考えてきたのは後者だったのだ。しかも、二人称的な心身問題から出発して、

レベル0、1、2、3の議論を経ることで、逆に、鏡像的に一人称的心身問題が映し

出されてくることに、わたしは感心した。(自己中心的なわたしは、いつも、その逆

しか考えたことがなかったからだ!)一人称的な問いと、二人称的な問いは、表裏一

体だったのだ。しかも、それだけではない。金沢氏は、そこまで話を進めた上で、さ

らに、心身問題はニセの問題だ、と言い切ってしまう。物質の世界を唯一リアルなも

のと考える唯物論と、心、あるいは観念の世界を唯一リアルなものとみなす唯心論ま

たは観念論という両極端を排し、かつ二元論や三元論を排し、かわりに感覚や現象な

どを唯一リアルなものとみなす中性的な一元論を導入するによって、心ー物問題それ

自体を無効にしてしまおうというやり方は、金沢氏のオリジナルではなく、すでに古

今東西のたくさんの学者たちによって試みられてきたことだ。じっさい、金沢氏の

「感覚情報一元論」は、マッハ主義の立場によく似ている。

 しかし、最終章における金沢氏の暴走は、そこでもまだ止まらない。今ここの感覚

情報だけ、という「レベル0」の世界は、たんなる理論的な概念なのではなく、瞑想

という実践によって、一人称的に経験=実証されるというのだ。ここまでくると、金

沢氏の議論は、こんどはインド哲学における中観派の思想に接近してくる。マッハの

精神物理学と、中観派の大乗仏教を、進化論的心理学が架橋するなんて。そんな空想

をして、わたしは、ちょっとドキドキしてしまった。安易なトランスパーソナル心理

学なんかよりずっとすごい、本格的な仏教心理学、というか、インド哲学の心理学的

再構築の予感を感じてしまったのだ。わたしは、このわくわくする最終章が、たった

の41ページで終わってしまって、ちょっとさびしかった。きっと、これは「パート2」

への布石なのだ。いまのところ、わたしはそう考えて納得している。

 

--

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Tatsu Hirukawa 蛭川 立 (^_^)/

 http://www.bekkoame.ne.jp/~t-hirukawa/

(Virtual Museum of Anthropology)

 蛭川立『性・死・快楽の起源』(福村出版)

 ダ・ヴィンチ 1月号 http://www.recruit.co.jp/Davinchi/

 「注目本100」ランキング入り!(らしいです)

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<書評6>

 

吉田 正俊

myoshi@nips.ac.jp

http://member.nifty.ne.jp/myoshi/welcome.htm

科学技術振興事業団心表象プロジェクト研究員

(岡崎国立共同研究機構生理学研究所高次液性調節研究部門)

 

まずは非常に面白かったです。最終章での著者の世界観を一通り

作り上げるところまであっという間に持っていかれて、話の展開には必

然性を感じました。

 

構成についてひとつ言うと、2章は知っていたことも多いし、1章での

問題提起、そして本の題名といったところで問題追求型の話の進め方

をしているはずなのにまだるっこしいと思いました。強く言ってしまえば、

この章はなくても話は通じるし、その方が訴える力は強かったと思いま

す (この章でいいたかったことが後の章にかかっていることは承知して

おりますが)。逆にいえば、この本はいろいろ詰め込んであるような印象

があるが、ここを除くと結構一本道で進みやすいか、と。

 

大切な5章の結論についてですが、主観的世界が始まりであり、進

化的には、そこから外部世界が出来上がり、他者が出来上がり、自己

が出来上がる、というのは私にもスムーズに受け入れられます。スター

ト地点は主観的感覚世界なのは確かで、そういう内部の視点を大切に

する、という考えが私がオートポイエーシス論に共感する理由でもあり

ます。しかし、こういう立場はここから先を進むのに苦労するんじゃない

かと思います。それは現象学しかり、オートポイエーシスしかりで。な

ぜ、他者が同じような認知構造を持っていて、実際コミュニケーションが

できてしまうのか、というあたりに心身問題は視点の逆転によって隠さ

れた形で入っていると思うのですが、ここについて著者が[この一歩を

踏み出してはいけない」(p.219)というとき、単に出発地点に問題を押し

込んだように見えてしまいます。こういうのは「哲学」がまた始まる場所

だと思うんです。

 

