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=== Qualia Mystery ========================================

         クオリア・ミステリー

         Special Issue (1999/02/15)

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このメールマガジンは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』を

利用して発行しています。( http://www.mag2.com/ )

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[Qualia Mystery #Special Issue]

 

 <<< 発行者より>>>

 

 メイル・マガジン「クオリア・ミステリー」では、適宜、増刊号とし

て、ゲストの方に、心脳問題についての御考えを述べていただきます。

 今回は、難解な言葉使いの中にも深遠な思考を感じさせると哲学研究

者の中で評判の塩谷賢さんに、心脳問題についての御考えを披露してい

ただきます。

 

 <<< 塩谷賢(しおたにけん)プロフィール>>>

 

 1962年生まれの科学哲学者。東京大学数学科卒業後、厚生省に勤

務。その後、東京大学理学系大学院で科学哲学を専攻。特に時間論に関

心を持っている。現在、日本学術振興会FINE PROJECT(情報倫理)千

葉大学拠点のリサーチ・アソシエイト。

電子メイル saltcat@bc4.so-net.ne.jp

 

●クオリアを捉えるために

 

塩谷賢

 

 クオリアを捉えるために我々は何を用意しなければならないか。

 これが本稿の問題である。

 

 クオリアは赤の「赤さ」、コップの「肌触り」などいわゆる五感と関

わるものが典型的と考えられる。しかし、例えば幾何学図形の美しさ、

論理学の論証の見事さ、道徳的な振舞いのすばらしさ、何かを理解した

ときの爽快さといったものも、ここで我々が考えようとしているクオリ

アの一端と考えてよいのではなかろうか。

 

 通常、クオリアに対立する概念は量的なもの、数量化可能なものであ

る。数量化可能なものは、外延的な存在、外延的に記述可能な対象と言

い替えてもよい。数量はそれ自身でひとつの秩序を作ることができる。

いかなる文脈、意味付けの状況においても数量の関係はひとつの構造を

作る。この構造は外延的操作に関して影響を与える。更なる意味付け、

文脈に即した志向性を特定した場合に数量の関係の持つ意味は、この構

造に影響されるが、この構造を変化させはしない。

 物理学を典型とする近代自然科学は、数量化できる何か=いかなる文

脈においても同一の構造と見なすことができ、各々の文脈での意味付け

に影響を与える自立的要素としての何かを捉えることをその方法論とし

て選択してきた。この何かは科学が適用される任意の文脈での不変要素

=それらの文脈(場面)で文脈から自立的なものと考えられる。伝統的な

「存在」の定義に従えば、この不変要素は存在者である。近代自然科学

はこのような存在論的含意「不変要素ならば存在者」を内包している。

 問題はこの含意関係が同値関係「不変要素=存在者」と読みかえられ、

科学が積極的な存在論的コミットメントを選択するときである。このこ

とは従来、哲学をはじめとす人文諸学から指摘されてきた。しかし、な

ぜそのようなコミットメントがなされるかについて、「物理帝国主義」

などというイデオロギー的呼称ではない十分な説明が与えられたとは思

えない。

 任意文脈での不変要素は、我々が新しい文脈に出会い、そこでの存在

者を探求し、接触する際に有力な手助けとなる。新しい文脈において新

しい存在者を全く新しい枠で捉えなおす事は多大な時間と手間がかかる。

その存在者の働きや性質の予測、その存在者を含むより大きな文脈での

世界の探求はもっと困難である。そこで既存の不変要素のシステムと新

しい存在者の相互作用・連関を通じて、新しい文脈と存在者に関する知

見を深めることができる。

 

 この相互作用の状況をどのように示すか。既存の不変要素システムそ

れ自身は外延的なシステムである。それゆえ新しい文脈とそこに現れる

存在者が既存システムと同等の外延的存在であれば、内容的に新しいも

のが加わり得るのみで状況の記述そのものに原理的な問題点はない。既

存の不変要素システムの記述方法をそのまま使用すれば、新しい状況を

記述できる。

 そうでない場合、我々は状況を既存システムに合致するように切り詰

めるか、相互作用の状況をより大きく取り込むために、既存の外延的存

在システムとその意味合いを変更し、外延性によって捉えられるものを

拡張するのである。前者はいわゆる「近似」の基本的な意味合いである。

近似は数値の近似のみではなく、対象システムと記述システムの存在論

的性格のズレという意味をもつのである。後者は理論の解釈の変更や全

く新しい基礎概念の導入につながる。個体中心の力学理論から場の理論

への転換などは後者の例と考えてよいだろう。

 理論の大きな変革は外延的記述システムの変更を伴う。その際、以前

の不変要素のシステムは新しいシステムの部分として生き残る。もちろ

ん元々の意味合いではなく新しいシステムで与えられた意味付けによっ

て解釈される。場合によっては旧いシステムは新しいシステムの近似に

なっていることもある。相対論とニュートン力学がこの関係にある。相

対論からみればニュートン力学は光速度を無限大とした極限である。し

かし、ニュートン力学の内部だけからは相対論の発想はでてこない。基

礎となる概念の捉え方が全く異なるからである。にもかかわらず両理論

の数量的、外延的な側面は近しい関係にある。

 外延的記述システムのもうひとつの特徴は、公共性を確保することが

できる、という点である。我々が理論を介して現象に向き合うというこ

とは、現象と我々の相互作用が理論の適用と理解という形で成立してい

る、と考えることが出来る。この相互作用が不変的であれば、ひとつの

現象に関する我々の間での合意がなされやすい。理解は必ずしも外延的

ではないが、理論の応用、モノを作成するなどの外延的操作に関する安

定性に関しては常に同一の結果が出ることが期待される。この意味で自

然科学での手続き的な検証や操作性が理論の客観性として重視されるこ

とが読み取れる。

 このため、外延的な不変要素の外延的な記述システムは我々が常に新

たな状況・文脈と出会うという我々の生の条件、いいかえれば我々は時

間の中に生きていると云う条件の中で、我々が公共的な形で世界と関わ

っていく際に有効な手立てを与えてくれるのである。

 

