意識のなぞ 日本経済新聞 日曜 科学欄連載終了
1999年9月5日〜1999年11月21日
(c) 茂木健一郎 1999
(c)日本経済新聞社 1999
本連載を引用する際は、茂木健一郎 kenmogi@csl.sony.co.jpまでお知らせください。
意識のなぞ 第1回
「心の動きは全て脳内現象」
日本経済新聞1999年9月5日掲載
21世紀は、脳科学の時代になると言われている。生体の中でも最も複雑な組織である脳を、分子生物学、電気生理学の手法、さらには理論的解析を通して科学的に解明することは、人類にとって最大の知的チャレンジになることは間違いない。
ところで、脳科学には、私たち人間にとって、特別な意味がある。言うまでもなく、脳が、私たちの意識、心が宿る臓器であるということである。今日の脳科学は、意識は、脳の中にある140億のニューロン(神経細胞)の活動によって起こる現象であるということを大前提としている。言い換えれば、私たちが感じる全世界、私たちの思考、私たちの喜び、悲しみは、全て、脳の中のニューロンの活動によって引き起こされる脳内現象に過ぎないということだ。例え、富士山の偉容を前に立っている時にも、あなたの見る雄大な景色は、全て脳の中のニューロンの活動によって引き起こされるイメージに過ぎないのだ。
私たちの感じる全世界は、私たちの脳のニューロンの活動によって引き起こされる脳内現象に過ぎない。このことを人類史上初めて疑いようのない形で示したのが、カナダの神経生理学者ペンフィールドの実験だったと言ってよいだろう。
ペンフィールドは、てんかんの治療のために脳外科手術をしていた。その際、患者の同意を得て、大脳皮質の様々な部位に電極を刺し、電気刺激を与えて、その時の患者の様子を観察した。その結果、患者の頭の側面、耳の上あたりにある領域(側頭葉)を刺激した時に、患者が劇的な体験を報告することを見い出した。側頭葉のニューロンの活動により、患者の心の中に、あたかも実際にその現場にいるかのような生々しい体験が引き起こされたのだ。ある母親は、ペンフィールドの持つ電極が側頭葉に触れるや否や、「台所にいて、庭で遊んでいる小さな息子の声に耳をすましている」というまさにその場面に自分がリアルタイムでいることに気がついたという。彼女には、息子に危険を及ぼすかもしれない近所の物音、たとえば走り過ぎる自動車の音なども聞こえたというのだ。これは、患者が過去に実際に体験した出来事であった。ペンフィールドは、患者からこのような「フラッシュ・バック」を初めて報告された時、自分の耳を疑ったという。それほど、劇的で重要な発見だった。
ペンフィールドの実験は、側頭葉が私たちのエピソード記憶(個々の具体的な体験の記憶)において果たす重要な役割を示すとともに、私たちが日々生活している中で感じている外界の現実感が、脳の中のニューロンの活動によってもたらされた「脳内現象」に過ぎないことを示している。ペンフィールドの実験において、外界から入力する刺激は、電極からの電気刺激という、何の具体的内容もない中立的な刺激に過ぎない。脳は、この中立的な刺激をきっかけとして、本当に外界が「ここに今」あるのと寸分違わない体験をつくり出してしまったわけである。
私たちの意識が、脳の中のニューロンの活動によってもたらされる脳内現象であること。この不思議を解明することが、脳科学の最大のテーマである。
写真<脳内現象の実験に取り組んだペンフィールド>モントリオール神経研究所提供
http://www.pbs.org/wgbh/aso/databank/entries/bhpenf.html
意識のなぞ 第2回
「コンピュータは自我を持つか」
(日本経済新聞 1999年9月12日掲載)
世界で最初のコンピュータとされる、ENIACができてから50年余りが経った。
この間、コンピュータは、急速に発達してきた。いつの日にか、コンピュータが意識を持つようになる日が来るのだろうか? そもそも、意識を、人工的につくり出すことは可能なのだろうか?
