内在と作用----[ Qualia Mystery #7]「マッハの原理」について
by 塩谷賢 saltcat@bc4.so-net.ne.jp
<はじめに>
#7で述べられていることを簡単に要約すれば、クオリアの質感について、その出所は脳内のニューロンの発火の相互作用にのみよる、ということになるだろう。
ここで考えたいことは、クオリアの質感(それをクオリアというのだろう)、それを感じるということと、それが存在するということの関係である。
茂木は#7で「わたしの心の中の「薔薇の赤」や「フルートの音」や「キャラメルの味」といったクオリアは、因果的には外界の事物からの物理的刺激によって生じています。しかし、クオリアの質感そのものの本質は、外界の事物との対応関係にあるのではなく、わたしの脳の中のニューロンの活動にあります。」と述べている。
ここでは「因果的にある(生ずる)」、ということと「質感の本質(を捉える)」という二つの作用の対比がなされている。前者は脳科学の進展により、非常に詳しく組織化された知識の体系を築きつつある。後者は文学や心理学なかんずく精神分析といった分野で探求されてきた。両者の関係がどのようなものであるかは科学・哲学の最難問である。
茂木の戦略は「ニューロンの発火」という物理現象を脳の活動を探求する際の存在の基盤として確保し、その上に展開する現象の意味付け、現象の自己解釈の生成を「クオリア」をはじめとする精神活動を鍵にして見出す、というものと考えられる。この戦略はきわめて有効であり、実践的な導きをもたらすであろう。もっとも有効な点は「存在する」次元と「本質を捉える」次元を実践的に分離していること、本質を存在に依存させる立場をとることである。これは科学者の立場としてしごく妥当であり、その限りで私は全面的に賛成する。この戦略の具体的な展開と成果は、脳科学の発展として評価されるべきものである。
この新しい戦略の基づく科学のありうべき発展に関して哲学はいかなる寄与が出来るか?私はあえて哲学者としての私の世界観からこの戦略について語りたい。その基本的な方向は、この戦略の実践面ではなく、哲学的含意と可能性、世界理解に関する存在論的解釈に関して、この戦略の更なる先を考えることと思う。前もって言っておくが、この哲学的枠組みは実際の脳科学の進展、その結果に対するいかなる制約も与えるべきではない。むしろ科学内部での相互連関による制約以外からは完全に自由である科学の成果を踏まえて、人間である我々が(ある種の理解と眺望の下に)次なる科学的実践に向かおうとする際に科学的成果のもつ、この自由・オープン性からどの方向を進もうとするか、に際しての向き付け、動機付けに何らかのインパクト、できうればより広い、より深いオープンネスへ向かうインパクトを与えられれば十分と考えている。
「マッハの原理」は、茂木の定式を利用すれば、「ある「個物」の性質は、その「個物」と他の「個物」の間の関係によって決まる」のであるが、そこには「関係、性質」と「個物」の二つの要素が含まれている。マッハ本人の正確な思想がいかなるモノであったかは、諸般の研究書にまかせるとして、ここではi)マッハの原理のもつ作用内在主義(これは私の用語)、ii) 個物であることは関係によって定まる性質か、とiii) 個物の確保、の3点について考えてみたい。
i)作用内在主義
マッハの原理が関係論的であるといわれるのは、個物の性質が他の個物への関係、様々な働きかけによって定まるということである。マッハの原理に対立する立場では通常、個物はそれ自身として存在し、その自足的な存在に内在する本性に基づいて可能な関係を他の個物と結ぶことが出来る、と考えられている。すべての現象の本体は個物の中に既に内蔵されており、現実に存在する関係はあらかじめ定められた筋書きに則って展開する。いわば「可能性の個物への局在論」である。であるから個物はどのような環境、文脈においてもその本性を伝える可能性を持つ。個物のパートナーはこの意味で任意である。ニュートン力学の仮定する絶対空間との兼ね合いによる運動量はこの限りで存在論的に確保される。我々が実際にそれをどのように測定するかは認識論的問題であり、存在論的には何の問題も引き起こさない、と考えられる。
この際に疑問となるのは、認識論的手段から完全に切り離された存在論的対象、諸関係の身分である。このような(認識論から切り離されたという意味で)完全に純粋な存在論的要素の妥当性は何であるのか。
ひとつの考えは、実際に世界はある通りにあり、我々が存在論的仮定を置くとき、それは世界の実相との比較で妥当性を得る、という考えである。直感的にまともといえばまともな考えだが、議論の前提である「完全に純粋な存在論的要素」ということから我々は決してその妥当性に触れることは出来ない。実際に何が妥当かを支持する手立てが全くないのである。
