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[ Qualia Mystery #5]の●「ゼルダ」に見るクオリアとアフォーダンス (以下、

『ゼルダ』と略す)を読んで

1999.2.26

塩谷賢(情報倫理 FINE PROJECT 千葉大学拠点 リサーチアソシエイト)

saltcat@bc4.so-net.ne.jp

 

 

アフォーダンスとクオリアの差は原理的なものなのだろうか?

『ゼルダ』では、身体機能的なアフォーダンスと質感的クオリアを対比させている。

身体機能的なアフォーダンスの単位として「ひっくり返ったカブト虫が起き上がるの

を助ける環境の中の要素が、アフォーダンスの単位となっているわけです。」という

ように「起き上がり」を助けるということで身体機能に即した単位設定となってい

る。

また一つの環境要素が複数のアフォーダンスを持つことは当然である。『ゼルダ』に

「「コップ」は単に透明の円筒として認識されるのではなく、「水を入れられる」

「投げてこわせる」「さかさまにして、蟻を閉じ込めておける」といった「アフォー

ダンス」を伴って認識されるというわけです。」

とあるように我々は複数のアフォーダンスをコップに同時に見ることが可能であり、

また通常そのようにしている。

ここで私が気になるのは、

・ アフォーダンスの個別化において、アフォーダンスに先立つ生体機能の認識が原

理的に独立に確保されるか?

・ 複数のアフォーダンスが配置される環境要素の認識が独立に確保されるか?

の2点である。

 

この2点で殊更に「認識」を入れたのは、クオリアとの対比で議論する際に、ア

フォーダンス論者において前提とされる実在論を中立化したいこと、また、クオリア

の存在性格についてまだ決定的な性格付けが成されていないが、少なくとも認識的機

能に強く関連しているように思えることから、両者の関係を論ずるには認識論的背景

のほうが相応しく思えたことによる。

 

第一点においては、アフォーダンスは観察者の観点から記述された機能性であること

が問題であろう。カブト虫が「起き上がった」のか「背を上に向けた」のか「足を6

本とも机に付けた」のかによってアフォーダンスは変わるのだろうか?アフォーダン

スが身体的な機能に限定されている場合には、リーゾナブルな時空範囲で機能記述に

共通の身体動作(の物理的記述)が見出せるだろう。この条件が、「一つの身体機

能」であることを保証するのではなかろうか? 実際に機能を特定するときに、その

範囲はあまり小さくても大きくてもうまくない。丁度、観察者が自分の身体機能に対

して同じような記述の共通性が期待できる動作を典型として、観察対象の機能を決定

しているのであろう。

しかし、身体機能の補助要素をアフォーダンスと呼ぶときには、何らかの内包的な意

味合いが含まれている感じもする。機能は目的などの周囲の文脈(∽意味?)と相関

的であり、アフォーダンスを有する環境要素の活用が生体−環境の更に大きな相互作

用に影響を与えることが期待されるからである。カブト虫が「起き上がった」のは

「動きやすい姿勢を取る」ためかもしれないし、「背を上に向けた」のは「ハネを開

く」ためかもしれない。「6本の足を机につけた」のは「足の筋繊維を鍛える」ため

かもしれない。共通の身体動作(の物理的記述)は、これらすべての機能の連関の記

述の可能性を許す。しかし、実際に補助としてのアフォーダンスを語るときには、す

べての機能連関について語るよりも「主要な」

もしくは「多く有りそうな」機能連関に着目するのである。(このことは作用連関の

仕方や計量に関する厳密化のために物理的記述をすることとは矛盾しない。)いいか

えればアフォーダンスはいわば「統計的な」生体行動学をその表現のうちに既に含む

形で使われているといってもよいだろう。我々はこのような「統計」の手法を数学

的、明示的には持っていない。先に述べたように我々自身の、行動の意味を理解して

いる我々自身の行動を典型にすることによる機能の認定によって自然と処理している

と考えられる。

このことからアフォーダンスが人間的な読み込みをし易い生体機能に対して適用しや

すい概念であることが伺える。(決してそれ以外には無理だといっているわけではな

い)