多数のニューロンをつないだ回路を人工的にシミュレートし、脳の持つ機能を再現しようという「ニューロ・コンピュータ」という試みがある。多くの研究者の努力の結果、視覚的なパターン認識など、ある程度脳の持つ能力を再現することができるようになった。
脳の持つ感覚や運動の個々の機能を再現するという意味では、コンピュータはかなりのところまで来ている。脳とコンピュータの最大の差は、様々な機能を有機的に統合する能力に見られる。人間ならば、3才の幼児にさえやすやすとできることが、コンピュータにはできないのである。
最近の脳科学の顕著な傾向の一つは、視覚、聴覚といった個々の情報処理のモジュールから、それらを統合する高次の認知過程に次第に研究の対象がシフトしてきているということである。実際、意識の科学は、今、「認知科学革命」とでも言うべき局面を迎えている。多くの脳科学者が、認知過程の中枢である、前頭葉の研究に活動の中心を移し始めている。意識の本質は個々の情報処理能力にあるのではなく、それらを「私」という枠組みの中に統合する認知過程にあることが明らかになりつつある。コンピュータで言えば、計算処理速度や個々のプログラムの能力が問題になるのではなく、それらを統合するオペレーティング・システムが問題になるということになる。
今までのコンピュータが再現しようとしていたのは、どちらかと言えば、脳の持つ、視覚や聴覚などの、個々の感覚モジュールの情報処理能力であった。異なるモジュールをいかに統合するか、これが脳の機能を人工的に再現する上で、最も難しい問題である。実際、もし、コンピュータが意識を持つ時が来るとすれば、それは、コンピュータの中に、私たちの脳で動作しているようなオペレーティング・システムが組み込まれた時だろう。
私たちの脳が持つオペレーティング・システムは、視覚、聴覚、触覚などの様々な感覚情報を、ワーキング・メモリ(一時に貯えられる記憶)、長期記憶、注意の制御などを駆使して統合し、有機的に行動に結び付ける、極めて高度な能力を持っている。このような機能主義的にとらえられる能力の上に、「自意識」などの主観的な意識の属性が宿っている。
意識を解明する鍵は、脳の情報処理のシステム論的な理解にある。脳のオペレーティング・システムを理解した時、私たちはコンピュータに意識を持たせることが果たして可能なのか、可能ならば何をすれば良いのかを理解するだろう。
<写真 世界最初のコンピュータ、ENIAC(米ペンシルベニア大学モークリー図書館提供>
http://www.library.upenn.edu/special/gallery/mauchly/jwmintro.html
意識のなぞ 第3回
「心の時間さかのぼり認識」
日本経済新聞 1999年9月19日掲載
時間は、客観的な存在であると同時に、主観的な存在でもある。
客観的な時間、すなわち物理的時間は、時計を用いて測ることができる。一方、私たちの心の中の時間の流れは、客観的には測ることができない。「相対性理論の意味は何ですか?」と質問されたアインシュタインは、「かわいい女の子の隣に座っていれば1時間でも1分に感じるが、熱いストーヴの近くにいると、1分が1時間にも感じられるということです」というように答えたという。もちろん、ジョークではあるが、アインシュタインの言葉は、私たちの心の中の時間の流れのある側面を捕らえている。心の中の時間の流れは、物理的な時間とは一致しないのだ。
では、私たちの心の中の時間の流れは、どのようにして決まっているのだろうか?
私たちの脳の中のニューロンの活動は、物理的な時間の流れの中で起こる。私たちの意識は、結局のところニューロンの活動によって生じるから、私たちの心の時間は、ニューロンの時間(すなわち物理的時間)と何らかの関係を持っていると予想される。
アメリカの神経生理学者、ベンジャミン・リベットは、一連の実験で、心の時間とニューロンの時間の間の興味深い関係を示した。リベットは、脳外科の手術の際に患者の脳を刺激するなどして、脳のニューロンの活動とそれによって引き起こされる感覚の間の関係を研究した。リベットによると、あるニューロン群の活動が私たちに意識されるためには、ある一定の時間(典型的には500ミリ秒)、活動が継続しなければならない。この、一定の時間以下しか継続しないニューロンの活動は、意識に上らないというのである。
さらに、リベットは、この500ミリ秒続くニューロンの活動の結果生じる感覚が、心の時間の中でどの瞬間に起こったと意識されるかを研究した。その結果、主観的な時間の中では、感覚は活動開始から500ミリ秒経過して「意識に上る必要条件」が満たされた瞬間ではなく、そもそもニューロンの活動が始まった瞬間に起こったように感じられるということを見い出した。つまり、感覚が生じるためには、500ミリ秒のニューロンの活動が必要だが、その感覚の知覚は、「心の時間」の中では、500ミリ秒の経過時間の最初に「引き戻される」のだ。
リベットの実験は、その扱っているテーマが難しいだけに、その解釈を巡っては現在でも様々な説がある。いずれにせよ、リベットが、心の時間とニューロンの時間の間の関係を考える上で重要なヒントを提供してくれたことは間違いない。
時間の感覚を巡っては、初めて見た景色なのに、すでに見たことがある景色のように感じる、いわゆる「デジャ・ヴュ」(既視感)など、様々な不思議な心の働きがある。時間は、ある程度の定量的な扱いが可能なだけに、脳と心の関係という難しい問題に挑戦する際の、最初のターゲットになる可能性を秘めている。
<Libetの実験のグラフの概念図>
意識のなぞ 第4回
「重要な無意識の情報処理」
日本経済新聞 1999年9月26日 掲載
脳の中の140億個のニューロンの活動のうち、その一部だけが、私たちの意識に上る。残りは、無意識の活動として、意識の活動を支えている。
意識と、無意識の間には、どのような関係があるのだろうか?