別の考え方は存在論自体が壮大なモデルであり、モデルの説明能力が高いことを目標とするという考え方である。これは大筋ではうなづけるが、モデルの説明能力ということで何を言っているのかによって実態が大きく変わる。説明されるべき現象として何をとりだすか、それらがどの程度まで説明されるべきなのか。モデルの個物と説明される現象の個物の同定基準をどのようにするべきか。将来に生じて説明を期待されるであろう現象の可能性に対してどのように扱うのか。問題はまだまだ尽きない。これらすべてが明白になった上で、最適説明を与えるモデルを採用し、その公理や前提が存在論的仮定である、ということは一理ある。しかし、実際にはこれらの説明に関する条件は決して解明され尽くしているわけではなく、むしろ混沌としている。我々は自分が関心のある範囲の現象を実際的な条件が許す限りで観察・記述している。何を個物とすべきかさえ状況と文脈で異なっている。(より細かいものへという古代からの探求の方向は個物の安定性を求めるものと考えられる。)説明の程度もその場での利用関心に関わる場合、別の探求も視野に入れたより包括的な説明をする場合、すべての場合に妥当する安定した説明を欲する場合、など様々である。またこれらの課題が満足されたとしても、もうひとつの困難がある。もし、説明能力が同等で共存が不可能な二つのモデルがあったら、我々はどちらを採用するのか、という問いである。世界は二つ存在するというのであろうか、それとも重ね合わせの原理が存在論の根本まで入りこんでいるだろうか。そうだとしても重ね合わせの重み付けをいることは出来ない、云々。
実のところ、具体的なモデル対が提出されない状況でこのような問いを立てるのはいささか気恥ずかしい。そんなことは実際には起こらないかもしれない。すべてはうまく行くかもしれない。それにもかかわらず、前もって危険な状況を具体的な内実も与えずに論ずることに何の意味があるのか。問題になっている内容の論理的整合性、意味論的含意を問いただすという企てをそもそも行う必要があるのかという疑義を呈するこのような反論はきわめてまともに思える。
この反論の持つ「まともさ」は、我々の科学的実践とその成果の実際の構造、パターンに忠実であるべし、という至極当然の忠言に基づくものと思える。この人間による実践とその歴史という面に着目して議論の筋を展開させれば、科学を人間の営みとして考察する科学社会学に行きつくだろう。科学はすべて人間の営みとして築かれ、その進行のパターンも人間社会の諸関心と無縁ではない。科学社会学が科学の評価という性格をもって登場したのも故無しとはしない。しかしここでは同じ忠言からもっと素朴に、科学の対象である自然への従順さ、自然の営みへの尊敬という方向で考えたい。科学はその対象を持つ。科学は人間の営みであるとともに自然が見せる自然の姿の一部の現われでもある。内容という側面から見れば科学は自然の断面図であり、断面図作成作業としては人間と自然の共同作業であり、全体としても再び自然の一部である。ただ、はじめと終わりの自然の一部である在り方が内容的に直に同一かどうかは即断しかねる。
この忠言に従うことは、科学がダイナミックな営みであることを重視せよ、ということであろう。これは人間による科学的営みのみならず自然の一断面としての科学自身がダイナミックな性格を持つということと考えたい。このこと自体が相当な議論を必要とするが、これから先の最適モデルの議論に対して言えることは、最適モデルは常に暫定的なものとして捉えられる、ということである。最適性は自然が提供する現象とそれを一連の科学的営みと結果の構造・パターンへ結びつける際の有効な示唆である。最適の評価は科学の進行そのもの、人間の営みという側面だけでなく、自然が自らを示す際のダイナミックスとしての進行を示唆する評価と考えられる。それゆえ最適モデルは常に発展途上である。結果としてひとつのモデルが長続きしても、それは本質的に暫定的なものであり、我々の認識と科学的実践が進むにつれて改変される可能性を常に持つものである。また最適モデルの改変は科学そのものの持つダイナミックスに順ずるものであることが望ましい。
この意味では「完全に純粋な存在論的要素」という議論の前提自身が無意味なものとして退けられる。そもそも科学は認識論的要素をその存在論の一部として含まざるを得ない。ただ、種々のモデルが直に認識論的要素を基礎とする組み合わせによって構成される必要はない。何らかの形で認識の進行が反映または吸収される構造を持っていることが重要なのである。
この認識の反映がどこに置かれるかがとても重要な点である。反マッハ原理の立場はいまや「ダイナミックに移り変わる存在論的仮定を持つ最適モデルのシリーズ」として考えられる。認識の進行の反映はモデルのシリーズを構成する原理、モデルの歴史の中に反映される。さて、それは最適モデルで語れるのだろうか?語り得るとしてその最適モデルのシリーズの構成についてはどうなるのだろうか?