 クオリアについて語ろうとするとき、我々はどうするべきだろうか。

 クオリアは数量化可能な概念の対極に位置し、そのため外延的表現を

受け付けにくいように思える。クオリアに随伴する脳内現象を科学的に

追跡することは当然可能だが、この方法でクオリアそのもの、クオリア

のもつ機能、クオリア間の関係などについて十分に語り得るかは不明で

ある。ではクオリアは自然科学との接点をもたず、人文諸学によってし

か解明されないのだろうか。

 外延的記述は不変要素を利用することに利点の根源があるが、「完全

な不変性=完全な自立性」が常に必要とされるのだろうか。存在論的な

要求としては完全性が要求されるかもしれない。しかし、先ほど挙げた

理解の例では、理解そのものが完全に外延的とは云えない。仮に存在者

の側が完全な自立性をもち、完全な不変性としての外延性を介して表現

可能であるとしても、我々自身はそれを外延的な形では完全には理解で

きないかもしれないのである。外延的な記述であっても我々はそれをあ

る範囲内での不変性と考えている。外延的な操作や構造の一致以上のこ

とについて、我々は外延的に記述された事態について理解し、それを利

用している。様々な状況下で「不変要素ならば存在者」を満たす外延的

な存在者と相互作用する、しかしそれ自身は必ずしも「外延的」でない

かもしれない「存在者」を捉えている。より正確に云えば、我々がまだ

十分には定義していない意味での(それゆえより自然な形に近い?)「存

在者」の必ずしも「外延的」ではない側面を「外延的」な側面の働きを

通じて捉えている、ということである。外延的な理論の理解、イメージ

などはこのような利用法の典型と考えられる。そしてクオリアもまさに

このような意味で、存在者の「ある側面」と我々の関わりのうちに現れ

てくるのである。

 この情況は「状況」の特定に依存している。我々自身が存在者として

既に知っているクオリアについて、我々が現に置かれている「状況」の

内部で考える限り、我々はそれをよく「知っている」。我々と個々のク

オリアとの関係、我々を介してのクオリア間の関係なら既に「知ってい

る」のである。しかし、この「知り方」はそのときの「状況」に依存し

ており、状況は対象化されておらず、むしろ「知」の「背景」として不

可視の形で事態を律している。私が知っているクオリアに関する現象は、

私限りの状況に依存した現象かもしれない。私自身についても明日状況

がどう変わるかでクオリアとの関わりがどう変わるかを知ってはいない。

ましてや他人との共通のクオリアとの関わりや人間的理性を必ずしも前

提としない状況でのクオリアの在り方などは「知ってはいない」。時間

の中で生きる我々が時間の中で、ダイナミックな形でクオリアに向き合

うためには、現に我々がその中にいる状況の中にそのまま留まっている

ことは出来ない。我々は「状況」、むしろその働き方を考慮して「背景」

と呼ぶほうがよいと思われるが、その「背景」を記述する方法を考えな

くてはならない。背景もはじめから対象化して外延的記述の世界に取り

入れてしまう、これも一つの戦略ではある。しかし我々の理解という戦

略遂行の足元となる作用が必ずしも外延的ではない。完全な外延化戦略

は例えば人間と同じようにクオリアを感じる(と思われる)ロボットを

実際に作ることによって、さらにはそのロボットと知識・概念形成レベ

ルでの情報処理段階における直接的な情報交換をなすことによって可能

となるかもしれない。ただしそのときの我々の「理解」自体が今の理解

とは心理的にも物理的にも全く異なるものとなってしまうかもしれない。

 我々の現在の「理解」をそれほど急激に変化させず、しかも「背景」

を背景として記述

する。そのためにはある程度の近似と今までの不変要素に強く依存した

存在概念に変更を加えなくてはならないだろう。また外延的理解、むし

ろ理解の外延化を図るために、操作や計算についての研究を進めねばな

らない。また現に我々がクオリアと接している状況をより豊かな、より

多くの「存在」の側面と関わらせるために「感性」や「感情」の涵養に

つとめることも重要であろう。(どの方向かはわからないが)「背景」

を考慮した存在論と現象記述・理解の方法論。これがクオリアをダイナ

ミックな存在者として捉えるために必要な第一歩であると確信する。

 

●塩谷賢さんは、読者の皆様からの御意見、御感想を歓迎します。

「プロフィール」の中の、電子メイルアドレスまでどうぞ。

 

(「脳科学ニュース」は増刊号はお休みです)

 

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○電子メールマガジン「クオリア・ミステリー」1999/02/15

発行者:茂木健一郎  kenmogi@qualia-manifesto.com

http://www.qualia-manifesto.com/qualia-mystery.html

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