意識される情報処理の方が高等であり、無意識に起こる情報処理は下等であると考えがちであるが、実際にはそう単純ではない。実際、意識されずに起こっている脳の情報処理のプロセスは膨大であり、意識されるプロセスよりも重要な役割を持っている場合もある。
抽象的な概念を含む、高度に発達した言語は、意識を持つ人間に特有の能力だと考えられる。ところが、言葉の発話のプロセス自体は無意識に起こる。私たちは、「大体このようなことを言おう」ということは意識しているものの、具体的にどのような言葉が出てくるかは、実際に発話してみないとわからない。自分が発した言葉の意外性に、赤面することもある。私たちが意識的にコントロールしているのは、発話のおおよその方向性だけなのである。発話のプロセス自体が無意識に起こるということは、一般に、運動の具体的な遂行のプロセスは、無意識のうちに起こるということと関係している。発話も、口や舌の筋肉を用いた運動に他ならないからである。
無意識は、私たちの生物としての生存に欠かすことのできない役割を持っている。林の中で蛇を見て驚くという経験を考えよう。大脳皮質の下にある、進化的に古い脳の部位である大脳辺縁系で起こる無意識の情報処理が先に起こり、「何か危険なものがある」と体が凍り付く。その後、やや遅れて、「あれは蛇だ」という大脳皮質で起こる意識的なプロセスが追い付いてくる。大脳辺縁系の情報処理は、粗いが、迅速に起こる。もし、大脳皮質の緻密だが遅い情報処理の結果を待っていたら、危険を避けることができないかもしれない。
無意識のプロセスは、そのステップの一つ一つをあまりガチガチに意識でコントロールしない方がいいらしい。例えば、スポーツで、一番うまくいくのは、あまり運動の細部を意識せず、無意識に起こる運動プロセスを十分に開放してあげた時である。ヘタに意識すると、ぎこちない運動になってしまう。「吃音」は、普段は意識しない、発声をコントロールしている筋肉の動きを意識してしまうことによって起こるという説があるくらいである。
無意識のプロセスを開放するということは、もっとも人間らしい能力の一つである「創造性」と深く関わっている。創造性においても、発話と同様、意識のコントロールは、「だいたいこのようなものを生み出そう」という漠然としたレベルにしか及ばない。その結果、生み出されてくるものが意外で新しいものであるほど、私たちは創造性を十全に発揮したと感じる。このような時には、意識が無意識にいわば圧倒されているのである。
意識と無意識を脳科学の視点から見た場合、そもそも脳の中のニューロンの活動のうち、どのようなものが意識され、どのようなものが無意識のプロセスになるのかという根本的な問題がある。だが、この問題は「意識とは何か」という究極の問いにも関係し、現在のところ解答の糸口は見つかっていない。
図 <意識は水面下にある大きな無意識に支えられている>
意識のナゾ 第5回
「色ない場所に色つくり出す」
日本経済新聞1999年10月3日掲載
私たちの心の中には、様々な質感を伴った感覚があふれている。例えば、赤いものを見た時に、私たちの心の中には「赤い色の質感」が感じられる。テナーサックスの音は、甘いつややかな質感として感じられる。このように、私たちの感覚を特徴付けるユニークな質感を、「クオリア」という。 近年、クオリアは、心と脳の関係を考える上で、最大の難問であると認識されるようになった。クオリアを生み出しているのは、私たちの脳の中のニューロンの活動という、物理的現象に過ぎない。一方、私たちの心の中の「赤い色」や「テナーサックスの音」のクオリアは、「質量」や「電荷」といった、脳を構成する物質の属性とは似ても似つかない、ユニークで鮮明なものである。
私たちの心の中のクオリアと、脳の中のニューロンの活動などの物理的プロセスの間には、どのような関係があるのだろうか? これは、哲学上の大問題であるとともに、意識を問題にし始めた脳科学にとっても重大な問題である。
クオリアは、脳の情報処理メカニズムの本質とも深く関わっていると考えられている。世界最初の電子式コンピュータの開発から半世紀の間に爆発的に発達したコンピュータの中の情報は、一つ一つは個性を持たない「ビット」から成り立っている。それに対して、私たちの心の中に感じられるクオリアは、一つ一つが他と間違いようのない「個性」を持っている。このような個性の背後に、クオリアを生み出す脳の情報処理過程が圧縮されている。クオリアは、情報処理の結果を、ユニークな個性に圧縮して提示する、私たちの脳に埋め込まれた自然のテクノロジーの現れである。脳の中でどのように情報が処理されているかを本当に理解しようと思ったら、クオリアを避けて通ることはできない。
