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Mind-Brain Request For Comments

 

 

RFC1 「短期記憶障害と「私」の感覚の変化」

 

Received 25th July 1999

Accepted 28th July 1999

加藤夢唯

VoidSpace

katoh@voidspace.com

http://www.voidspace.com/

 

 

 

< 要約>

 

短期記憶障害に遭遇した本人による体験談。体験時には、短期記憶が困難にな

るという現象以外にも、「時間」や「私」という感覚の大きな変化を経験して

いる。全く記憶が不可能になるというケースの記憶障害ではなかったため、体

験時に考えたことや感じたことを、記憶の一部に留めることが可能であった。

その感覚の変化について記録した。

 

0. はじめに

 

20代の半ば頃、私は短期記憶が著しく困難になる状態を経験している。幸いに

して、短期記憶が全く不可能な状態には至らなかったため、その時期に考えた

ことや感じたことを、ある程度思い出すことができる。

 

記憶が特に困難な状態と感じられた期間は約一ヶ月間、完全に回復したと感じ

られるまでには半年近くを要し、その間、日常生活やコミュニケーションにお

いて様々な不便を感じることとなった。しかし、影響はそのようなことに留ま

らず、「時間」の感覚や「私」という感覚をも変化させるものであった。

 

実際には短期記憶障害以外にも何らかの障害を生じていたのかもしれないが、

残念ながら検査を受けていないためデータが残っていない。私自身が当時感じ

ていたのは、強烈な首の凝りと頭の重さ、そして短期記憶がうまくいかないと

いう現象であった。

 

以下に、その症状によって引き起こされたと感じられた自分の感覚の変化につ

いて、時間を追って記したい。この記録が何かの参考になれば幸いである。

 

 

1. 短期記憶の障害に出会う

 

たった今何をしようとしていたかふと忘れる、という経験は誰にでもあると思

われるが、その“次の瞬間に忘れる”という現象が連続して起きる事態に遭遇

してしまった、と当時は思った。たった今自分が考えていたことを次の瞬間ま

で覚えていられないため、まるで一瞬一瞬我に返っているような状態になる。

はっと気がつくとある情景が見え、ええと、と考えるうちにまたはっと気がつ

いて、新たに目の前の情景について考える…そのような状態である。

 

しかしいきなりこの状態になったのではなかった。最初は「よく忘れる」程度

の症状だったため、深刻な事態が起きているとも思わず、あまり気にもかけな

かった。当時私は、それまで続けていたプログラミングの仕事を辞めたばかり

であり、肩と首に異常なほどの凝りを感じていた。実際、体重に変化がないに

も関わらず首の太さに変化があり、以前はなんともなかった洋服の首のあたり

がきつく感じられるようになっていた。(現在は、やはり体重に変化がないに

も関わらず当時より首周りが6〜7cm短くなっている。)この肩凝りから来る一

時的な血行障害だろうと考えて、検査を受けることもしなかった。このまま休

養していればよくなるだろうと安易に考えていたのである。

 

 

2. 会話が困難になる

 

日常生活にも始めのうちはほとんど支障はなかった。外出時も、「今自分はど

こに行こうとしているんだろう」と頻繁に考え直す必要はあったが、ポイント

をメモ書きしておき、それをしばしば参照することによって、予定通り行動す

ることができた。

 

しかし、ある日友人と会話をしていて、どうにも以前のように活発に意見交換

ができないことに気づいた。今自分が考えていたことをすぐ忘れてしまうため、

論理を組み立てる「時間的」余裕がなくなっているようだと感じた。自分の意

見を述べようにも、その意見を生成できない。友人も物足りなさそうにしてい

たが、考えることや人と会話をすることが何よりも好きだった私にとってはシ

ョックな出来事だった。

 

やがて、“次の瞬間に忘れる”頻度が増すにつれ、文章を話すことさえも難し

くなっていった。例えば、「私は電車で移動したい」という思いが浮かび、

「私は」と言葉にして言った瞬間に、あれ、今何を言おうとしてるんだろう、

と思い、そうだ、これからみんなで移動しようとしているのだ、私は車ではな

く電車で移動したいのだから、このことを伝えねば、と瞬間的に思い直し、

「電車で」と言った途端に、また、あ、私は今何を言おうとしてるんだろう、

という状態になってしまうのである。

 

もっとも周りの友人たちには、ちょっと疲れているらしい、ぐらいにしか思わ

れなかったようだ。自分でもまだ一時的な症状だと思っていたため、肩と首の

凝りがひどいという話ぐらいしかしていない。

 