マッハ原理はこの点を「ある「個物」の性質は、その「個物」と他の「個物」の間の関係によって決まる」という一般的な主張として述べようとしていると考えられる。ある個物の性質は最適モデルにおける存在論的前提を含むものと考えられる。その性質は他の個物との関係、つまりモデルによって表現される現象、関係によって与えられる。他の個物との関係のどの部分に我々が着目するかによって性質のどの部分がはっきりと示されるかも変わってくる。なによりも我々自身の営みである自然科学が個物間の関係からなり、自然科学によって知られる個物の性質はこの関係によって決まる(特定できる)ことは見やすい。この「何よりも、、、関係からなり」の部分が個物関係の中に自己記述の能力を含みこませるトリックである。これは裏返せば、科学的営み自身が科学の対象に常になり得る、科学は現象という回路を通じて自己適用が可能である、ということを意味する。
本来のマッハの議論はこのようなものではなかったかもしれない。むしろ、世界は物理的因果関係によって結ばれ、それによって十全に機能している。この因果関係から離れた絶対空間の設定は余剰分でしかない。充足理由律からそんなものはない、といった簡単な議論もニュートン力学との対比という問題設定においては可能である。本稿では、科学の方法論を巻き込んだ形で私なりの議論を提示してみた。
どっちの場合にせよ、ポイントとなるのは、個物やその性質について語る/関わる作用が問題領域の中で働く作用およびそれに従属する作用であることである。状況を描写記述する、パターンを取り出すことは、その状況を構成している作用からなる構造的な作用によるという問題状況の中から状況を描く(本質を抽出するという言い方もある)「内在的立場」をとっているといえる。この自己言及的性格を通じてマッハ原理はある意味での最適モデルのダイナミックな自己正当化を勝ち得ていることになる。
科学的なクオリアの分析は我々の精神現象を我々が感じるさまを説明できるようなモデルを構成することと考えられるが、そのモデル構成を行う行為そのものが、クオリアの分析がなされる対象領域と重なり合っている。典型的なクオリアである知覚に伴う質感や強度と科学的営みを運営する理性的推理能力は我々の実践においては格段の開きがあることは確かである。この区分は必ずしも故無しとはいえない。自然科学と人文科学を対象領域の差として区別する立場はこの区分を前提としている。この区分のよって考えられる作用領域の差異とそこでの特徴が我々の通常の精神作用内部での実際の差異を際立たせてくれること、各領域での精神作用のより緻密な分析を実践的に可能にしてくれていることはこれら自然、人文諸科学の成果からみてとることができる。しかしこの両者を区分するのは、我々、分析されるべき精神現象の側の働きによる区分であり、分析の手法としていかなる方法論を採用するか以前の前提となることが多い。この区分の位置付けは探求される対象そのものの構造に依存することになる。この場合、大きく分けて2種類の可能性がある。
一方は前提的区分の手法とそれに基づいて展開される分析の手法が重なり合う形になっており、分析が内在的立場をとる場合である。現象学や日常言語学派などをはじめとする哲学的な精神作用の研究、言語分析を中核モデルとする精神分析など一般に人文系と考えられている精神現象の探求の多くはこの類型に属する。この立場の利点は、分析の前提をダイナミックな実践構造によって支えることが出来る点である。また、それに伴い自らの理論の意味付けを内在的に得ることが出来る。一方で、分析に使用される作用の分析そのものが、前提を形成する判断である理性的推理能力に依存する形で定式化されやすく、あらかじめ精神現象の領域を区切るという暫定的な取り扱いをそれ自体として存する区分であるかのごとくに扱ってしまいかねない危険性がある。このような存在論的コミットメントをなさない場合でも、精神現象自身が世界の一部であり、他の現象とどのように繋がっているか、他の領域の諸作用がこの領域での基礎的要素にどのような影響を与えているかについて、無関心になりやすい。その意味ではマッハ原理によるダイナミックな自己正当化が、部分化という原理の適用の前提の下でなされているといえる。
もうひとつの可能性は、前提的区分の手法と分析の手法が切り離される場合である。通常は分析手法としてはいわゆる科学的手法、外延的表示と操作性に重点をおいた手法が採用されている。脳科学をはじめとする従来の自然科学的アプローチ、力学的モデルを中核とする精神分析などはこのグループに分類可能である。この立場の利点は、外延的表示を使用することにより、様々な作用を分析の対象として同時に検討できる。それらの間の関係も取り出すことが可能である。しかし、作用の「一」性、つまり働きかけのユニットとしての作用を取り出すことは、理性的推理力や理論の理解といった前提的区分の中に取り込まれている作用に依存していることが多く、それらは正当化を保留されたままである。外延表示される作用構造に対して作用としての「一」性を設定しないのであれば、外延表示のもっとも細かい物をユニットとして考えることになる。例えば髪の毛の「一」性は、髪の毛の用途や形状、新陳代謝における安定性といった様々な作用要素間の関係とそれを認知する理性的推理力・理論の理解に関わっている。(理性が決定するわけではないが。)もし髪の毛の「一」性を設定しないのであれば、それは外延表示により原子集団、素粒子場の励起状態の変遷としてしか記述できず、その表示そのものだけから「一本の髪の毛とその働き」という一般的な(個々の髪の毛ではない)特性を取り出すことはまず出来ない。
このことは、何を作用のなす体系をどのような意味合いの構造として受け取るかが、作用の「一」性を設定に関わっており、この立場での対応ではこの作業、つまり意味の設定が前提の中に含まれたままであることを示している。
このことからマッハ原理によるダイナミックな自己正当化は自ら意味を生み出す、と標語的に言うことができるだろう。ただし、先に触れたように現実の人文科学的アプローチは意味の展開範囲の限定に任意性があり、その根拠がはっきりしていないという問題がある。
茂木がマッハ原理を採用する仕方は、両者の困難を避ける道といえよう。基本的にはマッハ原理によるダイナミックな自己正当化を勝ち得つつ、その前提となる作用の区分はニューロンの発火という脳科学における外延表示が可能な範囲でしか行わない。それにより探求すべき機能の安易な部分化とそれに基づく性格付けを避けるものである、と考えることが出来る。マッハ原理による自己正当化が意味を生み出すことによって正当化されるものの理解が含まれ、理解している状況自体が理解されるメカニズムを生み出すことになる。
茂木が
「わたしの心の中の全ての表象がニューロンの発火によって生じるものである以上、外界の事物との対応関係をそこに持ち込むことは本質的な解決にならないのです。」
というとき、それは正当化を保留された作用ユニットの採用を避けるということであり、「わたしの心にとっての全世界はわたしの脳の中のニューロンの活動であり、」
というとき、それ以外の前提的機能区分を持ちこまないことを示している。
しかし、ここで
「いわば、あなたにとって脳は全世界(ミクロコズモス)であり、広大な外界(マクロコズモス)は、因果的作用を通してあなたの心の中に様々な表象を生じさせるきっかけに過ぎないのです。」
といわれている外界、因果がなんであるのかが解明されていない。
またマッハ本人の場合には外延的にはもっとも細かい分節が可能と思われる物理的作用が問題だったのに、茂木の場合に問題になる精神作用は必ずしもそうではない。このあたりの事情を次のii) 個物であることは関係によって定まる性質か、という観点から見てみたい。
ii) 個物であることは関係によって定まる性質か?