クオリアは、外界からの入力だけによって生じるわけではない。私たち自身が、クオリアをつくり出すこともできる。実際、様々な心理実験の結果から、私たちは外界からの情報を単に受動的に受け取ってクオリアを感じているのではなく、むしろ、能動的にクオリアをつくり出しているということが分かってきている。例えば、均一な色の中に徐々に白くなる小さな丸い領域があると、白い領域まで色がついて見える「書き込み」という現象が知られている。私たちの脳が、「均一な色が周囲にある以上、色のついていないところにも色がある方がもっともらしい」と判断して、色のないところにも色のクオリアを「つくり出して」しまうからである。どうやら、私たちの脳の「能動的」なプロセスと、感覚器からの入力を処理する「受動的」なプロセスが出会う時に、私たちの心はクオリアを感じるようなのである。
<サックス奏者の写真> サックスの音色には甘いつややかな質感がある(ヤマハ提供)
意識のナゾ 第6回
見えないのに見える知覚
日本経済新聞1999年10月10日掲載
見えないのに、見える、そのような、不思議な感覚を持っている人達がいる。脳内出血などで、大脳皮質の一部分の機能を失った人達に見られるこの不思議な知覚を、「盲視」(ブラインドサイト)と言う。
私たちの目の網膜から入った視覚情報は、大脳の底にある視床を通り、後頭部にある「第一次視覚野」に入る。この第一次視覚野の一部が何らかの理由で失われると、視野の中の対応する部分が一切見えなくなってしまう。どうやら、第一次視覚野は、私たちが外界を「意識して見る」時に、必要不可欠な領域らしいのである。
ところが、第一次視覚野を失った人達の中に、「見えないのに見える」とでもいうべき、不思議な能力を持つケースが見られることがわかった。例えば、見えなくなった視野の部分に上や下の方向に動く光の点を示して、「点はどちらに動いていますか?」と尋ねる。すると、当然のことながら、「何も見えません」という答えが返ってくる。しかし、重ねて、「強いて言えば、どちらに動いていると思いますか?」と尋ねると、「何となく上に動いているような気がする」と答える。驚くべきことに、このような「何となく」の答えが、100%に近い正答率を見せることがあるのである。
イギリスのオックスフォード大学の神経心理学者、ワイツクランツらは、G・Yというイニシャルの有名な患者などの協力を得て、「見えないのに見える」盲視のメカニズムを研究してきた。その結果、盲視の患者の能力が、後頭部にある第一次視覚野よりも前頭寄りにある、高次の視覚野のニューロンの活動によって支えられていることが明らかになってきた。盲視の患者の高次の視覚野は、網膜から、第一次視覚野を経由しないルートで入ってくる視覚情報を受け取っている。この結果、患者は、提示された光の点が上に動いているか、下に動いているかの判断をすることができる。この判断は、正答率が100%に近いほど、確かなものである。ところが、患者は、そのような判断を支えている、明瞭な視覚イメージを持たないのである。ただ、「何となく上に動いている気がする」というような、抽象的な知覚しか持たない。まさに、「見えないのに、見える」不思議な感覚を持っているのである。
盲視の研究を通して明らかになってきたのは、外界を見るという一見単純な行為の背後に、実は、脳の大脳皮質の異なる部位の連係があるということである。「クオリア」(赤い色の感じなどの、鮮明な質感)を伴う視覚イメージは、第一次視覚野を含む脳の活動によって引き起こされる。一方、「上に動いている」というような情報処理は、高次視覚野によってなされている。盲視の患者は、第一次視覚野を失ったために、クオリアを伴う鮮明な視覚イメージなしに、高次視覚野の情報処理の結果だけを知覚している。このことが、「見えないのに、見える」盲視の不思議な感覚につながっているのである。
盲視という、一見矛盾する感覚は、私たちが外界を見る時に脳の中で起こっているプロセスについて、重要な情報を与えてくれる。
<図 主な視覚関係の脳の領野>
意識のナゾ 第7回
自意識を持つ数少ない動物
日本経済新聞1999年10月17日掲載
動物には意識があるのか? これは、誰でも疑問に持つ問題である。
意識と言っても、いろいろなレベルがある。例えば、外界から入ってくる視覚、聴覚などの情報を、ぼんやりと心の中に感じている、「アウェアネス」と呼ばれる状態は、もっとも基本的な意識のレベルであると考えられる。私たち人間のように、言語をやりとりする能力を持つことが、意識の本質に関係するという考え方もある。
