Last Updated 27th June 1999
The Qualia Manifesto (English Version)
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クオリアとは、「赤の赤らしさ」や、「バイオリンの音の質感」、「薔薇の花の香り」、「水の冷たさ」、「ミルクの味」のような、私たちの感覚を構成する独特の質感のことである。「クオリア・マニフェスト」(The Qualia Manifesto)は、クオリアの本質、その起源の解明が、今後の人類にとっての最大の知的チャレンジであることを宣言し、クオリアを中心とした文化運動の開始を呼びかけるミッション・ステイトメント(Mission Statement)である。クオリアの起源の解明に成功すれば、、アンドロメダ星雲に人類を送ることより大きなインパクトを人類に与えるだろう。
私たちの心(mind)の中の様々な「クオリア」(qualia)に対応する物質的過程の性質を明らかにすること 、あるいはこのような「対応関係」のメタファー自体を超えることが本質的である。この作業は、自然科学を従来の客観的視点に立った自然の記述のみを目的とする物理主義の科学から脱皮させ、主観的な視点の起源をも視野に入れることを伴うだろう。すなわち、私たちは、私たちの心的現象をも、自然現象の一部とみなし、心的現象をも自然科学の記述の対象とするのである。
私たちの心の中にある「クオリア」の性質がどのように物質的過程から生み出されるのか、そして、そもそも様々な「クオリア」が結びついた表象が感じられる枠組みである「私の心」という主観性(subjectivity)の構造がどのような物質系にどのような条件の下で現われるのかを明らかにすることは、客観的世界と主観的世界の間で分裂した私たちの世界像を整合的なものにする上で必要不可欠なステップである。
「クオリア」や「主観性」の起源の解明は、アインシュタインの相対性理論以来の最大の科学革命となるだろう。
「クオリア」や「主観性」の起源の解明は、自然科学の問題として重要であるばかりでなく、人文的文化の究極的基礎を提供する。「クオリア」は、今後の人類の知的挑戦における本質的課題を象徴する概念である。その影響は、自然科学はもちろんのこと、人文科学、芸術、文学、宗教、さらには人間とは何かという概念自体まで、広い範囲に及ぶだろう。
C.P.Snowは、自然科学の営みと人文主義的な営みの「二つの文化」の間に対立があると指摘した。この「二つの文化」の間の亀裂を埋めることは、「クオリア」や「主観性」の問題を追求することによって初めて可能になる。例えば、音楽の美しさを、進化論的な観点、あるいはシャノン的情報理論から説明しようとするのはナンセンスである。音楽の美しさは、ピッチや音色といったクオリアを正面から対象にすることによって、初めて議論が可能になる。言葉の意味論を含め、人文主義的な営みの多くが、クオリアや主観性の起源を明らかにすることによって、初めてその究極の根拠を与えられるだろう。
クオリアに象徴される心脳問題の解決は、従来の意味での自然科学のみではなく、広く人文科学、文化、芸術、社会学、哲学、宗教などの全ての人類の営みを総合した総合的文化運動の結果としてのみ可能となる。ただ、このような認識の下でも、コアとなる領域を想定し、その領域に適した方法論を構築する必要がある。クオリアに対応するニューロンの活動状態(Neural Correlates of Qualia)の研究は、このようなコア・ドメインに属する。
私たちが心(mind)を持つという事実は、人類が自覚的な意識を持ってから長い間、当然の前提とされてきた。心の存在を前提にして、人間中心的な世界観が形成された。人間が心を持つことは当たり前のことであって、それがどのように成立するかということが深刻な問題として自覚的に問われることはなかった。このような態度は、例えばキリスト教における人間中心主義的な世界観に表れている。
ニュートン力学の成功を一つの金字塔とする機械論的な宇宙観が成立するにつれ、世界全体を自然法則に従って機械的に発展する物質システムとしてとらえる見方が定着してきた。このような物理主義的な世界観が支配的になり、このような世界観の中には、私たちの「心」のある場所はなかった。
デカルトは、心的現象と客観的物理現象を分離し、客観的物理現象のみを自然科学の対象とする方法論を打ち立てた。心的現象は明らかに存在するにも関わらず、それは自然科学の対象からははずされた。私たちの感覚の持つクオリアは、あたかも存在しないかのような擬制の下で、物理学を典型とする自然法則の解明が進んだ。
今世紀の初頭、ホワイトヘッドは、私たちの自然観が、クオリアのような質感に満ちた心的現象の世界と、波動や粒子といった数、量で記述される客観的物質世界に分裂していることを指摘した。
私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーらの現象学者たちであった。サルトルは、ある時、パリのカフェの中で現象論学者に「君の目の前のコップ一つからも哲学をはじめることができるのだよ」と言い聞かされて、感動のあまり顔が青ざめたとボーボワールが証言している。