茂木によるマッハ原理の定式化でも「個物」の性質についてのテーゼであり、個物そのものについては何事も述べられていない。それでは次のように問うてみよう。「個物である」ということは個物の性質なのだろうか?
そもそも「個物である」ということがいかなることかがはっきりしているんだろうか?
個物は、通常は他との区別と自存という2点にポイントが置かれて議論されるように思われる。
まず区別というポイントについて考えよう。例えばビス一本はねじ止めをするという役割を果たせばどれでもかまわない。ビスの本質たる働きは「このビス」が個物であることとは関わりがない。「どれかの」ビス、区別がつくビスであればよいのである。他のいかなるモノとも代替出来ない何か、として個物性を捉えようとするとき、他のモノの範囲が問題である。100本のビスを使う模型で100本のビスしか用意してないときには一本一本が代替出来ない。またあるタイプのビスが生産中止になっているときには、そのタイプのビスは取替えがきかない。このような場合にビスの働きの本質に「このビスの個物性」が関わるのだろうか?私にはそうは思えない。これらの条件下でもビスは原理的に代替可能な形でしかその本質を充足しない。ただ、現実という考慮の範囲、ビスの選択という意味付けの範囲の中に代替を可能とする状況がない、ということに過ぎない。では、どのようなときに個物性が意味を持つのだろうか?
ひとつの可能な解答は「すべてのあり得る可能性において他のモノから区別される」ということであろう。絶対的な意味で他のすべてのモノからの区別によって個物が確定すると考えるのである。この考えによれば「個物である」ことは関係によって定まり、マッハ原理の典型的な適用例となる。(むしろマッハの原理を逆用して、「個物である」ことは個物の性質である、ということが出来る。)
次に自存という点を見てみよう。個物という論点は、存在論的に「アル!」という端的な言回しが可能であるかという問題と関わっている。「とにかくコノモノ」、いかなる意味でも他のモノとは異なるコノモノの独特さといった意味合いが個物にはあるように思われている。そのため同じ個物は2つ以上はありえないと考えられている。ある個物が他の個物で代替可能なのはその個物の独特さ、ある意味でのその個物であることの本質に関わらない役割や機能の代替に関してだけである。ではその個物の本質とはというとまさに「端的にソノモノデアル」としか言いようがない。異なる個物の間の独特さに共通性を考えることは個々の個物の性格ではない。個々の個物は他の何物とも関わらずそれ自身によってその独特さを支えている。これは存在を独立自存、それ自身によって支えられていること、とした伝統的な存在論と繋がる論点である。この場合、特定の「コノ個物である」ことは他の個物との関係で定まらずそれ自身にのみに関わるため、マッハ原理の適用できる「性質」ではないことになる。
ちょっとした細かいことを言っておくと、一般的な「個物である」ということはすぐ上の「コノ個物である」とは違う。これは個物概念について語ることだからである。自存の方から言えば一般的な「個物である」は「他の個物とは無関係である」という無関係の関係性によってマッハ原理に従う。
この議論は議論対象のレベルを取り違えている。それについての詳細は省略するが、面白いのは区別の方から考えると「コノ個物である」と一般的な「個物である」の違いがあからさまに論点にならない、ということである。
区別と自存の二つの典型的な見方は個物についてまったく正反対の意見を持つように思える。我々は「個物である」ことをどのように考えたらいいのであろうか?