違ったレベルの話ですが、結局著者は「進化による説明」(2章より)

に終始して、他者のメッセージがどうやって自分に信憑を与えるのか、

などについての機構、機能のレベルでの説明が足りない(誰もできてい

るわけではないと思いますが)のではないかと思います。このあたりが

私は「心身問題は偽問題」という主張が証拠不充分だと思う理由のもう

ひとつです。これらの説明のためには、ニューロン、脳レベルでの説明

が必要になるのではないかと思います。試しにひとつ考えてみたのです

が、カエルの目を手術で180度回転させておくと、カエルは餌の位置に

対して180度回ったところに舌を伸ばすだけで、外部世界と脳内表現の

対応を修正できないらしいです(スペリーの実験など)。これに対して、ヒ

トやサルでは逆さメガネの実験(下條信輔氏の本など)で順応できてし

まうことからわかるように、外部世界と脳内表現の関係を修正すること

ができる。だから、カエルはレベル0の外部世界を持っていない状態、ヒ

ト、サルはそれを持っていて、少なくともレベル1以上であるようです。

そしてこのことはおそらく感覚―運動連関のfeedbackの有無などの形

で機構として明らかにしていくことができるのではないだろうか、と思い

ます。このような機構による説明を隅々まで行き渡らせることができたら

、問題はまた違った形を見せる感じがします。

 

著書の締めが複数の宇宙、となっていて、どうも閉じた感じが気にな

って指摘したかったのですが、p.217での、「感覚情報を元に別のリアリ

ティーを構成しうるような体系を作り出すことができれば、その枠の外に

出られるのかもしれない」という点がqualia-ML #1689 で強調されていた

のを見て、結構納得いってしまった感じです。

 

結論としましては、主観的感覚世界からスタートすることには共感を

憶えました。そしてその結論が必然性を持っていると思いました。その先

がデッドエンドな感じが正直言ってするのですが、ぜひここから先を進

んでいくところを見せていただきたい、と期待を込めて思いました。

 

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masatoshi yoshida

myoshi@nips.ac.jp

http://member.nifty.ne.jp/myoshi/welcome.htm

 

 

<書評7>

 

相田

saida@alles.or.jp

 

相田です。本買いました。

 

この本では、体と感覚世界の関係を

「に存在している」や「に集約されている」と助詞と同士を使って表わしているが

その意味に注目して読むと

意味不明な部分がでてくる。

 

203pにレベル1の「私」とレベル3の「私」は違うとかいてある。

レベル1の「私」と「私の身体」の関係、

レベル3の「私」と「私の身体」の関係を

それぞれA、Bと呼ぶことにする。

(当然、AとBはちがうはずだ。)

 

 

その物体に自分が感じてる感覚世界と同じ物が存在することを計算している状態。

をレベル2としている。

「自分が感じてる感覚世界(当然レベル1だろう)とおなじもの」は

レベル1の「私」なので

ここでの「(に)存在する」はAのはずだ。

 

だが、レベル2の他者が私の体に存在すると考えている「私」

はレベル3だというのだ。

 

ここでの「存在する」はAなのか、Bなのか

読んでてわからなかった。

 

 

AにBが存在すると同じ言葉で表わされても

AとBが何かによって2つの関係は違ってくる。

「テーブルが部屋に存在する。」ともいうし

「4割打者がうちのチームに存在する。」ともいうが、

4割打者がチームの壁の間にあるわけではない。

 

「私の体に感覚が存在する。」といった場合、

それは私の体と感覚がどのような関係に

にあることをさしているのか。

いままで私の体に属する感覚だと思っていたものが

実は他の物体(他人や消しゴム)に属する感覚だったと仮定して

どのような矛盾があるか考えてみた。

 

