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=== Qualia Renaissance=================================

         クオリア・ルネッサンス 

         Special Issue 「一回性」 (2000/06/23)

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クオリア・・・それは、赤い色の感じ、サックスの音色、薔薇の香り、

絹の手触りのような、感覚をつくる様々な質感。

いかにして、物質である脳の中のニューロンの活動から、これほどまでに

豊かなクオリアが生まれるのか?

この問題こそが、心脳問題のハード・プロブレムです。

クオリアの存在に気付くことによって、私たちは、自然科学、人文的文化の

枠を越えた、新たなルネッサンスの時代を迎えようとしています。

 

クオリア・ルネッサンスは、qualia-manifesto.comが提供しています。

http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html

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[ Qualia Renaissance Special Issue] 

 

Contents

・メルマガのタイトル変更について

・私の出会ったクオリア 第11回

・「一回性」特集

 

◆メルマガのタイトル変更について◆

 

 1999年1月30日に創刊された「クオリア・ミステリー」は、

脳の中のニューロンの活動からいかにしてクオリアが生まれるのかという

心脳問題のハードプロブレムを中心テーマとして、Regular Issue

32号とSpecial Issueを随時発行してきました。

 この間、世界的にも、クオリアの問題に対する関心は高まって来ましたが、

一方で、クオリアの問題がそうすぐに解けない問題であることも明らかに

なってきました。

 そこで、クオリアのミステリーにフォーカスした「クオリア・ミステリー」

というタイトルよりも、むしろ、クオリアの問題に気付きつつ、自然科学

と人文的文化の「二つの文化」の枠を取り払った新しい知の営みにフォーカ

スする方が、メルマガのタイトルとして相応しいのではないかと

思うようになってきました。

 というわけで、本号から、タイトルを、

 

「クオリア・ルネッサンス」

(Qualia Renaissance)

 

といたします。脳科学ニュースなどのcore contentsは維持しつつ、真の

意味で二つの文化を乗り越える方向へのcontentsを充実していく

つもりですので、引き続き御愛読下さい。

 そして人生は続く・・・

 

 2000年6月23日 茂木健一郎拝

 

◆私の出会ったクオリア◆ 第11回

 

「私の出会ったクオリア」

29歳女性

2000年6月現在、私は精神内科に通院しているひとりの女性である。

私は今、精神分裂症と診断されている。

私は「社会生活を営む」という行為を非常に難しいものと感じている。

なぜなら、「私の存在性」が「私の生活」の邪魔をするからだ。

友人との会話や仕事のミーティングの際に、私はどのように振る舞って良いのかがわ

からない。

「どのような行為が自分となるか」が判断できない為だ。

だから、常に「こうあるべき自分」を想定してから、その自分を演じるしかならない。

ひとつの自分を自然に演じる必要があるが、それはかなりの集中力を必要とする。

だから、他人と長時間一緒にいることができない。

ひとりでいる時、歩いている時、どのように歩いていいのかがわからない。

無心になって歩くように、自分を説得しながら歩くしかない。

食べること、話すこと、眠ること、呼吸すること、基本的な生きる行為全てに

自分自身の説得が必要だ。説得に疲れると混乱し、めまいがする。

もう立っていられない。そして気を失う瞬間を想像してから、気絶をする。

「私はいつも私自身の説得を必要としている。」という状況が失われると、

私は「私」でも、「私以外のもの」でもなく、

私は単なる吐き気やめまいという「感覚」とイコールになり、

そして最終的に私は「感覚の消滅」そのものとなる。

心を満たす様々な質感を、「クオリア」(qualia)と呼ぶのであれば、

「クオリア」は私の病の根源であり、無数の「クオリア」との関係が私を悩ませる。

「クオリア」がなければ私の病はない。けれど、病のない世界に私は無い。

 

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広告はありません

 

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*編集人から

 

「私の出会ったクオリア」の原稿を募集します。

800字程度でお書きください。

採用の方は、発行部数2600部以上のこのメルマガで、

10行以内で好きなことを広告ができます。

御投稿は、kenmogi@qualia-manifesto.comまで。

 

◆クオリア・ルネッサンス 夏の「一回性」特集◆

 

<特集の趣旨>

 