この問題は、考察している対象(ここでは個物)が関わる領域がオープンか否か、存在ということがどのような場で言われ得るかということに密接に関わっている。区別の場合の「すべてのあり得る可能性において」ということと、自存の場合の「他の何物とも関わらず」ということがこの論点に関係する。
区別の場合、すべてのあり得る可能性を完全に枚挙し尽くすことが想定される。この可能性に時間的なもの、未来の可能性もすべて含まれるとすればこれらの可能性から個物は完全に決定できるはずである。ある個物との区別が一切つかない個物はそれ自身しかない。あらゆる可能性が尽くされているので、二つの区別がつかない個物ということは論理的に矛盾しているからである。このやり方では個物は関係の永遠の相の下に捉えられ、アルということの意味が関係の展開し得る全空間を参照することによって完結する形で与えられる。
自存の場合、自存するコノ個物は、いかなる状況、文脈においてもその個物たる独特さを失わない。どのような関係性、今眼前にない関係性に対しても自らの個的本質を保ちつづける。新たに生成される可能性では自分と区別がつかない個物が現れようとも、コノ個物デアルコトは決して侵害されずにコノ個物のみに妥当することになる。個物は完全に流動可能な、全くダイナミックな可能性の空間の中で決して壊れない石のように多くの関係の渦の中を漂っていくのである。
この様に見ると、可能性、オープンネスに対して、区別はオープンネスを囲い込みすべてを律する最も広い可能性の空間を想定する。個物が存在する(存在し得る)全範囲を予め囲ってしまい、オープンネスはシステム中の部分的な現象となる。個物における可能性はすべて最広義の可能性空間に登録済みであり、最広義の可能性空間では可能性と現実性の区別は消滅するか、現実性のすべてが可能性の一部に過ぎないものになる。個物が(正しく)与えられるということは個物間の(正しい)関係・システムのすべてが個物を与えられる形に関連付けられて存在することを含んでいる。そのため個物間の関係を単独で取り出しても、それが正しい個物の関係として取り出されていれば、その関係の正しさ、他の関係との共存も自動的に保証される。通常の意味でのオープンネスはすべてを記述できる最広義の可能性空間内では消滅してしまう。オープンネスは何かの省略や無知としてしか現れない。しかしこの無知や個物の正しさをどう考えるかははっきりしない。
一方、自存はオープンネスを個物毎に引き受ける。個物間の関係の可能性の他にその個物におけるオープンネス、その個物のコレデアルコトを介して全く他の個物とは関連のない可能性を有することが出来る。個物は個物毎に未定の可能性を引き受け、状態としての可能性は常に個物を通じて破られる可能性を秘めている。が、その構造は決して状態に反映することはない。そのためある個物によって開かれた新たな可能性の空間において従来の個物間の関係が保持されつづけるか否かの保証はない。
どちらの場合も個物は既知の現実である関係性・システムと新たに生じる可能性の空間の関係を繋ぐキーとして働いている。これは個物の性質に関してマッハ原理を取る限り、個物の具体的性質が個物の置かれた環境にかかわらず個物に本質的に属し、それによって関係の方が成立するということがないのであるから、個物ソノモノよりも個物を通して表現されている関係性が他の関係性とどのように関連するか、相互の影響はいかなるものかが重要であると思われる。すると「個物である」ということは関係の現実性と可能性の接点であり、関係間の関係性・ダイナミックスをどのように表現するかというより一般的な課題の一つの例と考えられる。
区別はこのような関係の関係性全体を念頭において、関係を共存させるシステムとして個物を設定する。この意味で区別は関係に対する2階のマッハ原理と考えても良い。しかし、関係の関係性すべてを想定するというのはあまりにも強い設定ではなかろうか?それは結局、関係性のダイナミックスを消去し、一種の静止的な全体論を取るということになりかねない。
一方、自存は個物を通して新たな可能性が開けること、それまでに考慮された関係性が部分的なものでありうることを物語っている。このことから関係性の在り方がダイナミックであるというマッハ原理の我々の解釈に整合的である。しかし、個物の性質は一切既に展開されている関係性に基づくのであるから関係の新たな可能性を開くものとしての個物性は既存の関係からは全く作り上げることが出来ない。関係の関係性は関係のマッハ原理に従っていないように思われるのである。
どちらもうまくいっていない。その根には関係性ということで我々が何を考えているのかが実は良く分かってないのではないか、という疑いがある。関係性は一種のパターン、形相である。それはすべての具体事例に共通のものとしてひとつであるとイメージされる。しかし自然数について考えてみると1+1=2のなかに2つ出てくる1は何なのであろうか? どちら?の1も全く同じ1である。にもかかわらず2には1が2つある。2の中の1の位置ということは具体的な適用事例(りんごが2こなど)の意味はあるが純粋な数学理論としては数の位置というのはなんだか妙な気もする。しかし、実際には適用において(さらに言えば記述に使用する形式言語において)いつでも1の「位置」のような何かが入り込んで1+1=2が妥当するようになっているような気がする。Z2の世界ではこの入り込む何かが異なっていて1+1=0になるのである。
