一網打尽 茂木健一郎
養老孟司著『人間科学』書評
筑摩書房 『ちくま』所収
周知のように、養老孟司氏の趣味は、昆虫採集である。
ハムシ、カメムシ、ゾウムシの類は、一つのグループだけで数百種類もいる。種の同定はしばしば困難である。とにかく「一網打尽」に採ってきて、家でじっくりと同定するしかない。そんな話を伺ったことがある。その時、私は、子供の頃蝶を集めていましたが、日本の蝶は二百数十種しかいません。誰もが欲しがる「スター」の蝶は決まっていて、見るだけで判ります。だから、欲しい蝶だけを捕るのです。そう申し上げた。
その「一網打尽」の大先輩が、新しい本を出された。「人間科学」というタイトルである。タイトルを見ても、今までの氏の思索の集大成的な意味を持っているということが判る。
世界全体を把握したいというのは、人間が大昔から持っていた欲望である。物理学は、ニュートン以来、数式で世界を記述しようとしてきた。ダーウィンは「進化」で生命現象を理解しようとし、マルクスは経済により人間社会を把握しようとした。それぞれ、それなりに成功し、限界もあった。
そこで、「人間科学」である。「万物の尺度は人間である」という言葉がある。人間から出発することで、他のアプローチにはない視点がもたらされる。認識のプロセス自体を問うことで、いわばメタな位置から、世界の見え方が変わるのである。
例えば、「同一性」と「差異」という認知の基本的な要素について、養老氏は重大な指摘をする。「同じ」と「違う」は言語という形式の中では等価のように見えるが、両者の間には実は非対称性があるというのである。AとBが違うことを証明するには、ただ一点だけ、相違点を指摘すれば良い。一方、AとBが同じであることを証明する作業は、決して終わらない。終わるとすれば、目的に反して、差異が見つかった時である。だから、「同じ」と「違う」における情報と実体の関係にはズレがあるというのである。
「同じ」、「違う」という切り口は、金太郎飴のように至るところに顔を出す。日本人は外国人に比べてユニークなのか? 今の子供たちは、昔の子供たちと同じなのか? 養老氏の引力圏を通過した後では、このような議論をナイーヴに行うことはできなくなる。世界が変わって見えるのである。
「同じ」と「違う」の問題は、変化と固定の問題とも関連する。情報は固定しているが、脳は毎日変わる。映画は何回上演しても同じだが、我々の感想は毎回変わる。このことが、脳と情報のかかわりを考える上で重要だと養老氏は言う。そして、脳という生きているシステムが、自己同一性という「固定そのもの」を生み出すことに関わるのが「意識」だと指摘する。
上のような人間の認識の癖は、ほとんどが無意識の中に沈んでいる。だからこそ、我々はそこから逃れることが難しい。本書で、無意識と意識の関係は、都市と自然の関係に絡めて議論されることになる。その詳細は読んでもらうしかない。
私は、本書を、人間の認知プロセスを通して世界観を再構築する試みとして読んだ。それは、私自身の認識の癖である。一方、養老氏は常々統一原理というのはヤバイよと言われる。世界の統一理論としての「人間科学」をうち立てるなどという発想自体、人間の認識の罠だとお考えだろう。ハムシ、カメムシとか、わけ判らないのが世界にはうじゃうじゃといるでしょう。君がやっていた蝶みたいに、ひと目見て重要かどうか判るなんてことはあり得ない。そんな養老氏の声が聞こえる。
少年期の昆虫採集と大人になってからの世界観の志向性。認識の癖は思わぬところと思わぬところがつながる可能性がある。脳は一つだからである。そのことに、我々は普段あまりにも無自覚である。むろん、昆虫採集は特殊な例だ。一人の人間の世界観が育つ上で、認識の癖をもたらすものは無数にある。
グローバリズム、構造改革。そのような統一原理で未来が開けると思うのは、現代の認識の癖であろう。養老氏の「一網打尽」の中に入って、少し内省して見る必要がありそうである。