心理学における行動主義(behaviourism)の運動は、クオリアや表象といった心的現象を本来特徴づける性質が存在しないかのような擬制の下で、個体における刺激ー反応の入出力関係のみを問題にした。行動主義は、心的現象の起源の解明という意味においては、不毛であった。行動主義は、やがて、機能主義(functionalism)につながっていった。
一方、チューリングによるチューリング・マシーンの概念化や、フォン・ノイマンによる現代的なデジタル・コンピュータのアーキテクチャの設計によって、機能主義のプログラムは具体的なシミュレーションが可能になった。
ミンスキーらによるstrong AIの立場(機能主義的にシステムを構成していくことにより、意識を人工的に再現することができるという主張)に基づく研究は、人間の知性を客観的なシステム構成によって再現しようという試みであって、機能主義の立場からの中心的な研究プログラムの一つであった。
機能主義者は、しばしば「情報」(information)という概念に言及する。ここで言う「情報」とは、意味論を捨象した、シャノン的な意味での情報概念である。シャノンの情報概念は、統計的描像に基づいており、情報の意味論には何ら関与しない。それにも関わらず、シャノン的な統計的猫像に基づく情報概念が、脳の情報処理を解析するために用いられて来た。私たちのある事物の認識は、その事物にだけ選択的に反応する性質(反応選択性、response selectivity)を持つニューロン群の活動(一般には、時空間的なパターン)によってもたらされるという考え方が典型である。反応選択性は、統計的にしか定義され得ず、個々のニューロン群の活動の時空間的なパターンがいかにして私たちの心の中にある一定のクオリアを生むのかという心脳問題の核心には答えることができない。
機能主義的な脳の情報処理へのアプローチは、行動主義と同様、「クオリア」や「主観性」のような心の問題の本質の解明には寄与するところが少なかった。
機能主義に代表される客観主義的科学において「心」の問題が扱われていない間隙を縫って、いわゆるニューサイエンスやスピリチュアルといったジャンルが隆盛した。しかし、これらの文化的動きは、客観主義的科学との整合性について真摯ではなく、いわば人間の主観的なファンタジーの世界(それはとりもなおさず心の中のクオリアや表象の世界に過ぎないのだが)に閉じていた。したがって、ニュー・サイエンスやスピリチュアル・ムーブメントが心の科学の真のブレイクスルーに繋がることはなかった。むしろ、ニュー・サイエンスやスピリチュアル・ムーブメントは、心的現象への関心を持つことがいかがわしいものであるという科学者の間の偏見を増長したという意味で、ネガティブな側面を持っていた。
このような中で、心脳問題に関する真摯な思考を積み上げてきたのは、哲学者たちだった。
ダヴィッドソン(Davidson)は、"Mental characteristics are in some sense dependent, or supervenient, on physical characteristics. Such supervenience might be taken to mean that there cannot be two events alike in all physical respects but differing in some mental respect, or that an object cannot alter in some mental respect without altering in some physical respect." と述べて、この後心脳問題を考える際に重要になる「重生起」(supervenience)の概念を提唱した。
1980年代の末から、科学者の間でも、意識の科学的解明に対する関心が高まった。
クリック(Crick)は、意識の持つ様々な属性の中でも、視覚的アウェアネス(visual awareness)を解明することを最初のターゲットとするべきだとして、意識の科学的解明に関するキャンペーンを推進した。
ペンローズ(Penrose)は、1989年に出版された「皇帝の新しい心」(The Emperor's New Mind)の中で、機能主義的な人工知能で意識が再現できるというstrong AIの主張を「裸の王様」であるとして激しく批判した。デジタル・コンピュータ上で実現できる計算は、「計算的」(computational)と呼ばれる範囲となる。ペンローズは、意識は、非計算的なプロセスを含み、このような意識の属性は、未解決の量子重力理論と関係しているというコンジェクチャ(conjecture)を提出した。
