=== Qualia Mystery Remix==================================
クオリア・ミステリー・Remix
(1999/05/15)
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クオリアとは、「赤い色の感じ」のように、私たちの感覚を構成する
ユニークな質感を指します。
クオリア・ミステリーは、科学的アプローチを基礎に、様々な側面
から心と脳の関係について考える未来感覚マガジンです。
このメールマガジンは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』を
利用して発行しています。( http://www.mag2.com/ )
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[Qualia Mystery Remix] by Hiro Hamada
Contents
・発行者から
・「ぼくにはわからない」 Remixed by Hiro浜田
●発行者から
今回は、浜田浩さんがReMixします。
<Hiro浜田(浜田浩)>
いつのまにか、三十五歳。
気象台にて情報処理関連の業務に従事。
めーる hiro9619@bc.mbn.or.jp
URL http://plaza23.mbn.or.jp/~hiro4/index.html
● 「ぼくにはわからない」
ぼくにはわからないことだらけだ。
死って何? つめをきる。ぼくは死んだ? もちろん、生きてる。
事故で片腕を切断した。ぼくは死んだ? いや、いのちに別状はない。
・・・そんなふうに肉体をどんどん喪ってゆくとき、ぼくはいったい
どの時点で死ぬことになるのだろう? ぼくにはわからない。
たとえば自己意識。ぼくはいつから、いわゆる自我に目覚めたのだろう。
三歳のとき? 二歳? 一? 零? 羊水にうかんでいた、あのころ?
まさか精子と卵子のとき既に・・・そんなわけないと思うのだけれど、
やっぱりわからない。
たとえば身体。ぼくは毎日何かを食べる。食べる前の物質は、
もちろんぼくの一部じゃない。食べた後の物質は、既にぼくの一部だ。
うんこもそう。どこまでがうんこで、どこまでがそうじゃない?
いま吸おうとしてる空気、さっき吐き出した二酸化炭素。
・・・あれ? いつのまにかぼくは時間を点として捉えてしまっている。
サクサクのcrispな時間。だってそうしなきゃ線引きできないじゃない?
なるほど、目的のために時は止まり、瞬間となる。恐るべき倒錯。
***
なぜ、ぼくはぼくであって、君ではない?
なぜ、ばくはここに居て、そこに居ない? ***
このぼく、かけがえのない「このぼく」は、ほんとうに脳って
ところにやどっているの? たとえば全脳を移植したとして、
「このぼく」もいっしょに移る? ひょっとして、それだけで
「このぼく」は消滅してしまったりしない?
全脳主義とも云うべき現代人の信仰。かつて、心臓にこそ
心・霊・魂は宿ると思われていた。心臓無くして生きてはゆけぬ
という理由で。今、「このぼく」は脳に居ると云われてる。
脳が無ければ「このぼく」も存在しえないという理由で。
これまで、あまりにも(脳以外の)身体を軽視して来なかった?
たとえば日本には「腹づもり」などの慣用句がたくさんあった。
あいつは腹黒い、とか、胸の内に仕舞っておく、とか。
近頃だと、女は子宮で考える、とも。まてよ、これってセクハラ・・・
たとえば大切にしていた人形にはその人の心が残る、と。
いわゆるアミニズム。ものに宿る持ち主のこころ。
一草一木すべてにつながっているという感じ。
そんなの原始的な神秘思想にすぎない?
*** かりに「このぼく」は、脳に宿っているとしよう。
じゃあ、「このぼく」って、いったい何処に居るのだろう。
何処で成立しているのだろう。大脳皮質? 視床下部?
デカルトは松果腺だと云ってた・・・
でも、なんか変だ。これって間違った問いではないのか。
カテゴリー錯誤? それとも、定義エラー?
そもそも「このぼく」って、それ以上は分割不可能な
atomやmonadのようなものなの? とてもそんなふうには
思えないな。だって、たいていぼくはボーっとしているし、何より
ときとしてぼくはぼくを見失う。まあ、しょっちゅうじゃないけれど。
はじめに自己があって他者を認知するのではなく、
始原に他者の存在があり、その欲望の視線の先に、つまり、
その視線の総体が自己という像を結ぶのだと、精神分析学は云う。
であれば、ひとが、易々と感情移入したり、他人の痛みを
「感じ」たり、なかには自分の内に複数の人格を持ったりしても、
別に、哲学的なアポリアじゃないような気がしてくる。
まあ多重人格を例に挙げるのは極端すぎるかもしれないけれど。
自己と他者の厳密な境界は存在しない。境界線は画定できない。
にもかかわらず、ときとして《どうしようもなくぼくはぼくなんだ》。
そして、これらは別に矛盾しないんじゃないか。たとえば、
雲のように。「生と死」がハッキリした境界を持たないように。
*** 空を見上げる。真っ青の空に、ぽっかりうかんだ白い雲ひとつ。
でも、その雲に近づけば近づくほど、空との境界はぼんやり薄れ、
やがて消える。・・・区別すること自体が誤りなのか。梵我一如?
*** わかるの語源は分ける。でも、きっちり分けられなくて、
「ぼんやり」とか「徐々に」などという。便利な言葉たち。
ファジィ、ありのまま、無為自然・・・いろいろと重宝だ。
分けられなければ、わからない。別にわからなくてもいい?
(分けすぎて、わからなくなったことが世の中にはたくさんある)
わかるとは、分節化であり、ゆえにわかち難く言語と共にある。
創世記。第一章。初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が
水の面を動いていた。神は言われた。・・・
ヨハネによる福音書。第一章。初めに言があった。
言は神と共にあった。言は神であった。・・・
流動する差異の海に対し、ラベルを貼ることによって
安定させんとする、まさに封印。自己と他者。生と死。内と外。
しかしそのことによって原初あった何かがうしなわれ、
ひからびた言葉だけが残る。
そしてまた詩の言葉だけが、その封印を解くことが出来る。
ほんのわずかのあいだだけ、だけど。
言葉の二面性。諸刃の剣。語り得ぬものを語ることの。
語りは騙り。 ***
アメリカでは、死後すぐの肉体を冷凍保存する人たちが居る。
医療の発達した未来での「目覚め」を信じて。
さて、すべての細胞が無事に解凍されたとして、はたして、
「このぼく」は、ちゃんと繋がっているんだろうか。だって、
たとえ「全脳主義」が正しかったのだとしても、いちど一切の
ニューロンが停止状態を潜りぬけたあとなんだよ。
単に、眠ってたのとはわけが違うように思うんだけどな。
イメージとしては、リセットされたパソコンって感じ?
「このぼく」は、リセットされる側に居るような気がする・・・
これはもう、やってみるしかないな。単純なことだ。もし
「このぼく」が繋がってなければ・・・おや?
これって「死後の世界が実在するかどうかは、実際に死んで
みればわかることだ」ってゆうのと、おなじ構造みたいだ。
*** ぼくがぼくであること。このぼく=魂。
脳を含む全身体をコピーした場合、ふたつの肉体に
ひとつの魂がやどっている、といえるのではないか。
そこではもはや数詞さえ意味を喪いかけ・・・ <致命的エラー発生:未定義語{魂}ガ検出サレマシタ
処理ヲ終了シマス>
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○電子MG Qualia Mystery Remix 1999/05/15
発行者:茂木健一郎 (脳科学者)
kenmogi@qualia-manifesto.com
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