 私たちの人生は、一回しか起こらない、しかし人生において重要な意味を

持つ出来事との出合いがあります。脳の働きとして見れば、脳は、一回しか

出会わないようなイベントでも、その世界の認知モデルの中に

有機的に取り込む能力を持っているということを意味します。

 ところが、現在の脳科学で研究されている脳機能は、管理された

実験室の中で「再現性」をもったイベントとして実現できるものに

限られるため、上のような一回性の出来事に対し、脳がどのように

働いて人生の物語へと織り上げていくのか、明らかになっていません。

 このような「一回性」の重要性を探究するため、今回、qualia mlの

メンバー数人が、それぞれの「一回性」の体験をエッセイに綴りました。

 読者の皆さんも、それぞれの「一回性」の体験をお寄せくださればと

思います(この特集の最後に原稿募集要項があります)。

 「一回性」のSpecial Issueは、9月のRegular Issue再開までの間、

何回か発行したいと思っています。

 

●柴田孝の一回性

●R野原の一回性

●浜田浩の一回性

●宮崎英輝の一回性

●長井清香の一回性

●茂木健一郎の一回性

●小笠原克久の一回性

 

 

<柴田孝の一回性>

 

 柴田孝

 g6410103@ms.toyama-mpu.ac.jp

 プロフィール:脳外科医

 

ある日、一人の若い男性が救急車で運ばれてきた。

通勤途中での普通車とトラックとの交通事故であった。

頭皮を裂傷し、頭蓋骨は開放性骨折であった。

意識は、徐々に混濁していった。

頭部CTで急性硬膜外血腫と診断され、緊急手術が施行された。

手術は無事終了し、

術後、眠るような日々が幾日か過ぎた。

ある朝、若い男性はやっと深い眠りから目を覚ました。

 

しかし、その男性は大きなものを失っていた。

それは、自分がこの地に誕生し

今まで人生を歩んできた様々な思い出であった。

実は、頭部CTで、左側頭葉と海馬に大きな脳挫傷が生じていたのである。

彼の過去は、たった一回の事故のために

脳神経細胞の破壊とともに、一緒に儚く消えていった。

 

一人の人生を大きくかえる一瞬の出来事。

過去のたった一回の出来事が

今という現在に大きく影響を与えている。

一方、未来が今という現在に大きく影響を与えている場合がある。

子供は、一日の大半を夢の中で生きているが、

思春期に見た将来への夢が、その後の人生をほぼ決める。

未来は、子供のためにある。

 

時間は、刻一刻と無常に過ぎていく。

その時間を構成している未来と過去、そして、今という瞬間。

もし、今という未知な扉を開く時、

何か永遠で美しい世界へと足を踏むこむことができる。

今という時の流れは、永遠性と未知な真実を含んでいる。

通常、時間とは、過去から未来へと流れているが、

その過去-未来軸に、今という永遠な軸が直交している。

過去から未来へと移り変わる無常な現実世界と

今という永遠な神へと至る世界との交錯である。

この交錯点に、人生の中の一回性の出来事が生じ、

そこに私が存在している。

 

=================柴田孝の広告=================================

 

頭を打ったら、脳外科へ行こう。

頭痛、めまい時の脳ドックも

うけたまります。

 

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<R野原の一回性>

 

R野原

rnohara@amy.hi-ho.ne.jp

プロフィールは

<暇な心脳問題と臨床心理に興味がある、おねーさんです。>

 

<本文>

 数年前、日本語や言葉を持って生まれてき

たことがどうにも嫌になってアメリカに逃げ込

んでいた日々があります。或る日先輩とロック

フェラーセンター脇の紀伊国屋で待ち合わせ

をしました。向こうもあまりNYは慣れていない

らしく、センターの向かいにある、聖パトリック

大聖堂の中に行って見たいと言い出しました。

私はついさっき覗きに行ってしまっていたので、

「もいっちゃったんですけどー。」とゴネつつつ

いて行きました。

 一度石造りの教会を実際見に行ったことの

ある方は御分かりだと思いますが、本物の教

会の内部と言うのは外からは想像できないほ

ど、深く広く感じるのです。地べたからずっと尖

塔へと伸びる視界は実際以上に高く見え、こ

れが壮大な舞台装置なのだと分かります。そ

の時、偶然にパイプオルガンが鳴り響きまし

た。ざっと垂直に音は流れ、天井から降注ぎ

ます。教会全てが音になりました。告解所を

眺めながら、ぼんやりフロイトの長椅子のこ

とを考えていた私は、音そのものが降注いで

くるのを感じ、足が震えそうになるのを必死で

堪えながら、猛然と怒り出していました。

「またあいつだ!」

一瞬光を見たような気がする。でも自我がぶ

っ飛んで行きそうなのを堪えながら「こんな

時にお前なんか見たくはないわ!」と怒り狂

ってました。いつも、言葉を捨てたくなるよう

なギリギリの時にそれはやって来たから。じ

きに音は止み、彼は「なんか凄く良かったで

すねー」と大して動じていないのが拍子抜け

でした。震えが来ていそうなのを悟られなれ

ないようにしながら冷たい空気を求めて外へ

出ました。   

これは間単に言えばただの至高体験です。

二度と起ることは無いです。が、何度か「あ

の時」に戻っては「今」を敷衍します。次はど

うか分かりませんがその時は「あいつだ」

と分かるのだろうと思います。

END

 

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MY HomePage 「かぴばらこのお部屋」完成です! 