 

3. 時間の感覚が変化する

 

しかし、それでもまだしばらくは、以前の自分の思考の余韻のようなものを感

じることができたために、それを頼りに細切れながら自分らしい思考をするこ

とが可能だった。

 

ところがその状態が長引くにつれて、頼りの「過去からの余韻」が次第に弱く

なくなっていった。私は、以前までの記憶の状態に、いわば風化が起きている

のではないかと考えた。しかし、風化が起きていると思われる箇所に気づいて

も、その記憶と他の記憶との関連を読み取る余裕がないため、うまく補修がで

きない。全体の構造が見えないまま必死に部分的な記憶を強化しようとするの

で、(今思えば)かえってその断面の荒れをひどくしてしまっていたような気

もする。加えて、そのような中でもほんの少しずつは貯えられていったと思わ

れる新しい記憶は、どれも断片であり、大きな構造との関連をほとんど持たな

い。過去との接点は急速に減っていった。

 

そして、過去からの余韻が弱くなると同時に、未来への予感も薄れていった。

「今」は、過去の方向にも未来の方向にもベクトルを持たない、孤立した瞬間

のように感じられた。時間が流れるように感じられるという「現実世界」は、

私にとっては、かつては自分もそう感じていて、今も他の人たちが感じている

であろう感覚を伴った世界、という知識に過ぎなくなった。

 

自分らしい思考をすることは不可能となり、思考するというイメージすら思い

浮かべることがなくなった。誰かと会話を交わしたいという欲求もなくなり、

この頃はほとんど誰とも会っていない。不眠症になるといったような体調の変

化はなかったが、何事にも億劫になり、電車に乗り込む時に比べ、バスに乗り

込む時の手続きの方を、はるかに面倒だと感じたことを覚えている。

 

 

4. 「私」という感覚の喪失

 

そしてある日突然、「私」という感覚が消えていることに気がついた。

 

「他ならぬ自分」という感覚がなくなっているのである。他人を認識すること

はこれまで通りできた。友人たちの個性も覚えているし、自分がかつてどんな

性格をしていたかを回想することもできる。客観的なイメージは、瞬間的にだ

が、以前とほとんど変わらず認識可能であった。

 

しかし、自分が今、主観的に何かを認識しているという感覚はほとんど得られ

なかった。そんなはずはないと思った。けれどもどうがんばっても、自分とい

う存在は、この空間のどこかという「位置」にしか過ぎないのではないか、と

いう感覚が辛うじて拾えただけだった。これには愕然とした。

 

 

5. 考えることと感じること

 

そしてまた、改めて、「考える」ということを(かつての)自分は愛していた

ということに気がついた。ただ単に思考できればよいということではなかった。

自分らしい思考がしたいのである。自分らしい思考ができなくで自分が存在し

ていると言えるのか、と何度も自問した。

 

思考には記憶が不可欠であるように思われた。「私」とは記憶のことだったの

だろうか、とも考えてみた。いやそんなはずはない、記憶とは関係なく「私」

は存在するのではないか。どんな風に? 何度も反論を試みた。しかし、「私」

の正体が何であれ、「私」の感覚を持っている自分とその現実感は、もはや太

古の夢のようなものに感じられ、取り戻すことは不可能のように思えた。私は、

「私」なしで生きていく人生に適応することを考え始めた。

 

けれどもそこで気がついた。今、自分は「悲しみ」を感じている。これを感じ

ることができるということは....まだ「私」はいるのではないか。今度は別の

感情を感じてみようと試みた。自分が存在していることの喜び、この世界が在

ることの喜び....のような感情を、意識して感じることができた(これ以外思

いつかなかった)。希望が湧いてきた。

 

私はそれまで以上に積極的に日記をつけるようにした。このような思いつきを

忘れないようにするためである。書き進めつつある文章が目の前に残っている

と、なんとか文章を書き続けることができる。何度も何度もページの頭から読

み返しながら、その続きを書いていく。書いた文章をしばらくあとから読むと、

まるで初めて読む文章のように感じられるのだが、筆跡が自分なので、自分の

書いたものだということはわかる。何日か続けるうちに面白い事に気づいた。

既に書いているとは気づかないまま、同じ内容で「新たなる決心」を書くこと

があるのだが、その決心にいたる過程が時を変えてもほとんど同じなのである。

迷い迷い考えを進めているのだが、その迷い方までほとんど変わらない。これ

には少し感心し、興味も覚えた。

 