このように考えると純粋な関係性、具体例すべてに対して超越的な位置にある関係というものは理想化された極限であり、実際には関係性のある種の有効範囲と相関的にしか理解できないということになるだろう。私はこの有効範囲を関係の「背景」と呼んでいる。個物というのはこの「背景」を示す一つの装置と考えて良い。しかもその示し方は関係性に関する可能性と現実性(ひとつの関係性の中での可能性と現実性ではない)に密接に関わるものと考えて良いと思われる。
すると問題は背景のメカニズムである。この点に関して言えば、区別は唯一の背景=普遍背景を想定している。この背景においてすべての関係は比較考量され、絶対的な結合要素として個物が位置付けられるということになる。そのような普遍背景での関係は純粋な形相としての関係にほかならない。一方、自存は背景の関係を考察することを諦めているといえる。関係間のメカニズムから一切離れた形で背景が考えられるのである。
私はきっと中間の道があると思う。その鍵は関係性は必ず何らかの意味での広がり、抽象的な関係空間の上で考えられるということである。この関係の空間の構造と代数、形式の関係が背景のメカニズムに繋がるのではないかと思われる。個物はあくまでも我々における関係の現われ、もっといえば我々の理解の作用空間と考察対象となる諸関係の背景の相互結合の一表現である。それが人間の生存を超えて妥当するように思えるのは同時に何らかの操作性、形式性、関係性としての背景の接続の形を備えているからだと思われる。
この意味では「個物であること」は個物の性質ではない。むしろ「個物であること」という関係の間の関係、作用の間の作用によって「個物」が個物足り得るのである。では、背景はどのように考えたら良いのか?これはまだ最終的・一般的解答はない。そこで個物という派生的な形態での背景メカニズムの意味合いを考えることにしよう。これを手掛かりとして背景のメカニズムを開発することが今後の課題として残されている。
iii)個物の確保
作用の間の関係をどのように考察すれば良いのか。ここで我々が個物を認定する際、どんなことが起こっているかを考えてみよう。
通常、個物と見なされているものはイマ、ココにあるコノモノである。(イマについては時間の問題をふくむのでここでは詳述しない。) ココにあるコノモノは、まず目で見て例えば「湯呑」だと捉えられる。視覚像によって捉えられた湯呑は色、形、大きさ、材質の感じ、重量感、清潔感などの様々な特性をもつ。湯呑はまた様々な可能な行動、持ち上げたり、中のものを飲んだり、水を注いだり、ゴキブリを捕まえたり、憂さ晴らしに叩き割ったり、夫婦喧嘩で投げつけたりするなどのいろいろな行動に資する特質を持つ。これらの性質は人間が付加したものと見なせば湯呑の意味(志向的意味)と考えて良いし、湯呑自身が持つ性質という側面を強調すればアフォーダンスと考えられよう。ぱっと見た性質と可能な行動に資する特質は背反するものではなく、重なり合っているものもある。マッハ原理によればこれらの性質は他の個物との関係によって決まっているはずである。それが何かは結構難しい問題である。色などは識別に関わるだろうし、ゴキブリを捕まえるはさまざまな可能な行動という良く分からない次元での関係性が論じられねばならないだろう。
しかし、視覚像は多くの情報、性質を提供するが、通常、それだけで湯呑をイマ、ココにあるコノモノ=個物と確信するには足りない。個物の存在に確信が持てないときには、確かめる手段として普通は視覚は使わない。私はありありとした幻を見ているかもしれない。通常、湯呑の実在(!)を納得するのは湯呑に触れたり、持ち上げたり叩いたりして、重さや硬さ、熱さ冷たさをなどの抵抗感・私の自由にはならない感じを感じるときであろう。もちろん、視覚像も私の意志の自由にはならない。親分が「カラスは白い」と言ったときに黒く見えるカラスを白く見えるようにと思っても(白ペンキを塗らない限り?)白く見えるようになるわけではない。私の自由にならないことは視覚でも聴覚でもふんだんにあり得る。しかし、この自由にならなさに違いがある。
視覚像の個物性(実在性)が視覚だけでは必ずしも十分ではないことがあるのとは逆に、何か触覚的、特に運動感覚とそれに対する抵抗を感じたとき、何らかの対象の存在を疑うことはまずない。ただし、どのような個物が相手であるか、個物の範囲、全体像が分からないことは多い。その際には視覚(や聴覚)を使って個物の範囲を見て取ることはある。
このような違いは自由にならなさ、オープンネスの側の極との相互作用に関して、接触感覚にはコノモノに対する直接的な双方向性があることに関係するように思われる。湯呑を持ち上げようとすれば重さによる抵抗感とともに湯呑は持ちあがる。重過ぎて動かない場合には持ち上げようとした強さに応じて抵抗感を受ける。つまり身体(この場合には筋肉)の反応が湯呑と身体の相互作用の結果として感じられる。(意識的にはあくまで「湯呑の重さ」が感じられるのだが。)視覚や聴覚には対象と受容器官のこの直接的な相互作用性はない。触覚では私は触覚の中に入り込んで直接的相互作用を通じて外界へのオープンネスを感じている。それは一方的な受容ではなく、「(オープンの側にいるであろう)相手からの自由にならない影響」+「こちらからの働きかけに対する反応」の複雑な組み合わせに基づいている。この意味では触覚を利用する主体にとって、触角は主体自らがその相互作用の中に入り込んでいる内在的な作用として働いているといえる。