URL http://www.amy.hi-ho.ne.jp/rnohara/index.htm

しかし殆どUnder Construction、、、、。(来ても何にも無いよー)

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<浜田浩の一回性>

 

プロフィール

<浜田浩 反抗的人間 hiro9619@bc.mbn.or.jp>

 

 

 それは一回性の体験というより、いわば一個性の体験、といえるかもしれない。

 

 もう5年ほど前になる。転勤で広島に移り住み、ようやく落ち着いた頃だった。

折角だからいろんなところに出掛けてみよう。出不精の私は、山歩きを方便にし、

近辺の手頃な山を物色した。そうして幾つかの山を歩いた。武田山、牛田山、

安芸小富士、経小屋山、朝日山など。

 それがどの山だったか、今では思い出せない。その日、明け方に降ったらしい

雨で山は潤っていた。ふもとから、ひとり黙々と山道を歩いた。

 ぽつりぽつりキノコの生える鬱蒼とした谷間にさしかかったとき、ある思いが

私を捉えた。それは何年かごとに去来するところの、デジャ・ヴのようなひとつ

のイデーだった。・・・・一切は差異により成る。差異が万物を生み出す。

生と死の違い、善と悪の違い、真と偽の違い、平等と不平等の違い・・・・

 それがすべてだと思った。でも、不思議とあるべきはずの高揚感は無かった。

ただ無限の差異を、前方に感じていた。そう、手の届きそうな、ほんの目の前に。

 

 いまこうしてそのときのことを言葉にしようとして、うまく出来ずにいる。

おそらく、言葉で表現しても仕様が無いことなのかもしれない。たとえば、

音楽を言葉に翻訳してもあまり意味のないように。指は月を指し示すが、既に

その月は沈みぬ。

 

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まあこれも何かの縁ということで、いちど覗いて見て下さい。

home page : http://plaza23.mbn.or.jp/~hiro4/index.html

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<宮崎英輝の一回性>

 

宮崎英輝

miya@j-energy.co.jp

URL:http://member.nifty.ne.jp/Mr-Nobody/index.html

プロフィール:油を売っています。一応、エンジニアです。

 

「人生の中の一回性の出来事」

 

 日常とは不断に生起する一回性の出来事の連鎖でありながら、我々はその一回性を通常

は意識しない。しかし日常から逸脱する事態に直面したとき、正にリアルな一回性の出来

事とそれに向き合う自分の態度・有様が露になる。私にとっては「長女出産への立会い」

がそうであった。

 

 産院の方針に従って出産に立ち会うことにした私は、はじめての子供ということもあり、

「立会う」ことで「出産」へ積極的に関与しようと気負っていた。しかしその場では陣痛

に耐える妻の手を握り、ただ励ますしか術はなかった。何もできず見守るだけの自分の中

に、脈絡のない、整理のつかない想念が生起していった。

 

(無力感。好奇心。生まれくる子供への期待。親になる不安。妻と子のイベントという傍

 観者的な思いと疎外感等)

 

 モニター上の子供の心音が弱まり、事態はさらに混乱していった。出産時のリスクが増

大したため、急遽、自然分娩から帝王切開へ切り替えられた。慌てる担当医師。呆然と状

況説明を受ける自分。出産立会、帝王切開、我が子の誕生、はじめての出来事の連鎖に日

常的な情報処理スキームは全て停止状態となった。大きな混乱と不安、恐れ・・・。

 

 しかし、それらの感情の次に立ち上がってきたものは純粋な好奇心と、解釈や意味付与

のないあるがままの出来事の受容という感覚であった。極めて即物的に妻が開腹され、子

供が取り出される様子を眺めながら、開き直ったような全肯定的な世界受容の感覚と存在

の全肯定感に充たされた。またその感覚には子供の意識と共鳴しているという全く無根拠

な確信が伴い、そのこと自体が子供からの「大丈夫」という意思表示のように思われた。

局部麻酔で意識のある妻を励ましながら、私が大丈夫だと確信することが、すべてをうま

く運ぶための必要条件であると感じた。こうして全ての出来事を受容し、承認する中で妻

・子・私三者の不思議な一体感が形成され、はじめて出産に参加しているという実感が得

られた。

 