例えばウイルスなどの微生物、植物について「走る」(走光性など)という謂い方も

されるが、通常はアフォーダンスとはいわれないのではないだろうか。

この点からアフォーダンスにおける機能個別化は人間の機能を典型としており、且つ

それはある種の「統計」の結果、しかも人間行動の過去の事実の統計のみならず、

「これからどうしようか」という未来についての直観的な重要度の把握も含んだ統計

であり、表面上(且つ日常言語の意味論上)は単純であっても、実際にはきわめて複

雑な処理の結果であること、通常のアフォーダンスの議論ではこの過程を切り離して

前提としているということが出来よう。

 

第二点はアフォーダンス論者の取る実在論では物理的実在は前提であるから決して問

題にならない。しかし、クオリアについての内在的、内包的な性格を考えるとモノ中

心の単純な物理主義、むしろニュートン力学的機械論の基礎となるモノ主義を前提と

した議論でよいのかということが気になる。通常のアフォーダンスで考えたとき、複

数のアフォーダンスを共有する物体はどのように捉えられ個別化されるのか。ア

フォーダンスが生体機能を補助する環境要素であるとするとき、対象とアフォーダン

スの関係はどうなるのだろうか。

知覚、特に視覚の場合の視覚対象はアフォーダンスの場における安定要素のようなも

のとして考えられている(ギブソンはもともと飛行士の視覚や鳥の視覚からアフォー

ダンスを考えた)。むしろ視覚野がアフォーダンスの配置の場であった。しかし全く

異なる生体機能に関わるアフォーダンスがなぜ同じ視覚野にコードされるのか?視覚

野の議論では飛行方向や高度といった視覚野と密接に関連する姿勢制御についてのア

フォーダンスが主として問題となっており、「水を入れられる」「投げてこわせる」

といった異なる種類のアフォーダンスが触れられているわけではない。

では、視覚には対象存在の把握に関する何らかの優位なファクターがあるのだろうか

?我々の通常の外界のイメージは、視点独立性を確保できるような形で複数の視覚野

を抽象化し多様体的に接合したものであるといってもよいだろう。(これを仮に対象

野と呼ぼう。)その限りでは視覚は優位なファクターを持っているといえる。しかし

これでもなお、なぜ一個の対象に複数のアフォーダンスが付加されるかについては説

明していない。また、対象野の発達と他の道具に関するアフォーダンスの発達の順序

に関しても問題があろう。はじめから統合的な対象野が作られ、その後に身体的、特

に触覚的アフォーダンスができるとはいえそうに無い。事実関係は心理学、生理学に

ゆだねるべきものであるが、概念的な意味論の場合でもハイデガーのように道具的意

味を優先させ対象的意味をその結果として出てくるものとする立場もある。

また、アフォーダンスは視覚を通じて認知(もしくは附値)されるものも多い。その

際、アフォーダンスは視覚におけるクオリアと生体の置かれた状況、生体の行動関心

(または行動の文脈)などから総合的に引き出されているように思える。身体動作に

関わるアフォーダンスは物体の形状、位置を大きなファクターとするが、強度や弾性

については質感に依拠して知られることが多いだろう。脆そうな表面は体を支えられ

ない、というのはきわめて有用なアフォーダンス附値である。「ザラザラした表面」

はブレーキが利きやすい、という歩行上の利点を与えてくれる。また色によって食物

の安全性を知ることも広い意味でのアフォーダンスと言えるのではないだろうか。

このような視覚と共同してのアフォーダンス附値は誤る場合もある。しかし実際のア

フォーダンスがすべて実行によって確認されるわけではない。生体機能を補助する能

力でよいのである。アフォーダンスの存在性格を中立的なままにしておくとき、上の

ようなアフォーダンス附値はアフォーダンスの認知において重要なファクターであ

る。

 