動物には意識があるか? このような問いを人間が発する場合、私たちが本当に知りたいことの一つは、動物には、「自分が自分である」という、自意識があるかどうかということであろう。
「鏡のテスト」は、「自己の意識」という観点から、動物に意識があるかどうかをテストする。テストをする際には、まず、動物の顔の一部分に気が付かれないように塗料を塗っておく。皮膚感覚で気付かれないように、刺激の少ない塗料を使わなければならない。そしておいてから、鏡の前に立たせる。この時、鏡の中のイメージを自分の像だと認識して、塗料のついている顔の部分を調べてみたり、撫でてみたりするかどうかを調べるのである。
現在のところ、3種類の動物しかこの「鏡のテスト」に合格していない。すなわち、チンパンジー、オランウータン、そして人間である。全ての動物の中で、人間と、2種類の霊長類だけが、鏡に映った姿を自分のイメージだと理解することができるのである。実は、「鏡のテスト」に合格したという研究報告は、他の動物に関してもある。しかし、これらの多くは、自分の研究対象の動物の知的レベルをなるべく高いものだとみなしたいという、研究者の「ひいき目」によるもので、確実で再現性のある結果ではないらしい。
もちろん、「鏡のテスト」に合格することが、そのまま自意識の存在を確証するわけではない。そのような留保を置いた上で、「鏡のテスト」は、自意識とは何か、そして、自意識の存在を、いかに客観的に検証できるかという問題を探究する、最も有効な方法論の一つだということができるだろう。
チンパンジーが、「鏡のテスト」に合格するようになる過程が面白い。鏡を前に置かれたチンパンジーは、最初、鏡に映るイメージを、他の個体だと思って、威嚇したり、触ろうとしたりなどの「社会的行動」をする。そのうちに、鏡の中のイメージが、他の個体ではなく、実は自分の姿だということに気付き、社会的行動は消失していく。社会的行動と交代するように、顔を調べたりなどの、「自分に対する行動」が増えていく。この学習の過程は、2、3日の間に進行する。また、チンパンジーが鏡の前で過ごす時間は、この、学習が進行している2、3日の期間に、最大となる。鏡の中のイメージが自分だと判った後は、飽きてしまって、鏡に強い関心を示さなくなるのだ。
「鏡のテスト」が持つ本当のメッセージは、このような、「自己のイメージ」の学習過程にあるのかもしれない。私たちは、いかにして、自意識を獲得するのか? 自意識獲得の過程は、私たちの他の個体との社会的な相互作用と深い関係を持つのかもしれないのである。
<イラスト 鏡の前に立つチンパンジー>
意識のナゾ 第8回
言語生む感覚・運動の統合
日本経済新聞 1999年10月24日掲載
感覚は受動的なものであり、運動は能動的なものであって、それぞれ独立した脳の領域の活動によって担われている。このような古典的な捉え方が、崩れつつある。最近の脳科学は、感覚と運動が、私たちの脳の中で統合されて処理されている例を次々と示している。そして、このような感覚と運動の統合が、言語の本質を理解する上で重要であるという認識が深まりつつある。
脳における感覚と運動の統合を示す、もっとも劇的な例の一つが、イタリアのパルマ大学のガレッセらが猿の前頭葉にある運動前野のF5と呼ばれる領域において見い出した「ミラー・ニューロン」である。
「ミラー・ニューロン」は、猿がある特定の行為をした時にも、他の個体(例えば、実験をしている人間)が同じ行為をするのを見た時にも、同じように活動する。例えば、「掴む」という行為を例にとれば、猿が何かを掴んでも、実験者が同じものを掴むのを見ても、これらのニューロンは活動する。すなわち、まるで鏡に映したように、ある行為の実行とその認識の両方に関与するというので、ミラー・ニューロンと名付けられたのである。
ミラー・ニューロンの発見のきっかけは、実験者が、休憩中にジェラートを食べているのを見た猿のF5のニューロンが活発に活動したことだったという。いかにもイタリア人らしいエピソードである。
ミラー・ニューロンのような反応特性を持つニューロンが成立するためには、「掴む」という行為を表す情報が、それが自身の運動に関わるものか、感覚に関わるものかに依存しない、共通のフォーマットで表されなければならない。ここには、すでに、ある程度抽象化された「掴む」という概念の萌芽が見られる。そして、このような抽象化された概念が成立することが、私たちの言語活動にとって必要不可欠であることは言うまでもない。
