クオリアから見た感性の時代 ークオリア立国ー
茂木健一郎 kenmogi@qualia-manifesto.com
(c) Ken Mogi 2003
2003.10.24.
感性のルネッサンスの時代
現代は、感性の時代だと言われる。一昔前は、その時代に一番頭の良い知識人が誰であるか、その人が何を考えているかを世間がしきりに気にしていた。今は、知識人よりも、鋭い感性を持っている表現者の方が、時代のヒーローになる。もちろん、知性などいらないというわけではない。知性もまた感性の一つであるということを私たちが認識し始めたのである。
私の専門の脳科学では、人間が心の中で感じる様々な質感のことを、クオリアと呼ぶ。私たちの体験する世界は、抜けるような青空や、ヴァイオリンの音色や、メロンの味といったユニークで鮮烈なクオリアに満ちている。およそ意識の中であるものとして把握されるものは、全てクオリアであるとされる。感性の鋭い人とは、すなわち、クオリアに対する気づきの深い人である。
クオリアは、一般に数字で表すことはできない。そのこともあって、数量化できるものだけを研究の対象としてきた近代の科学主義の伝統の中で、クオリアの問題は無視されてきた。近年、脳科学の発達に伴い、クオリアを生み出す脳内機構が次第にわかってきた。その中で、数字で表せないクオリアを研究の対象とすることで、科学自体のあり方が変わると多くの人が期待するようになってきた。
今日、クオリアは私たちの世界観の中に中心課題として浮上し、感性のルネッサンスの時代の訪れを告げている。
現代美術とブランド
クオリアは、第一義的には脳科学上の概念であるが、一般に人間とは何かということを考える上でも大切な概念である。
汐留シオサイトや六本木ヒルズのような「ネオ東京」の景観の出現と相まって、生活空間を美しく形作るための感性を醸成し、実際のしつらいの要素を提供する営みとしての現代美術に注目が集まっている。絵画、ビデオ、インスタレーションといった表現形式にかかわらず、それが見るものにどのようなクオリアを与えるのかという視点から、現代美術の作品を統一的に理解することができる。現代美術の作家は、いわばクオリアのマエストロなのである。
クオリアは、人間の脳が複雑な世界を把握するために長い進化の過程で獲得してきた自然の技術である。私たち人間は、対象にまつわるさまざまな情報を編集した結果をクオリアというコンパクトな形で感じることで、認知の対象を把握している。
このような視点からは、企業のブランドも、一つのクオリアであると考えることができる。商品、サービス、広告といったさまざまなタッチポイントで得られた情報が、脳の中で編集され、コンパクトに認知された結果生まれるクオリアが、その企業のブランドとなる。体験の蓄積がユニークなクオリアに転換される脳内機構に着目することで、ブランド認知に関する様々な現象を説明する道筋が見えてくる。
現代美術やブランドばかりではなく、人間のかかわる多様な事象を人間の認知のメカニズムから理解する上で、クオリアの脳科学は新しい分析の道具を提供するのである。
クオリア立国
日本には、もともとクオリアに対する感性の高い文化の伝統がある。
源氏物語は、季節の移り変わりの中で感じられるクオリアを繊細に描いている。京都の寺院の庭のしつらいは、それに対する者の心の中に微妙なクオリアのさざ波を引き起こす。日本料理は、食材を研ぎ澄まされた感性で組み合わせたクオリアの芸術である。現在、その世界への浸透力が注目されている日本のオタク文化における「萌え」の要素も、クオリアに対する感性の表れである。
日本は、ここしばらくナショナル・アイデンティティの危機にさらされている。知的財産権を巡る経営戦略において、日本はアメリカに押され気味である。世界の工場としての地位も、中国や韓国をはじめとする新興の国々に脅かされつつある。このような時代に、日本人の生き方として、クオリアに対する伝統的感性を生かすことを考えても良いのではないか。
経済が成熟するほど、人々はより繊細で高度なクオリアを求める。脳が肥大化した人間の欲望は、クオリア自体に向かうのである。レストランに行くこと、旅に出ること、ドライヴすること。これらの全ては、脳がクオリアを消費する行動であると見なすことができる。人々が求めるクオリアを提供するクオリア産業が、これからの成長産業となることが期待される。
日本には資源もないし、安い労働力もないし、生き馬の目を抜く戦略性もない。一方で、この島国の四季の移ろいの中で培われたクオリアに対する感性の伝統だけは確かにある。文脈によっては弱点にもなり得るクオリアに対する繊細な感性が、クオリア消費の時代には強みになる。日本人が受け継いできたクオリアに対する感性を、高付加価値の商品、サービスの開発に生かす「クオリア立国」こそが、これからの日本の一つの生き方なのである。