デイヴィッド・チャーマーズは、1994年、The Conscious Mindの中で、「クオリア」こそが心脳問題における「難しい問題」(The Hard Problem)だと主張した。チャーマーズは、心脳問題において「クオリア」を表舞台に立たせる上で、一定の政治的役割を果たした。チャーマーズの主張の特徴は、機能主義と質的二元論(property dualism)を同時に主張した点にあった。
アリゾナ大学のグループは、意識の研究センターを立ち上げるとともに、意識に関する国際会議をアリゾナ州ツーソンで2年毎に開いている。アリゾナ大学の活動が一つのきっかけになって、意識の研究に関する国際会議が頻繁に開かれるようになった。しかし、アリゾナ大学の研究者たちが中心になって推進している意識への量子力学的アプローチは、行き詰まりを見せている。その最大の理由は、意識への量子力学的アプローチが、私たち人間が通常意味するところの「意識」を生み出している脳のシステム論的な性質に無関心であり、脳の素子のミクロな性質を論じることに終始していることである。極端なことを言えば、量子力学的アプローチにおいて問題にされている「意識」は、(そのようなものがあるとしてだが)全ての物質系に共通の一種の「原意識」(proto-consciousness)のようなものであって、脳科学者や認知科学者が問題にしているところの「意識」は全く別物であるとも言えるのである。
クオリア(qualia)とは、私たちの心の中の表象を構成する要素の持つ独特の質感のことである。例えば、「赤の赤い感じ」がクオリアである。
私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係にある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない理由である。
クオリアの中には、階層構造がある。クオリアが階層的に集合して、より複雑な表象(representation, Vorstellung)が生じる。例えば、ガラスの透明な質感や、ガラスの表面の色はクオリアであり、このようなクオリアが集合して、「コップ」という表象が構成される。
クオリア(qualia)は、現在までの様々な神経生理学的データを検討すれば、ニューロンの活動、とりわけ活動電位(action potential)と呼ばれる膜電位の変化によって生み出されることは明らかであるように思われる。
クオリアや主観性は、従来の客観的視点に立った物理主義の延長ではとらえきれない。客観的な立場からは、ある物質系がどのように時間発展をするかを記述できればそれで必要十分である。しかし、クオリアや主観性が、ある物質系の時間発展に伴ってどのように現われるかを記述する法則は、時間発展の客観的記述を与える法則とは全く性質が異なる。
素粒子論的な意味での「究極の法則」(Theory Of Everything)が例え成立しても、それは物質系の客観的な記述を与えるだけだから、クオリアや主観性の問題の解明にはつながらない。例え、物理主義的な意味での「究極の法則」が成立したとしても、クオリアや主観性を記述する自然法則は、そこから始まる全く新しい領域に属する。ここで前提になっているのは、心的現象もまた自然現象の一部であるという描像である。
クオリアや主観性に対応する脳の中のニューロンの活動を明らかにし、そこにどのような対応原理が働いているのかを理解し、脳を含むどのような物質系に、どのような条件が満たされた時にクオリアや主観性が宿るのかを明らかにすることが、現在人類に与えられている最大の知的挑戦である。
クオリアが脳の中のニューロンの活動からどのように生まれてくるかということは、デジタル・コンピュータにおけるコーディングと同じ思想に基づいている「反応選択性」(response selectivity)の概念では説明できない。私たちは、認識におけるマッハの原理(Mach's Principle in Perception)から出発しなければならない。
クオリアは情報の意味論的側面と深く関連する。クオリアは、シャノン的な情報理論では全く解明することができない。
クオリアが埋め込まれる主観的な時空構造が、脳のニューロンの発火からどのように構成されるかを考える際には、因果性(causality)が本質的な役割を果たす。特に、主観的な時間の構成においては、相互作用同時性の原理(Principle of Interaction Simultaneity)が出発点を提供する。
主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパターン(The neural correlates of qualia)の解明のために必要な議論よりもさらにシステム論的な議論が要求される。
ここにおける「主観性」のアプローチは、量子力学の観測問題において示唆されて来た「主観性」の役割と直接の関連性を持たない。私は、量子力学における「観測」の概念、及びその背後にある「主観性」の概念は、いたずらに議論を混乱させてきただけだと考える。