猿のF5は、人間で言えば、発話行為を司っているブローカ野に相当すると言われている。最近になって、PETなどの非侵襲計測を用いた実験で、人間の脳にも、あるジェスチャーの認識と行為の双方に関わる「ミラー・システム」の存在を示すデータが得られているが、この中には、ブローカ野も含まれることが示唆されている。これらの知見から、ミラー・ニューロンのような形で感覚情報と運動情報を統合することが、言語の脳内メカニズムの本質に関わるのではないかという考えが生まれてきているのである。
言語を、発話を含む行為を通したコミュニケーションとして捉えた時、ミラー・ニューロンが行なっているような情報処理の役割について、様々な仮説を立てることができる。例えば、自分の行為と他人の行為を共通の情報フォーマットで処理することにより、他人の心の状態を読み取ったり、あるいは、模倣によってジェスチャーを学習するといったことに役に立つのではないかというモデルが提案されている。
ミラー・ニューロンの見い出される前頭葉は、「私」という自我の中枢が存在すると考えられているところでもある。どうやら、自我の脳メカニズムの中心には、感覚情報と運動情報が混然一体となった、言語的世界が広がっているようなのである。
<イラスト 自分が食べても、人が食べているところを見ても同じ脳細胞が働く>
意識のナゾ 第9回
時間感覚生む2種類の記憶
日本経済新聞1999年10月31日掲載
私たちが感じる感覚の中で、時間の流れの感覚は、もっとも不思議なものの一つである。過去の出来事は、例えそれが1秒前のことでも、もう変更することができない。未来は、例えそれが1秒後でも、何が起こるか判らない可能性を秘めている。私たちの心の中の「今」には、過ぎ行くものへの名残り惜しさと、これから来るものへの緊張が同居している。
上のような心理的な「今」の感覚は、直前に起こったものの記憶を保持したり、過去に起こった記憶を読み出してアクティヴな状態に保つ、ワーキング・メモリーの働きと関係している。ワーキング・メモリーは、大脳の前側の前頭連合野と呼ばれる部位において担われていると考えられている。ワーキング・メモリーの容量には限りがあり、1956年のミラーの古典的な論文で報告されたように、7プラスマイナス2程度の数のアイテムしか保持できないとされる。つまり、新しいものを取り入るためには、今あるものを消去しなければならないのである。このようなワーキング・メモリーの性質が、私たちの時間の流れの感覚と関係しているのかもしれない。
心理的現在が積み重なると、さらに、1日、1年といった、長い時間の流れが生まれてくる。このような長いスパンの時間の流れの認識は、ニューロンの間のシナプスの結合強度の変化として貯えられる長期記憶によって支えられている。
脳のほぼ中央、大脳皮質の下部にある海馬という領域が損傷を受けると、新しい長期記憶を形成することができなくなる。その結果、深刻な記憶障害に陥る。
医者が、海馬由来の記憶障害を持つ患者に「初めまして、私が担当の田中です。」と自己紹介する。そして、診察室を出る。約1分後に診察室に戻る。再び、「初めまして、私が担当の田中です。」と自己紹介すると、患者は、不審なそぶりも見せずに、「初めまして」と言う。「お会いしたのは、これが初めてですよね。」と言うと、患者は、100%の確信を持って、「ええ、これが初めてです。」と答える。そのようなことが起こる。
英国ケンブリッジにあるMRC研究所のバーバラ・ウィルソン博士が研究したある患者は、数年間の間、毎朝、自分がその日に事故後始めて意識をとりもどしたと思っている。実は、この間、毎日の出来事を詳細に日記に記しているのだが、そのことを覚えていない。自分が書いた日記を見ても、「確かにこれは私の筆跡だ。でも、私が書いたものではない」と主張する。そして、「一体、誰が、私の筆跡をまねしてこんなものを書いたのだろう」と不思議がる。介護する妻は、「まるで夫の人格がなくなってしまったようだ」と証言する。
新たな長期記憶を形成できない患者は、ワーキング・メモリーの支える時間の感覚だけを持つ。いわば、「永遠の現在」に閉じ込められた状態になってしまうのである。
ワーキング・メモリーや長期記憶は、私たちの心の中の時間の流れと深く関わっている。私たちの脳の中の記憶のメカニズムを探ることは、科学的にも医学的にも、さらには哲学的にも重要な問題なのである。
<図 10ケタの電話番号を暗記するのはワーキングメモリーの仕事>