 

6. 思考のリハビリに挑む

 

一方では首の凝りをほぐして血行をよくする努力をしており、こちらの効果が

現れたのか、記憶力は徐々に回復し始めた。次第に、少々ぎこちないままだっ

たが、時間を流れるものとして感じることもできるようになり、文章も話せる

ようになった。

 

しかし、「私」の感覚はすぐ完全には戻らなかった。自分の存在が単なる位置

のように感じられる状態は脱し、自分が社会と関りをもった個人であることは

認識できるようになっていた。しかし、私が私であるという「感じ」が戻って

こないのである。思考の方も、すぐスムーズにできるようになったわけではな

かった。

 

私は、「私」の感覚が戻らないのは、スムーズな思考ができていないためかも

しれない、と考えた。

 

スムーズな思考ができない理由は大きく3つ考えられた。まず、記憶の風化が

起きているために、記憶と記憶の連結が不正だったり、途切れてしまったりし

ているのではないかと想像した。実際、そのような感覚を覚えるのである。そ

こにいちいちひっかかっるために、思考をスムーズに続けられないのではない

かと解釈した。さっそく記憶状態の補修を試みようとしたが、まもなく諦めた。

検証のしようがないのである。もう一度赤ん坊になったつもりで知識や考えを

再構築していこう、と決心した。また、スムーズに考えるという行為をしばら

くしていないため、頭が思考のやり方を忘れているのではないかとも考えた。

さらに、記憶と思考の連結のメカニズムがうまく機能していないのかもしれな

いと考えた。真相はわからないが、とにかく考える練習をしようと思った。

 

何か新しい概念に出会った時は、まるで子供のように、それを体全体で感じ取

るように心がけた。また、記憶の内容に荒れが起きていない、子供の頃の記憶

を繰り返し思い出すようにしてみた。古い記憶の中には、その時の空気の感触

や自分の思考の流れがまるでパックのようになっているものもあり、その記憶

の中の思考の流れを何度も追体験することによって、流れるような思考の感覚

を取り戻す助けになるような気がしたのである。無理やり物事を考え続けるよ

うな練習も課してみた。実際に、現代の子供たちとも会話の機会を持つように

した。彼らは、実にストレートな反応を私に返してくれ、自分の復活の変化を

鏡に映すように見せてくれた。これらを繰り返すうちに、流れるような思考は、

少しずつ自然にできるようになっていった。

 

 

7. 「私」の復活

 

そしてある時、「あ、今、私の感覚があった!」と思える瞬間がついに起きた。

本当に嬉しかった。自分らしい考えの展開や自分らしい閃きは、日を追う毎に

増えていき、「私」を感じられる回数も、その維持できる時間も増えていった。

 

短期記憶の機能そのものは、一ヶ月以内にほとんど回復した。他人との通常の

コミュニケーションは、この時点で全く普通にできるようになった。しかし、

まだたどたどしさの残る「流れるような自分らしい思考」の完全復活に向けて、

その後も毎日練習を続けた。

 

流れるような時間感覚と自分らしい思考、「私」の感覚が当たり前のものとな

って、もう大丈夫だと思ったのは、最初に記憶障害が起き始めてから半年後ぐ

らいのことだった。

 

 

8. 当時を振り返って

 

10年経った今となっては、当時の現実感の方が伝説のように遠いものに感じら

れる。思考についても、自分らしい思考から外れることの方が今では難しい。

そもそも、こういう時期があったことさえ滅多に思い出すことはない。しかし、

「私」という感覚や、「時間」というものに対する興味は年を追う毎に強まっ

ている。明らかにあの体験は、私の中に視点を増やしてくれたように思われ、

貴重な体験だったと今では思っている。

 

一番状態が厳しかった頃には友人たちに会っていないため、このような状態に

私があったことを直接知る人はいない。そして幸い、「以前と(性格が)変わ

ったね」というようなことを言われたことはない。けれども、もしあの時「私」

の復活の努力をしなかったら、別の性格になっていたかもしれないと、ふと思

うことがある。以前と同じようなつきあいをしてくれる友人たちの存在は、私

の復活の強化の大きな助けになっていたことと思う。そして、当時出会った子

供たちの純粋な笑顔に心から感謝したい。何よりの励ましだったと思っている。

(c) 加藤夢唯 1999

 

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