結局、私の体と感覚の関係は2つある事が分かった。

まず、感覚が存在するかやどのような感覚がなのかは

外界と私の体の関係によって決まるということである。

他人と対象物の間に障害物を置いても

対象物が見えなくなることはないが、

私の体と対象物の間に障害物を置いたら

対象物が見えなくなる。

消しゴムを動かしても見える風景は変わらないが、

わたしの体を動かすと見える風景は変わる。

他人の体と棒が接触しても触覚は存在しないが

私の体と棒が接触しても触覚は存在する。

もう1つは意志によって私の体を動かすことが

可能であるということである。

直接私の体を動かすことが可能であるが、

直接他人の体や消しゴムを動かすことは不可能である。

 

つまり「私の体に感覚が存在する」は上の2つのことである。

 

 

(ある感覚世界をX、もうひとつの別の感覚世界をYとする。また、A、B二人の

人間がいるとする。)

「この感覚世界(Xのこと)のほかにYという感覚世界があり、

(Aの体を動かすとXの視覚は変わるが)

Bの体を動かすとYの視覚がかわるだろう。

また、(Xの意志が右腕を上げたいと思えばAの右腕が上がるが)

Yの意志が右腕を上げたいと思えばBの右腕が上がるだろう。」

 

他人が私の感覚世界のことを次のように考える光景を

何度イメージしても

「レベル3の私」という概念が出てこない。

 

<END>

 

 

 

======第二部======

 

 

<Multiple Book Reviewに対するResponse >

by 金沢創

 

はじめに

 

「他者の心は存在するか」

書評への返答

 

金沢 創

 