意識のナゾ 第10回
認知の過程で「意図」読む傾向
日本経済新聞 1999年11月7日掲載
私たちは、日常生活の中で、ごく自然に、お互いの心の中の状態を推察し合いながら生きている。
例えば、交差点の信号が青に変わり、自分が右折しようとしている時、対向車のドライバーと視線が合う。アイコンタクトの時間経過の中で、相手の、「お先にどうぞ」という意図を読み取れる場合がある。あるいは、子供が、親の顔色をうかがいながら部屋を出ようとしているのを見て、何か悪戯をしようとしているなとわかることもある。
このように、他人の心の状態を推測する能力を、「心の理論」と言う。幼児の発達の過程では、だいたい、3才から4才の間に、「心の理論」が獲得されると言われている。
ある幼児が「心の理論」を持っているかどうかのテストは、例えば次のようにして行う。
幼児の前で、女の子とその母親が出てくる劇を見せる。女の子は、部屋の中でケーキを食べている。やがて、女の子は、食べかけのケーキを机の上の箱の中に入れ、蓋をして遊びに行ってしまう。その後に母親がやってきて、箱の中のケーキを見つけ、「ちゃんとしまっておかなくては」など言いながら、冷蔵庫の中に入れる。母親が部屋から出ていった後で、女の子が帰ってくる。そして、ケーキの残りを食べようとする。ここで、劇の一部始終を見ていた子供に、「さて、女の子は、ケーキを探すために、どこを見ようとするかな?」と質問する。まだ「心の理論」を形成することができない幼児は、「冷蔵庫の中」と答えてしまう。つまり、自分は、「今、ケーキは冷蔵庫の中にある」ということを知っているのだけども、部屋の外に遊びに行っていた女の子は、そのことを知らないのだということを推測できないのである。他人の心を読む能力が、未発達なのである。
1985年、イギリスの認知心理学者、バロン=コーエンらは、自閉症の子供は、「心の理論」を十分に発達させていないと報告して、大きな注目を集めた。バロン=コーエンらの研究を受けて、自閉症の子供が見せるコミュニケーションの困難には、「心の理論」の障害が関わっているのではないかという仮説に基づき、様々な研究がなされている。
今日では、「心の理論」は、人と人との間のコミュニケーションの場において機能するだけでなく、より広い認知のプロセスにおいて、基本的な意味を持つと考えられている。例えば、私たちは、人間に対してのみならず、人間が生み出す様々なもの、さらには、無生物にさえ、「意図」を読み取る傾向がある。会ったことのない人から受け取った電子メイルの文面から、私たちは相手の心の状態を推測することがある。時には、それが思わぬ誤解を生むこともある。どんよりと曇った寒い日に太陽が出てくれば、私たちは太陽に「善意」を読み取ってしまう。アニミズムに通じるような自然な傾向を、私たちは心の中に持っている。
どうやら、私たちの認知のプロセスの至るところに、半ば無意識のうちに、あらゆるものに「意図」などの心的状態を読み取る傾向が潜んでいるようなのである。
意識のナゾ 第11回
顔は口ほどにものを言う。
日本経済新聞 1999年11月14日掲載
私たち人間にとって、自分や他人の「顔」は、重要な意味を持っている。
私たちの脳の中には、生まれつき、顔の形や表情を読み取る神経回路ができているらしい。新生児は、顔のような形と、中立的な形の両方を見せられると、顔のような形の方を長い時間見ていることが知られている。新生児はまた、出生直後に、顔の表情のまねを始めることがある。ある新生児が、生まれて1時間もたたないうちに、舌を突き出したり、口を開けたりといった表情をまねし始めたという報告もある。
顔は、人間のコミュニケーションにおいて、重要な役割を果たしている。進化論の父、ダーウィンも顔の表情に強い関心を持った。ダーウィンは、人間と霊長類の間だけでなく、ほ乳類全体に共通の顔の表情があることに気が付いた。そして、これらの表情は、かなりの部分が遺伝子によって支配されており、自然淘汰の下で有利な形質として発達してきたのだろうと推測した。ダーウィンは、例えば、泣く時の目を閉じ涙を流す表情は、血圧の上昇から目を守るという意味があったのだろうと考えた。また、「眉をしかめる」という表情は、泣きそうになった時にそれを抑制する顔の筋肉の作用から生じたのだろうと考えた。しかし、ダーウィンも、人間の見せるすべての表情を、自然淘汰において有利な形質として説明することはできなかった。
顔の表情が、人と人とのコミュニケーションにおいていかに重要かということは、顔の表情がコミュニケーションの手段としてうまく使えなくなった時にわかる。