クリックとコッホが提唱している、前頭前野に直接投射する脳の領野の活動のみが視覚的アウェアネスにのぼるというようなモデルは、トリヴィアルな主観性のモデルである。このように、主観性の座(ホムンクルスのいるところ)をどこかに置き、そこへの情報の伝達としてアウェアネスを説明しようとする試みは、主観性の問題の本質的解決にはつながらない。私たちの最大の課題は、ノン・トリヴィアルな主観性のモデルを作ることであるが、このことは現時点ではとてつもなく難しい。
ノン・トリヴィアルな主観性のモデルを作る上で、志向性(intentionality)の概念が重要になってくると思われる。ここで、志向性とは、ブレンターノが心的表象に特有の性質とした性質で、私たちの心が「○○に向かいあっていること」(directedness)を指す。両眼視野闘争や、ブラインド・サイトなどの現象を含めた視覚的アウェアネスの性質を説明するためには、志向性を、クオリアとは別の心の表象の要素と考える必要がある。
志向性と視覚的アウェアネスに関するTokyo '99の発表のabstract
現代物理学では、時間の中で「今」には何の特別な意味もない。心の起源を明らかにするためには、最終的には、「今」(Now)が特別な意味を持つような時間の構造をつくり出す必要がある。
空間の中で、「私」という視点が占める特別性と、時間の流れの中で「今」という時点が占める特別性の間には、何らかの内的な関連性があるように思われる。
脳の情報処理プロセスの中には、明らかに非局所的と見える側面がある。この非局所性(non-locality)は、量子力学の非局所性と必ずしも関連性をもつとは限らない。むしろ、量子力学との関連で言えば古典的な時空から、相互作用同時性を通して構築されるある種の非局所性と関係している可能性がある。
上の点に関連して、相対論的な時空は、必然的な非局所性を含み、それが量子力学の非局所性につながっている可能性がある。この点において、ミンコフスキーによるアインシュタインの相対論の数学的定式化は不完全である可能性がある。
計算可能性は、心の本質の議論において、あまり重要な意味を持たないかもしれない。例えば、デジタル・コンピュータによってシミュレーションが可能であるということは、必ずしも、脳を理解する上でチューリング・マシーンのメタファーが有効であるということを意味しない。あり得る一つの可能性は、脳の情報処理プロセスはチューリング・マシーンでシミュレーション可能であるが、情報処理の本質は、チューリング・メタファーでは有効に理解できないということである。
クオリアの問題を解決するための方法論としてもっとも重要なのは、逆説的であるが、この問題が安易に解けたという幻想を持たないこと、そのような「無知の知」で武装することである。Strong AIの主張者は、この「無知の知」そのもの、ないしは、そのような認識に至る感受性、論理性を欠いていたがために心のモデルに到達できなかったのである。
クオリアとニューロンの時空的発火パターンの間の相互関係の解明の最初のターゲットとしておそらく適切なのは、「色」(color)のクオリアである。
クオリアの起源を知的に把握するのと同様、「主観性」の起源を知的に把握することにも、現時点では深刻な方法論的困難がある。まず、この困難がいかに深刻なものであるかを理解する必要がある。Chalmersは、クオリアの問題が心脳問題におけるhard problemだと述べたが、同様に、主観性の問題も、hard problemであることを認識する必要がある。
ニューロンの発火とクオリアの間の対応関係を考える際には、ニューロンの発火の時空間的なパターンに様々な変換を施した時の不変性が問題にされなければならない。
方法論的に重要なのは、クオリアの質感そのもの(例えば、「赤」という色の質感そのもの)が、クオリアを感じる枠組みである主観性の構造そのものに依存するかどうかを明らかにすることである。
心的現象が随伴現象であるという仮説は、おそらく最終的には捨て去られなければならないだろう。あからさまでトリヴィアルな二元論に陥ることなくこのジャンプを行うためには、二項間関係に基づく従来の自然法則の形態を根本的に見直す必要があるだろう。
「相互作用同時性の原理」などの考え方に基づく時空構造は、必然的に量子力学的な非局所性を含むだろう。すなわち、神経回路網という古典的な力学の上に、量子力学とは無関係に、非局所性をその特徴とする力学構造を作り上げることが可能になると考えられる。このことが、「統合された並列性」などの、意識を特徴づける性質と深く関係しているだろう。
「主観性」は、何らかの特異点として表れ、その周囲では、情報のある側面に関する保存則が破れていることが見い出されるだろう。
クオリアや主観性の基礎を明らかにすることは、自然科学の問題だけではなく、より一般の人文的文化にも大きなインパクトを持つことになる。
視覚の芸術である美術、聴覚の芸術である音楽、言語の芸術である文学などの人文的文化は、「クオリア」と「主観性」を前提にした人間の活動である。一方、従来の自然科学においては、「クオリア」や「主観性」が何らかの本質的役割りを果たす余地は全くなかった。したがって、ここに、C.P.Snowの言う「二つの文化の対立」の根本的原因があった。