 今になって思えば、あの感覚は何も出来ないが故の精神の補償作用であり、錯覚なのか

もしれないが、「誕生」という一回性の出来事に向き合った極めてリアルな実感は今でも

父親として育児に参画する原点になっている。

 

 

<長井清香の一回性>

 

nagai@food2.food.kyoto-u.ac.jp

京大@食研

現在の研究プロジェクトに関してはー>

http://food.food.kyoto-u.ac.jp/bunya31/OGAWA/index_j.html

その傍ら、奈良女子大学、広島大学との共同で、生物時計の実験もひき続き行ってい

る。

 

一回性の体験

 

 

日々の出来事は同じようで、同じではない。

 

全く同じ出来事があったとしても、情況や心理状態で全て変わる。

 

毎日、一度だけの経験をしているとも考えられる。

 

とすれば、一回性の経験といえば、初体験が思い浮かぶ。はじめて自転車に乗った

、はじめて学校へ行った、等。二回目以降は、同じような経験として、処理されてし

まう。決して同じではないはずであるが。

 

はじめて何か経験したとき、世界が変わったと思わなかったか?

 

それは新たな精神の誕生でもあるだろう。

 

一回きりだと、普通は忘れ去る。

 

どこかで人格に影響するものもあれば、しないものもあるだろう。

 

ところが、強烈な印象をその人に与え、そのまま近似の体験がなされないままの経験

も存在する。それはおそらく二度と起こることが無い、即ち、非日常的な経験である

 

私は子供の頃、工事現場で遊び、砂山に埋もれて死にそうになった。

 

そのとき思ったことは、「生きているー>生かされた」ということであった。

 

それは、同じような経験をした人たちが、思うらしい反応である。

 

私は子供であったから、特にそのような考え方を身に付けていたわけではない。根本

的な精神活動として、何か人の力の及ばない強い他力的な存在を認める能力が、人に

は備わっているのだろう。

 

それは、自分が世界の中心ではないことを知る早すぎた経験であった。そして絶対的

であった愛してくれている親の手が、自分に及ばない領域、孤独らしきものを知った

のである。

 

この世に生まれでたこと、そして成長、死、肉体の自然現象は、一度きりしか体験で

きないものが多い。人生そのものが一度きりであるから。

 

死の恐怖、恋愛、出産、、、など、それを感じさせる経験は、強烈な印象となって、

我々の心に何らかの痕跡を与える。

 

今までの自分が死に、新しい自分が生まれる。

 

ショックであり、新たな世界への扉であり、捨て去ることもでき、はかない夢であり

、美しい思い出にもなる自然からの贈り物であり、試練であると言える。

 

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生命には固有の時間がある。そのうちの一つである生物時計の興味深さの一つは、生

命の時間のつむぎ方を解きほぐすこと。そして時間感覚にもつながること。

 

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<茂木健一郎の一回性>

 

脳科学者。kenmogi@qualia-manifesto.com

 

 ある時、私は、東京のあるターミナル駅の駅ビルの男子トイレの「大」の方に入っ

ていた。そこは洋式のトイレで、私はいつもの癖で雑誌を読みながらのんびりしてい

た。

 気がつくと、誰かが、鍵穴から中を覗いていた。黒目の部分が、鍵穴から大きく見

開かれてこちらを覗いている。

 一体誰だろう、私は一瞬身構えたが、すぐに、状況が分かった。ドアの隙間から、

半ズボンとシャツが見えた。立って、やっと目が鍵穴に来るくらいの背しかない。男

の子が、鍵穴から私を覗いていたのだ。

 目の表情からも、男の子の真剣さが伝わってきたが、身体を少しずらすと、スリッ

トから、一生懸命トイレの中を覗いている男の子の表情が見えた。5才か6才くらい

か。理由と言えば、一つしか考えられない。彼は、このトイレに入りたいのだ。我慢

できなくて一刻も早く入りたいのだが、トイレに誰かが入っているので、必死になっ

て覗いているのだ。ドアをノックするという智恵もないのだろう。

 そのひたむきさに、私は心を打たれた。

 「今、出るから、待っててね」

 私は水をフラッシュすると、すぐにドアを開けた。

 あの男の子は、武士の情けというものを、理解しただろうか。

 一回性の出来事は、世界に対する私たちのモデルからして予測できないことが起こ

った時に、私たちの脳に強い印象の刻印を残していくのだと思う。トイレに入ってい

て子供に覗かれたのは、後にも先にもあの時だけである。彼にとっても、おそらくそ

う何回もくり返す体験ではないだろう。駅ビルのターミナルで、私の一回性と彼の一

回性が交錯したわけである。

 