英国サザンプトン大学のコールは、「顔」をテーマに、様々な人の体験を研究した。
視力を人生の途中で失ったある人物は、未知の人物に出会うと、今まで知っている人の顔をその人に重ねてイメージするという。視力を失う前に蓄積しておいた「顔」のイメージのデータベースを、新しく出会う人にも適用するわけである。ところが、そのうちに、投影している顔のイメージと、現実の人物の言葉、行動にずれが生じることがある。その際、非常に強い違和感に悩まされるというのである。また、視力を失った後でも、顔が自己のイメージにおいて非常に重要な意味を持つという。自分の心の中の、自分の顔のイメージが不確かになった時、自分の存在自体が不確かなものになるような気がしたと証言する。
メビウス症候群と呼ばれる症状を示す人たちは、生まれつき、顔の筋肉を動かして表情をつくることができない。ある少年は、この症状のために、ずっと人とのコミュニケーションに悩んできたと告白する。言葉によらないコミュニケーションがあることには、ずっと後になるまで気が付かなかったという。
私たちは、もちろん、一人一人の人間が、顔の表情だけでは測り切れない豊かな内面生活を持っていることを知っている。それでも、私たちは、往々にして、顔を通して、他人のイメージをつくり、自分のイメージをつくる。顔のイメージは、人間存在自体のイメージと密接に絡みあっているのである。
意識のナゾ 第12回 (最終回)
分散した心を結ぶ「言葉」
日本経済新聞 1999年11月21日掲載
現代の脳科学者は、ほぼ例外なく心は、脳の中のニューロンの活動で生じる脳内現象だと考えている。だが、本当に、心は脳にあるのか?
私たちの感覚を構成している、「赤い色の感じ」や「テナーサックスの音色」のようなユニークな質感(クオリア)については、それが、脳の中のニューロンの活動で生み出されていることに、疑いの余地は無さそうだ。外部から刺激が入力しても、それを解析する脳の神経回路網が機能しなければ、私たちは何も感じない。逆に、外部から刺激が入力しなくても、脳の中のニューロンがあるパターンで活動すれば、私はその活動パターンに対応するクオリアを感じる。刺激の入力がないのにクオリアが生じる場合、私たちはそれを幻覚と呼ぶ。しかし、ニューロンの活動によってクオリアが生み出されるプロセスそのものは、実際に外部からの刺激を感じる場合も、幻覚の場合も、同じである。その意味では、現実と幻覚の間に区別はない。
ハーバード大学の哲学者であるパトナムは、「水槽の中の脳」という思考実験を提案した。すなわち、水槽の中に脳だけが浮かんでいても、その脳のニューロンがあたかも現実に何かを見聞きしているように活動するならば、その脳に宿る心にとっては、実際にそのような現実の中にいるのと区別が付かないだろうというのである。クオリアに関する限り、「水槽の脳」に宿る心は、確かに、現実と区別のつかない質感の世界を感じるだろう。
もちろん、私たちの脳は、宇宙の中に孤立しているわけではない。私たちは、人間の社会の中で、コミュニケーションをとりながら生きている。私たちのコミュニケーションを媒介する「言語」について考え始めた時、心と脳の関係には、社会的な視点が入ってくる。
果たして、言葉の意味は、脳の中にあるのだろうか?
一人一人の人間が、言葉の情報を処理している限りにおいて、その処理が、脳の中で行われていることには疑いの余地がない。しかし、言葉の意味に関しては、完全にではないにせよ、社会の構成員の間である程度の合意が成立して、初めてコミュニケーションが成立する。言葉の意味は、脳の中にだけでなく、社会の中にある程度分散して存在すると考えざるを得ない。私たちの脳は、分散して存在する言葉の意味の世界における結節点のようなものだろう。
自分の感じる赤のクオリアと他人の感じる赤のクオリアが同じものであるかどうかを確認することはできない。クオリアはあくまでも私的な体験である。一方、私たちは、言葉の意味は共有できる。少なくとも、そのように信じている。言葉は、私的な体験を共有するためのテクノロジーとして進化してきたのである。そのことによって、私たちの意識も、脳の中に閉じ込められている状況から、少し解放された。
脳科学は、基本的に、脳を一つの物質系として取り出して研究する。そのようなアプローチでは探求し切れない問題の一つが、言語である。脳科学のアプローチと言語研究のアプローチの融合が、意識の問題を考える上でこれらの重要なテーマの一つになることは間違いない。