2004年1月13日(火)午後7時〜
東京国立近代美術館フィルムセンター (京橋)
にて、
小津安二郎 『晩春』
を見ます。
上演終了後、出口で待ち合わせて、近場で感想を語り合いましょう。
各自、電子チケットぴあなどで、
あらかじめ日時指定券をお買い求めください。
あるいは、当日券をお求めください。
(あらかじめ日時指定券を買っておくことをおすすめします)
参加される方は、
The Qualia Community Meetings Signupのページ
http://6409.teacup.com/kenmogi/bbs
でサインアップ、あるいは
kenmogi@qualia-manifesto.com
までメールください。
私(茂木健一郎)は、目印に、
「小津安二郎 東京物語」(リブロ・シネマテーク)
の本を持っています。
<参考>
茂木健一郎
「日常が底光りする理由 ー小津安二郎 私論ー」
(文學界 2004年1月号所収) より
小津の映画には、時折、見慣れた日常の中に、神々しい、彼岸の何ものかの気配が侵入してくるシーンがある。 「晩春」で、結婚を決意した原節子が演ずる娘と、笠智衆が演ずる父親が記念の京都旅行に出かけ、夜、宿屋で並んで床に就き、その日の感想を話し合う場面がある。再婚したおじさんが、汚らしい、と言っていたのを、原節子が反省する。再婚相手に実際にあってみたら、とてもいい人だったと。笠智衆は、そんなことはいいんだ、と応える。原節子が、
「ねえ、お父さん。私、お父さんのこととてもイヤだったんだけど・・・」
と言いかけて、ふと気がつくと、隣の父は、もう寝息を立てている。
原節子は、まずは父親の方を見て、それから、天井を見る。障子越しに、大きな月影が見え、笹の葉のシルエットが揺れる。月の中央を貫くように、壺が立っている。
象徴心理学的な分析をすれば、様々なことが言えそうなこの場面には、何か異様なものの気配が漂っている。その気配は、京都を発つ朝、原節子が笠智衆に、本当は嫁になど行きたくない、お父さんとこうしてずっと一緒に暮らしたい、と迫っていく場面の尋常ならざる気配につながっている。あの一連の場面での原節子がかもし出している雰囲気は、曜変天目茶碗と同じような様々な要素の化学反応の奇跡である。あのような具体は、決して簡単に再現されるものではない。
もっとも、決して簡単に再現されるものではないのは、曜変天目茶碗や晩春の原節子に限る特別なことではない。本来、私たちが日常の中で出会うことの全ては、容易に再現されることのない一回性のものである。自分の人生という具体に特有の化学反応が生み出した、おそらく宇宙の歴史の中で二度と再現されないものたちである。その一回性を超えて普遍を立てるところに、人間精神に固有の可能性がある。その一方で、私たちは、普遍という罠に思わず知らずのうちにはまって、具体そのものを見失っていくのである。
原節子であり、笠智衆であるところの特別な具体について考えるまでもない。目が覚めて、眠りに落ちるまで、自分が体験する状況の具体が、寸分違わず再び繰り返されることは決してない。「これは前と同じだ」と考えるのは、単なる便宜の問題である。具体との出会いを、一期一会であるととらえても、そのようにとらえること自体が、具体から普遍への飛躍を含んでいる。
普遍への飛躍をせずに、ぐっとこらえて、まさに目の前にある具体の生々しさに寄り添うことは、おそらく私たち人間の脳が進化の過程で獲得してきた普遍化への傾向に反する、かなりしんどいことのはずである。しかし、そのしんどい作業がどのようなことを意味するのか、少なくとも想像してみることなしには、小津の作品の持っている本当のポテンシャルも、現象学の哲学を経て、小津映画を経た現代の我々にとっての文学の可能性も見えてこないように思う。
禅の思想を持ち出すまでもなく、人間が体験する感覚世界の成り立ちからして、神や永遠は、私たちの生の猥雑で混乱した日常を離れては存在し得ない。人間は、往々にして、この地上の生の具体から離れた抽象的な普遍として、神や永遠といったものを仮想したいという衝動に駆られる。そのような衝動は、おそらくはタナトスの一つの変形である。
小津が、美食や酒を愛したことは偶然ではない。人間にとっての普遍は、タナトスの先にあるのではなく、日々の感覚の具体の中にある。舌に載せたチョコレートが溶けていく時の感覚に、トンカツを食べた後ビールを飲む時の感覚に、永遠が宿っていると考えて、何が不都合なのか。そこに神が宿ってさえいると考えても、不敬だと言えるのか。有限で具体的なものが、そのまま、普遍的で永遠なものと等価であると考えては、道を誤るのか。私たちの生の、ごく些細に思われる具体の中にこそ、もっとも永遠で普遍的なものが宿っているからこそ、小津のような芸術家ができるのではないか。
無限は、人間という有限の生にとっては、実無限ではなく可能無限としてしか顕れない。どんなに大きい数をとってきても、必ずそれよりも大きな数を与えることができる、というように、無限を得る手続きを与えることはできても、無限という実体そのものを扱うことはできない。人間にとっての無限とは、すなわち、有限の手続きの意味論の中に潜んでいる、可能性としての無限である。
本来、死すべき人間にとって、普遍は、可能性としての普遍でしかあり得ない。それでも、人間が、実体としての普遍があたかも定立できるように思ってしまうのは、意識そのものの持つ傾向である。人間の意識は、その成り立ちからして普遍という形式に依拠せざるを得ないのであり、現実の世界で遭遇する具体の奔流の中で、その成立の根拠である普遍を探し続けなければならないのである。プラトンが、人間は魂の故郷であるイデアを求める存在であると書いた意味は、おそらくはそのようなことである。
(一部抜粋)