「最も印象に残った投稿賞」Top Pageに戻る

 

心脳問題ml、最も印象に残った投稿賞

qualia ml Most Impressive Submission Award

第6回

[qualia:5001] -[qualia:6000]

(Wed, 7 Feb 2001 12:11:03 +0900 - Mon, 8 Oct 2001 12:11:22 +0700

[qualia:5241] RE: 赤の赤さそのものへの驚愕 by 塩谷賢

 

Delivered-To: qualia@freeml.com

From: "Ken Shiotani" <saltcat@bc4.so-net.ne.jp>

To: <qualia@freeml.com>

Subject: [qualia:5241] RE: 赤の赤さそのものへの驚愕

Date: Mon, 12 Mar 2001 16:17:07 +0900

X-Priority: 3

Reply-To: qualia@freeml.com

X-Ml-Name: qualia

X-Ml-Count: 5241

Sender: post-qualia@freeml.com

Delivered-To: FreeML mailing list [qualia]

 

ML 掲示板: http://www.tcup1.com/155/kenmogi.html

ML HOME PAGE: http://www.qualia-manifesto.com/mail.html

ML Log: http://www.voidspace.com/archive/qualia/ml/logs/

ML members profile: http://www63.tcup.com/6331/qualia10.html

ML Admin: 茂木 ML Moderators Bartok伊藤、かとう、塩谷、羽尻

 

 

 

塩谷です。

 

>塩谷さん、知恵熱は収まりましたか?

 

どうも熱が知恵がつくには低かったようです。

55℃ぐらいになれば少しは何か変わったかも、、、

 

>>>感覚与件としては、今」「私」の特異性と結びついて常に「現在」

しかないのに、

>>というよりも「私」が消去された安定的な?第三者的視点による物理

記述的性格を持

>>つモノであり、

>>この意味で時間の中の「現在」というよりも、無時間化(ベルグソン

なら空間化)さ

>>れた領域に属するものです。

>

>時間は、それが物理学の方程式の中に現れる限りは、t(実変数)

>という形で、表現され、それで尽きている。

>しかし、少なくとも、我々が主観的表象の中に把持する時間は、

>「今」とか、「これから来る」とか、「もう過ぎ去ってしまった」、

>「取り返しがつかない」といった表現を冠することができるような

>ある原始的な属性を持っている。

>このような原始的な属性をそぎ落とすことで、tというパラメータで

>表現することが可能になっている。

>別の言い方をすれば、tというパラメータが志向する内容(それは

>「実数」と通常言われるある数的世界のわけですが)は、

>実は我々が通常「時間」という概念で志向させている内容とは

>異なるということですね。

 

この場合、何が異なっているかが問題なのですが、一つには「可能性」

と「現実性」の関係が問題です。

 

郡司さんなどとも議論していることですが、単なるリストとしての可能

性、事後的に振り返って見る可能性は少なくとも生体の自然的な振舞い

のメカニズムに関わるものとはズレているところがあるように思いま

す。

事後的な可能性把握のパターンは、むしろ「意味」を前提とする思考に

良く見られるものです。この方向は精神分析などの論法とくにラカン的

な構造の逆転において、「空虚」や「マスターシニフィアン」、「中心

からのズレ」、「主体」と「自我」の分離、欲望と欲動の対立、といっ

たところのベースにあるように考えられます。

ラカンの『エクリ』にある3人の囚人の話が彼の時間に関する考察であ

ることのベースには、時間がこのような事後的可能性、未来(今だ存在

しない不在)の現在性に支えられた意味的時間として与えられるのでは

ないか、と思います。この限りではラカンの仕組みはすべて心の中から

の、力動の内包的把握の構造記述(その典型は享楽=ジュイサンスの命

令や超自我の呼びかけ)となっているのでしょう。そして心の外?との

接点はまさに決して現前しない、トラウマの原因として不在の形、空虚

な形で現実に存在する非在の「現実界」であるわけです。これそのもの

についてはそれ以上は語られない、語ろうとすると心=意味の構造領域

の形式に落ちるしかないということになります。

これは茂木#5220での自由意志の存在の難しさと全く同じ構造が、精神

分析をある方向で理論的に徹底させたラカンにおいても見られるという

とても面白い対応?です。

 

これから言えそうなことは、ここで問題になっているのは通常の空間に

下属した意味区分によっている身体界面を境界とした主観vs客観の対立

の問題ではない、ということです。感覚与件とクオリアをこの一見わか

りやすい対比の次元の中で枠付けることは根本的なところを隠蔽してし

てしまうように思われます。

(その意味では僕の#5204はこのつまらない方向に一見見えるところが

あります。短い言葉での説明は難しいものですね。)

 

何が欠けているか?その一つは、生体にとっての「新しさ」とはなに

か、生成における新しさはなにか、それを事後的な可能性という形式で

はなく語る方法、近づく方法は何か、ということでしょう。

この「新しさ」は多分、一定の内包的な「幅」を必要とします。それゆ

え連続体上の各点にまんべんなく配置しようとすると、連続体上の関数

空間のように記述されてしまう。ところがその理解に連続体が直接に引

用されると結局id:C→Cの特権性が前提とされてしまう。ここに変換群

のほうに視点をスウィッチする現代の幾何の手法から連続体に迫るなど

の発想の転換が必要でしょう。

上のことは、生成、とくに未来においてはいかなる背景も定まっていな

いという見方の下でのゼノンのパラドックスの考察とも関連します。積

分空間が前もって与えられていないという条件の下での今における生成

の問題として見るということです。

 

>同じことは、「空間」、「質量」などを実数パラメータであらわす時

にも

>言えそうです。

可能性ということでは時間が直感的に直結しているのですが、量に対す

る反応が可能性含みのものであるところに問題を持っていくとこのこと

はハッキリするでしょう。多分アフォーダンスの情報処理は本当は可能

性の指標としての空間や形態の問題なのではないかと思います。

 

量子論の話がクオリアに本当に関係してくるのは、この問題の形式をど

うするべきかというところのヒントとしてであり、事後的可能性を配分

する単なる確率自由度の実現の枠としてではない、と考えています。

 

Ken

 

 

インパクトのあった投稿をノミネートしよう! 

第6回最も印象に残った投稿賞(qualia:5001-6000)

のノミネーション受付中。

http://server.com/WebApps/byo.cgi?id=55549