視覚でも視線や注視点の移動による見えの変化や恒常性も対象の実在性を支持することが出来る。これには位置、距離の統一性という視覚空間の実在性の承認という前提がある。正確には様々な対象の実在と相関的に視覚空間も実在性を承認されるのだろう。その際には身体的移動とか変形といったことが共同していることが重要である。視覚空間は個物の入れ物というよりも視覚空間全体が外界との接触点として個物性をもち、その中で他の感覚(特に触覚)との共同でさらに強い?オープンネスを持つモノ的個物が措定されるのではなかろうか。視覚空間全体の生成・維持が視覚主体を巻き込んだ、触覚と同じ意味の内在性をもつが、構造化によって措定される個々の対象に対する視覚は主体にとって直接的に内在的ではないといえるだろう。その際の構造化には光による情報伝達と物理的接触力のような何らかの作用の(質の?)差異が前提とされているように思える。主体はこの構造化に用いられる作用の差異の外部にあるかのように見える。
全くの受容では個物の個物たる範囲がわからない。つまり、どこまでが個物かが分からないのである。受容範囲全体が個物かもしれない。乳幼児のように単なる視覚像と実在の区別がついていないような場合などは個物・作用単位の構造化が十分に進展していないものと思われる。場合によっては個々の感覚作用では個物を個物単位として捉えきれないかもしれない。ヴァーチャルリアリティのように実際に感じている個物の作用単位をもっと細かな作用単位でシミュレートする場合には実際のオープンネスと共同で作り上げられる相互作用のオープンネス側の極としての相互作用単位としての個物がズレていたりする場合もある。
ポイントは相互作用の質的?な違いが何らかの意味で個物、オープンネスの認知に役に立っていることである。ここで触覚についてもう少し考えてみよう。触覚の媒体である身体は個物との相互作用で直接物理的因果の系列に入り込んでいる。湯呑が動くのは物理的因果の中の一局面としてである。そこでの作用の強さや量は数式や数値を利用して表示される。(この表示が十分かどうかは別問題。)一方、抵抗感そのものは一種のクオリアと考えて良い。抵抗感そのものは因果を直接表現するものではない。しかし両方の作用領域は身体というインターフェイス(のためのデバイス)を通じてかなり直接的に絡み合っている。通常の個物はこのインターフェイス機構が発動する因果作用よりの接点なのである。この意味では個物と身体の組み合わせが実際の現象としてのインターフェイスである。
だからといって、実際の皮膚面をインターフェイスの場所として実体視するのは危険である。神経科学で解明される因果連鎖はもちろん脳内まで到達しており、特殊な経路に関しては感覚入力から行動出力まで道筋が辿れる。一方、人間の感覚には触覚以外の感覚もあり、先に視覚空間について触れたように、それらは相互に構造化され、より構造化されたクオリア側のインターフェイスシステムを作り上げる。時空的な領域で物理的因果とクオリアの連鎖という異なる作用様態が分割されていると考えるのではなく、あくまで異なる作用の(ここでは作用タイプの)接点としての個物を考え、それの組織化として時空(クオリア側の場合は感得される時空、時空イメージ、因果側の場合はいわゆる物理的時空)を考えるのが筋であろう。そうはいってもこれは背景の理論の中核的な応用になるものと思われ、今すぐには不可能である。茂木のクオリアに対する選択は科学の側からのこの問題に対する第一次近似としての実践を提起しているものと考えられる。
茂木が、
「確かに、因果的には、あなたの脳の中のニューロンの活動は、グランド・キャニオンの岩、木、空から降ってくる光の集合体があなたの網膜の細胞を興奮させることによって引き起こされました。しかし、「グランド・キャニオン」の前に立ったときあなたの心の中に生まれる豊かで複雑なクオリアの集合体は、あくまでもあなたの脳のニューロンの活動から、マッハの原理を通して生まれてくるのです。」
というとき、情報の担い手としての脳のニューロンの活動に着目し、脳が精神活動に関する情報の処理機構としての中枢であることに着目する。情報のデジタル的外延的計量(ニューロンの発火)という因果側の作用と結びつき易い側面と情報における意味としてのクオリア側に結びつきやすい側面をインターフェイスの場所として選んだものと考えられる。この意味で茂木の試みでは、脳の発火パターンが心の作用の側から見た個物=インターフェイスのオープンネス側の極として選ばれているのである。
茂木の出発点は先に述べたように、純粋にマッハ原理、作用内在性の立場から分析を行い理論構築するものにとっては近似に過ぎない。しかし実行上は近似からしか始められないし、i)で述べたようにいままでにない有効な近似と思える。我々にとって重要なことは、この出発点から得られる知見が自由に伸張され、新たな結果のみならず、より新らしい視点への導きとなるような知的雰囲気の中で研究を進めることである。前提の不備をただソノモノとして指摘しても建設的にはならない。前提の改善にはいかなる可能性があるかを異化に難しくても考える必要があろう。(たとえ改善は知見が進まなくては出来ないものだとしても)。 「背景」の指摘は大雑把な未来の方向しか示していない。ここではもう少し、個物に即した改善の雰囲気を少し見てみたい。