 本書の書き出しにもあるように、私はいつも他人の心の世界というものが不思議で

仕方がなかった。私には、私が何か見たり感じたりする感覚は、いつも手元にある。

では、他人はどうなんだろう。私がどのように喜びに満ちていようと、他人にそれが

伝わらなかったり、また他者の気持ちがさっぱり理解できなかったりする。どうすれ

ばうまく伝わるのか。どうすれば、他者とわかりあえるのか。それさえうまくできれ

ば、人生のほとんど問題は解決すると夢想していた。私は、いつも他者に翻弄され生

きてきたのかもしれない。本書が目指したのは、コミュニケーションの不可能性と可

能性を考察することで、様々な他者の中で、この<私>の人生をいかに生きていくかを

考えることであった。

 私は本書を、ほぼ3年の月日を費やし書いた。それは私自身のコミュニケーション

不全感覚からの解放の旅といえる。私は、このささやかな旅に際してできるだけ多く

の地図を収集した。チューリング・テスト、モデルと公理、心の理論、関連性理論、

などはそうした地図の数々である。もしかすると中塚氏の指摘するように、私は少

し、多くの地図を集めすぎたのかもしれない。しかし、先人達が残してくれたこれら

の地図を私なりに読み解くことは、おそらく同じような旅をしている人々にも役立つ

のではないだろうか、という思いもあった。

 数多くの地図に右往左往しつつ、私は「感覚情報」だけの世界にたどり着いた。こ

の世界の風景は、私にしてみればかなり意外なものだった。なぜなら、他者と私の関

係を構築する場所へと向かったはずなのに、たどり着いた場所には「感覚情報」しか

なかったからだ。その意味で松元氏の「客観的世界の排除は、認識の物質的根拠を空

虚と化し、主観と客観との統一に基づいて人類の行く末を照らし出す究極の倫理追求

の道を、封印すべきことを説かざるを得なくなる」という批判はもっともだと私も思

う。同じく茂木氏の「『唯感覚情報論』は、私には、天動説のようなものに感じられ

る」という言葉も同様だ。感覚しかない、との主張は、唯物論、特に脳という物質に

基盤をおく考えとまっこうから対立するだろうから。吉田氏の「しかし、こういう立

場はここから先を進むのに苦労するんじゃないかと思います」との疑問もそのような

観点からくると思われる。どうやら、私は脳科学者達からは、最も遠い場所にたどり

着いたようだ。

 しかし私は、この大きな違いあるいは対比が、むしろおもしろいことだと思ってい

る。私は、私が今いる場所が終着点とはおもってはいない。むしろ、この場所を経由

し、さらに先へと進む必要があるだろう。主観と客観。とても大きなテーマだ。この

ような対比から生まれてくるものを、私はむしろ楽しみにしている。

 私は次にどこにたどりつくだろうか。もしかすると、茂木氏や松元氏、あるいは吉

田氏は、私よりずっと前に進んでいるのかもしれない。ある意味で私は、彼らのいる

場所である、あるいはまた多くの科学者達が住む場所である物質世界、つまり客観世

界の構成をめざすことになるだろう。しかし逆説的にいえば、私は、多くの人々がや

すやすとショートカットしたこの「感覚しかない主観の世界」に、彼らよりも多くの

時間滞在したいと思っている。それが、私の役割であり、私の人生であり、そして小

さくとも自らの足で進むことこそ、哲学であると信じているからだ。彼らはたまたま

私の前方にいるのかもしれない。しかし、私にとってみれば、私の足の進む方向が前

である。彼らが急いで通りすぎて行ったがゆえに見つけることができなかったもの

を、私は見てみたいのだ。中塚氏の「自らの感覚と直観と生の現実に即した思考の果

てにまぎれもない哲学の問題とその言語的表現を見出した者の驚きである」という言

葉を大切にしていきたいと思う。

 しかし、長い旅には体力が必要だ。ここまでたどりつくにも、私は何度も息切れし

そうになった。細馬氏の「V章の議論では、レベル2と3の違いは、感覚情報に

『私』が入っているかどうかの違いだとされている。いっぽう、IV章では、『ある個

体の視点からみた他の個体の視点というものが表現されるという点である』となって

いる。この両者は似ているようで違う」という指摘は、そのような息切れのあらわれ

だ。私は、レベル分けの階層構造を図式化する際に、コミュニケーションの送り手を

中心に描くのか、受けてを中心に描くか、あるいは両者を俯瞰した視点で描くのか、

によってその図式が微妙に異なってくることに苦しんだ。その結果、強調する点を暗

黙のうちに切りかえることで、図式を少しだけ(しかし、それは決定的なのかもしれ

ない)異なった風に描いた。それは、私が考える「レベル」のモデルが揺らいでいる

ことのあらわれであり、結局のところ完全に一貫した図式を描ききれなかったのであ

る。それはひとえに私の体力不足だ。私は、難しい場所で少しだけジャンプし、その

場所をやりすごした。その結果、息切れしたのである。今度は、もっと確実に歩くこ

とにしよう。その方法論は、本書のあとがきにも記したように、認知科学的な方法、

つまりあるモデルの妥当性、一貫性を、そのモデルを現実にプログラムし実際に動か

してみること、によって進めていきたいと思う。認知科学的方法論をめざしたにもか

かわらず息切れしてしまう、ということがないように。そのために、私はしっかりと

した体力をつけねばならないだろう。  

 さて、次の一歩はどちらへ踏み出そうか。蛭川氏がいう「マッハの精神物理学と、

中観派の大乗仏教を、進化論的心理学が架橋する」という作業は、私にとって当面の

目の前の大きな丘だ。とりあえず、この丘の上にたってみたい。そこから何が見える

だろうか。それは、今のところ、私には思いもつかない。そして、だからこそ楽しみ

で仕方がない。そのために、「『レベル0』の世界は、たんなる理論的な概念なので

はなく、瞑想という実践によって、一人称的に経験=実証される」という言葉を手が

かりにして、自らの日常生活を、まさに一人称的に実践していくことにしよう。とり

あえず丘の上に立ってみて、もしもその先が崖になっていれば、私は引き返すかもし

れない。あるいは何かにぎやかな場所が目に入り、めざす場所が容易に決まるかもし

れない。しかし、どうなろうと、それが私の旅だ。「一人称的に実践」などというの

は、冗長な表現かもしれない。なぜなら「私」が歩くことが「一人称」ということで

あるし、また私が「歩く」ことが実践するということに他ならないから。だから、私

は単に私の人生を生きていくことにしよう。そして、いかなる人生であろうと、次な

るその過程を記述していくことにしよう。

 

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