例えば、ヴァイオリンの音を周波数分解しても、それはヴァイオリンの音のクオリアを理解する上では何の役にも立たない。同じように、色とは光の波長のことであるというのは、おおいなる誤解である。音楽における「美」を、シャノン的な情報論的観点から、あるいはダーウィン的な進化論的観点から論ずるのは全くのナンセンスである。音楽の美は、音楽を構成するクオリアに即して研究されなければならない。音楽を構成するクオリアが音という物理的刺激によってもたらされるというのは単なる偶然である。本質的なのはクオリアの方であって、音という物理的刺激の属性の方ではない。
デジタル情報処理技術の発達は、人文的文化と自然科学的文化をつなぐ最初のきっかけとなった。しかし、ここで用いられている情報のコーディングは、情報の伝達、貯蔵においては有効であるものの、人文的文化の本質である情報の意味には全く関係を持たない。人文的文化における意味を扱うには、ニューロンの発火から「クオリア」が生まれる原理に基づく、「クオリア・コーディング」を用いなければならない。
未来感覚とは、一瞬先の未来が、過去から現在までとは全く異なるものになりうるという可能性への緊張感を孕んだ感受性を持つことである。クオリアの問題を解明する上では、未来感覚が大いに必要になる。
今日においては、宗教的な体系性(キリスト教、仏教、イスラム教)などは、形而上的な意味は持たないだろう。しかし、社会学的には、依然としてこのような体系性が一定の力を持っていることも確かである。このような宗教的価値の体系性(キリスト教、仏教、イスラム教)は解体されなければならない。宗教的感情もまたクオリアであり、それは、脳の中のニューロンの活動パターンと相関を持つ。トマス・マンは、全ての芸術の究極のあこがれは、宗教的儀式であると述べた。芸術と宗教に共通の要素は、それらがクオリアに直接訴えかけるということである。クオリアの起源が明らかにされることによって、宗教的価値と芸術との共通の基盤が示されるだろう。
宗教的感情と、宗教的体系を区別するべきである。たとえば、キリスト教の教会へ行って、パイプオルガンを聞くと、ある種の感情が芽生える。この感情のクオリアは、原理的にはキリスト教とは無関係なものである。人々のキリスト教のイメージの中に、パイプオルガンの音は非常に強く根付いている。だが、パイプオルガンを聞いた時に心の中に引き起こされるクオリアが、仏教と結びついても良かったはずだ、ここには歴史的偶然が大きく関与している。キリストの生涯といった歴史的装置は、単にキリスト教という宗教の体系性を偽装するために存在しているだけで、さまざまな宗教的感情を、この体系性の中に埋め込まなければならない必然性は本来ない。宗教を構成するさまざまな感情や概念(これらもクオリアに他ならない)を一度諸宗教の体系性の圧政から解放して、一つ一つの起源と、その真実性を検証する必要がある。
人間の脳の中のニューロンのコンフィギュレーションから、人間の心の中で感じることのできるクオリアのカテゴリーには限りがある。人間の心が感じることのできるクオリアは、本来のクオリアの空間の膨大な可能性のごく一部であることが認識される。つまり、人間には、本来無限に存在するクオリアのレパートリーの一部しかアクセス可能ではないのだ。このような認識は、従来形而上学と言われていた分野の実在性についての見直しにつながるだろう。その結果、形而上学が復活するだろう。
革命が近い。単なる科学革命ではなく、人間存在の拠って立つ基盤自体が変化し、私たちと世界の関係自体が変化するような革命の足音が聞こえはじめている。
人間とは何か、人間はどこから来てどこへ行くのか? このような究極の問いに答えるための鍵となるステップが今や見えてきている。
人間とは何かという問いに答える鍵は、私たちの心の中のクオリア、及びそれを支える主観性の構造の物質的基礎を明らかにすることである。
クオリアや主観性の起源を明らかにすること以上に重要な知的チャレンジは存在しない。
私たちがクオリアや主観性の起源を理解した時、その認識が私たちの人間観、世界観をどのように変えるかはわからない。来るべき認識革命の後で私たちの迎える状況がどのようなものになるにしろ、その可能性が今や開かれていること、そして、認識革命に至る道筋は論理的な議論とち密な思考と知的な勇気によって開かれうることを再確認しておこう。
クオリアの問題の解明には、論理的厳密性、開かれた感性、そして、今までにない思考のプロセスに踏み出す、知的勇気が必要である。
クオリアの問題の解明は、一個人では不可能である。自然科学者、数学者、芸術家、宗教家、心理学者、社会学者、全ての分野の優れた知性が共同し、総合的文化運動を起こさなければ、クオリアという人間の存在にとって核心的な概念の解明は可能にならない。
今や、勇気あるステップを踏み出す時機が熟している。
知的に誠実であり勇気を持つ者達よ、「クオリア」の解明のために団結せよ!