ここで面白いことは、茂木の戦略のように情報を中心としてインターフェイス(個物)の位置をニューロン発火とクオリアに設定することは、先に述べた個物としての視覚空間の措定と関連が深そうだということである。クオリアは聴覚にも味覚にも在るはずだが、音の高さや硬さといったわかりやすい音のクオリアは視覚的・空間的なアナロジーによる表現が優勢なようなに思える。独特のコノ赤さ、コノ音色などは、他のクオリアと比較して考える場合とまさにそれに引っ掛かってそのクオリアの中に没入しつつ何かを掴むときでは同じでは無いように感じられる。クオリアは非常に広い範囲にわたるものだが、比較的研究しやすいものは視覚情報によることが多いのではないか? その理由は視覚が情報・意味付けのレベルで非常に細かい差異を感得でき、配置によりある意味で情報的差異のある情報をインデックス化する能力があるからではないか、と思われる。視覚情報(的パターン)は量が多いことによって、他の感覚情報(のパターン)をかなりの程度コーディングすることができるのではないだろうか。そのことと、情報という相互作用のコード化を可能にする(という意味で一般的な)特殊な相互作用に着目する形で個物を設定することとは何らかの関連があるように思える。
この関連はインターフェイスの我々の心にとってはオープンネス側の極、情報のデジタル的外延的計量(ニューロンの発火)という因果側の設定とも関わっている。本来は相互作用の両極面を独立に指定することは、相互作用に外在的な視点からしかなされない。しかし、それが難しいので近似として作用の質の差を手掛かりに外延計量に基づく因果表現を選んだのである。この外延計量自体が操作性+空間的な比較、つまり視覚情報のコーディングによっている面が多いのではなかろうか。このように考えるとクオリアを取り出すときに、既にいろいろな特に視覚に関連するバイアスがかかっている恐れがある。
このことは逆に、クオリアの理解(知的・感性的)が深まれば、視覚を中心として整備されている現在の段階での理解と理論になんらかの突破口が開ける可能性を秘めている。聴覚的な、視覚的にアナロジーがどうしても効かないクオリアの考察やクオリアを比較や想起ではない精神的次元で考えること、精神分析との関連の可能性などの中にこのような可能性が含まれているような気がする。もちろんこれらのことは逆に如何に個物=インターフェイスの設定を他の場合の個物の設定と関連付けられるようにするかという課題を解きながら進まねばならない。(そこから「背景」の一般理論への道が開けると思われる。)ただ言いたいのは、因果や物理的影響を含む相互作用の表示は現在の物理学を始めとする外延表示がいかに有用であっても部分的な物に過ぎない可能性を心に留め、それ以外の可能性を持った題材をなるべくスポイルしない方法論への気遣いを忘れない、ということである。
茂木が
「 いきすぎた唯脳論、独我論は、世界の中のわたしのあり方の豊かさの本質を見失うことにつながりかねません。しかし、一方で、論理的に言えば、わたしの心の中の表象が全て脳の中のニューロンの活動の相互関係によって引き起こされるものであることは否定しようがないのです。」
というとき危惧していることも、個物の設定という問題が如何に困難なものであるかを表明しているものといえよう。しかし第一近似の中ではあれ、内在的作用からの分析・理論化が必要なことは「否定しようがない」のである。これをさらに推し進めることを私は哲学的な立場から推奨する。その際には暗黙の視覚的パラダイムの危険性とクオリアそのものがもつ豊かさがそのパラダイムを打破する可能性に注目したい。19世紀から20世紀の心に関する人文科学系の知見を新しい脳科学と結合していくことにこの意味でのクオリアの豊さが関連するものと期待している。
(終わりに)
いま述べたことは、従来の哲学者よりの一部の「クオリア」の議論に対する問題提起ともなる。極端に簡略化した議論を挙げると、
「心の働きを物理的な機能と機能パターンの側面から同一視するのが現在の機能主義である。直接に機能が辿れなくても機能の発生・関連の可能性を示すものとしてfunctional rollという概念をつかえば機能主義を拡大することが出来る。機能主義においてはこの意味で心は必ず何らかの意味での因果的連関の上にしか成立しない。
クオリア=質感はこのようなfunctional rollによっては捉えきれない。部分的には役割に従っても、どこか役割を超えたものとしてある。そしてその点が人間の主観性、掛け替えのなさに繋がっている。」
といったものがある。このような見解を巡っての議論・対立がある。一方は上の議論でのクオリアを認め、他方はfunctional rollで十分に人間の心は考えられるということになる。
茂木をはじめとする脳科学者からのクオリアについての肯定的な議論や否定的な意見をこのような哲学的枠組みの中で位置付けようとすることがなくもない。科学者側も哲学のこの枠の中に自分の理論、見解がはめ込まれることで哲学的な支援・補強材料?を得て安心する向きがないでもない。
我々が哲学的に考えたいのはそんなことではない。はじめにも述べたように思考の可能性において科学は科学内部での相互連関による制約以外からは完全に自由である。科学に枠を嵌め、それを支援、強化、正当化することは哲学の課題ではない。人間である我々が次なる科学的実践に向かおうとする際により深いオープンネスへ向かうインパクトを与えられれば哲学にとって十分に幸せなことである。ただ、それを社会的影響や集団的世論形成によってではなく、思考において行うのが哲学である。
その意味では先に挙げた一見哲学的な議論のように対立を言いたてるのみではなく、対立要素の関係、その関係の分析などを、自然科学との接点で行うべきである。本稿は未熟ながらもそのような議論を目指そうとしたものである。