 

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 新しい時代の思想は、ここから始まる。

 心脳問題Request For Comments, 好調発行中。

 http://www.qualia-manifesto.com/rfc.html

 

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<小笠原 克久の一回性>

 

mechanical-design & system-planning

(株)エム・イー・デー経営

e-mail oga_med@pop11.odn.ne.jp

 

25年前、初めてハンググライダーで飛んだときの事である。

私は模型飛行機好きでよく作っては飛ばしていた。

それまで飛行機には一度も乗ったことが無かった。

そんなおり雑誌に「あなたも3日間で鳥のように・・・」、に飛びついた。

当時はスクールはとんど無く、機体の性能も悪かった。

 

1日目は機体になじむという事で、ほとんどグライダーを持って歩いていた。

 

2日目はラインをつけての走り込みだ。

自分では浮くとは思っていなかったのが、急に地面が無くなった。

残念ながら、地面に着くまでの記憶が無い。

飛んだつもりであったが、どうやら浮いた後失速して落ちただけの様である。

でも私にとっての初フライトであることに間違いは無い。

このときの印象はなかなか言葉に出来ない。

 

3日目になると、少しは飛ぶがどこに飛んでゆくか判らない。

 

初めて浮いたときから刻々と感激が変化した。

短い時間の中でインパクトのある一回性が展開していった。

 

新たに出てきた感覚・質感は、

頬をなでる風の質感。

風の湿り気。

木々の揺れ方。

地面のぬくもり。

雲の形の質感。

テイクオフ時の緊張感。

ランディング時の快感・開放感。

これらも、少しづつ変化してゆく。

 

特に中に浮くという質感は変化した。

今から思えば必死に脳は把握しようとしながらも、

未経験のためか志向性が定まらず揺らいでいたのかも知れない。

 

その後、私を教えてくれた青年の「死」。

私自身の「墜落」と、死が身近にあることも判った。

PTSDに近い心境も味わった。

 

私の人生観へも大きく影響した。

日常のこまごましたことがどうでも良くなった。

死の必然性と生存本能が妙な絡み方をした。

あと極度な高所恐怖症になった。

 

やめて15年以上経つ今、ほほをなでる風も鈍感になった。

ただ極度な高所恐怖症は残ってしまった。

今思うことは、日常とは一回性の連続なのだと。

そして経験とは一回性の積み重ねなのだとつくづく思っている。

 

◆-------------------------------------MED--◆

PR:無料メールマガジン・首都圏展示会情報配信中

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*編集人から

 

「私の出会った一回性」の原稿を募集します。

800字字程度でお書きください。

採用の方は、5行以内で好きなことを広告ができます。

御投稿は、kenmogi@qualia-manifesto.comまで。

 

 

<End of this issue>

 

 Qualia Renaissance Regular Issueは、9月上旬に発行する予定です。

それまでの「夏休み」期間は、数回のSpecial Issueを発行する予定です。

お楽しみに。

 Qualia Renaissanceは、皆様からの御感想をお待ちしています。

 kenmogi@qualia-manifesto.com

 までお寄せください。

 お寄せいただいた御感想には、必ずお返事いたします。

 

===Qualia Renaissance Recommends=====================

 

 養老孟司編 

「脳と生命と心」

 

 哲学書房 3500円 ISBN 4-88679-071-2

 

http://www.trc.co.jp/trc/book/book.idc?JLA=00014935

 

「自分の金なら、何をやっても文句は言われない。そのようなところ

からしか、新しいものはうまれない」(養老孟司談)

21世紀への知の胎動は、ここから始まる。

 

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===Qualia Renaissance Lectures=====================

 

朝日カルチャーセンター新宿

 

脳と心の関係を求めて -「私」という物語ができるまで-

 

「人とその軌跡の探究」シリーズ

講座番号 0396633

講師 茂木健一郎

日時 2000年7月28日、8月11日、8月18日、8月25日、

9月8日

(全5回)金曜日 18:30 〜20:30

場所  新宿住友ビル48階 朝日カルチャーセンター

申し込みは

朝日カルチャーセンター 03-3344-1945(直通)

インターネットからも申し込みができます。

http://www.asahi.com/information/acc.html

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○電子メールマガジン「クオリア・ルネッサンス」2000/06/23

発行者:くおりあ庵=茂木健一郎 (脳科学者)

電子メイル kenmogi@qualia-manifesto.com

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