このように考えるとアフォーダンスの概念には、その基礎に解明されていない前提が

数多く潜んでいるように思える。特に最後に触れたクオリアとの共同によるアフォー

ダンス附値はアフォーダンス論者が前提とするモノ存在論がクオリアの機能に支えら

れている可能性を示唆するものと思われる。逆にクオリアについて、アフォーダンス

附値の議論を視覚野の対象固定の文脈におくと、クオリアがより原初的なアフォーダ

ンスや状況、生体の関心などを含んだ(内包的な?)ダイナミックスの中での安定要

素として考えられるようにも思える。安定要素として抽出したからこそ多くのア

フォーダンス(より原初のではなく、通常いわれる「統計処理」をしたもの)に共通

なメルクマールとなりうるのではないだろうか。この意味で「アフォーダンス」と

「クオリア」は双対的に発展する広い意味での生体機能の関連しあった断面である可

能性がある。その構造を良く見るためには、もっと精緻な概念規定、表現方法、定式

化等が必要な気がする。

『ゼルダ』で

「このような「クオリア」中心の場面は、却って、現在のコンピュータ・ゲームの限

界を感じさせます。どんなに美しい花が描かれたとしても、現実の花から得られるク

オリア(花びらのつや、その上に生えている繊毛の感触など)にはまだまだ遠く及ば

ないのです。、、、、、、(中略)、、、、、、一方、私たちの身の回りにあるあり

ふれた「クオリア」を十分に表現できるようなグラフィックス技術は、まだまだ未発

達なのです。」

といわれている状況は、我々はまだ「クオリア」でコードされた(またはコード可能

な)「アフォーダンス」をすべて取り出していないこと、現実の「クオリア」には

「機能の双対的な発展」の創発性がグラフィックスとは異なる形で入っていることな

どを示唆しているようにも思われる。

 

『ゼルダ』においては、

「「アフォーダンス」は、環境の中の情報を生体にとっての機能の側面からとらえた

概念です。一方、クオリアの問題領域は、機能主義とは無関係ではないものの、機能

ではとらえきれない世界にあります。」

といわれるときの「機能」概念をどのように理解するかが鍵となるだろう。

『ゼルダ』で、

「プレイヤーにアフォーダンスを認識させるためには、粗いグラフィックスで十分な

のです。実際、メモリ的に制約のあるダンジョンの中のグラフィックスは、粗い表現

でうまく「アフォーダンス」を表示することが求められていると言えるでしょう。」

といわれているのは、ゲームでのアフォーダンスが非常に限られた機能に関わるもの

だからであろう。一つの機能類型を知るには一つのシンボル類型があれば十分であ

り、RPGなどでキャラクター(ゲーム内部に入ったプレイヤーと見なせる)が持つ機

能は極めて限られている。

その一方、

「 一方、感覚に伴う質感「クオリア」を問題にする場合、グラフィックスの精度

は、私たちの得るクオリアに直接影響を与えます。というよりも、グラフィックスの

精度が、かなりの程度私たちの得るクオリア自体の精度となるわけです。」

といわれるときのプレイヤーは、ゲームを含むより大きな場に生きている。そこは

ゲームの内部ではなく、ゲームによって大きく影響され教導されていく「私の生の時

空」なのである。ゲームを見てそれによって「これをやると俺はアホになるからやめ

よう」とか、「この場面は目に悪そうだから照明を明るくしよう」などという判断は

多分この「生の時空」におけるアフォーダンスであろう。ゲームによる教導を続ける

という選択肢の中の、ゲームへの限定された介入方法が『ゼルダ』でいわれるア

フォーダンスと思われる。

この議論はゲームの内部を物理的に同定できると考え、そこに話を限定するならば

違ってくるかもしれない。しかし、それは第一点で触れた「共通の身体動作(の物理

的記述)」と同様な見方であり、その際には別の議論が必要と思われる。

 

なお、すぐ上で触れた「ゲーム内部」と「私の生の時空」については、「インター

フェイスにおける機能環境の非対称性」という一般的問題として今後の「テクノロ

ジーと人間の関わりを考える際に、様々な手がかりを提供するように思われます。

(『ゼルダ』の最後の段落)」。通常の「アフォーダンス」と「クオリア」の捉え方

は必ずしも「機能」の同一の捉え方を前提とはしていないと思われる。

 

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