量子脳理論に対するコメント
茂木健一郎
(c)茂木健一郎 2000(c)サイアス 2000
「意識は不思議だ。量子力学も不思議だ。だから、両者は関係があるに違いない」
こんな単純な発想だなどと揶揄されながらも、意識と量子力学との関係を論ずることは、依然として流行している。例えば、最近では、ペンローズの「皇帝の新しい心」や、ドイッチュの「世界の究極理論は存在するか」はそのような系統に属するだろう。
特集「脳と心の物理学」の論文の中で、保江と治部は、しばしば意識との関連が取りざたされる、「古典的な量子力学」と場の量子論の違いを強調している。例えば、前者は有限個の自由度を扱い、後者は、無限個の自由度を扱う。この結果、ミクロとマクロの間の関係が、「古典的な量子力学」と場の量子論では違ったものになる。保江と治部は、場の量子論を考慮せずに、意識と量子力学との関連を論ずることは不十分だと主張する。この点については、著者たちの主張に傾聴すべき点がある。
場の量子論の解説としては、治部・保江論文は大変読みやすく、また本質を突いている。しかし、肝心の場の量子論と意識の間の関係についての議論はどうかと言えば、そこにはかなり大きな「量子的飛躍」があると言わざるを得ない。
場の量子論と意識の関係を考える時の一番の問題点は、ニューロンの細胞膜上の分子や、その周囲の水分子のダイナミックスを記述する自然法則として、著者達が主張するように場の量子論が有効だとしても、それが、私たちが意識と呼ぶものに直接の関係を持つのかという点にある。私を含め、脳科学に携わる研究者の多くの直感的な答は、「ノー」である。そして、それには十分過ぎるほどの理由がある。
脳科学者は、現在、我々の心の中に浮かぶ様々なもの、例えば、「薔薇の赤い色の質感」や「テナーサックスの音色」のようなクオリア(感覚を特徴づける鮮明な質感)は、ニューロンの発火(活動膜電位)に伴って生じると考えている。別の言い方をすれば、意識を論じる際に、適切な現象のスケールは、ニューロンの発火のレベルであると考えている。ニューロンの発火に至らない、細胞膜電位の変化や、細胞膜の周囲の水分子の状態変化、さらには、ニューロンの核の中の遺伝子の修飾状態の変化などは、それらがニューロンの発火に与える影響を通してのみ、意識に間接的に影響を与えると考えている。
脳科学者が上のように考えるのは、神経心理学における、膨大なデータの蓄積があるからである。例えば、猿のMT野と呼ばれる領域のニューロンの発火は、運動の認識と深く関わっており、猿が運動の方向の認識に基づいて行う反応と高い相関を持っていることがわかっている(Newsome et al. 1989)。私たちは、ある部分の色を、周囲の色と比較して、全体のコンテクストの中で認識している。昼間と夕方では、反射される光の波長構成が大きく変化するのに、赤い色の屋根が同じ赤に見えるのは、このためである(色の恒常性)。色の恒常性を満足する形で色を表現しているニューロンは、V4野という脳の領域で発見されている(Zeki 1993)。形の認識の中枢であるIT野では、基本的な形の組み合わせに対して特異的に反応すると思われるニューロンが見い出されている(Fujita et al. 1992)。いずれの場合も、我々の認識と相関を持つのは、ニューロンの発火というマクロな現象であって、ニューロンの細胞膜の周囲の水分子の状態ではない。
ニューロンの発火が、脳の情報処理において基本的な「単位」となると考えることは、発火がしきい値を持つ非線形現象であることや、ニューロンは、例外を除いて、発火した時に初めて隣のニューロンとシナプスを通して相互作用する(すなわち、神経伝達物質の放出及び受容体への結合が起こる)ことを考えても、自然な発想であると考えられる。
では、治部、保江論文に取り上げられていた、細胞膜の周囲の水分子の量子状態は、我々が意識と呼ぶものに全く関係がないのだろうか?
無関係であると切り捨てることもできるのだが、実は、ここには、微妙な問題があると私は考えている。確かに、脳の中の情報処理を考える上では、ニューロンの発火と、そのシナプス相互作用を考えればほぼ十分である。しかし、一歩進んで、治部、保江論文にも取り上げられていた意識の難問題、例えば、脳の中の物質的な過程から、いかにして、「赤い色の感じ」などの鮮明なクオリアが生まれてくるのかという問題を考える際には、ニューロンの発火を単位として考えるのでは、不十分な可能性がある。
この点について議論するには、情報のコーディングについて、少し突っ込んで考えて見なければならない。
一般に、私たちは、「変化するもの」を通して、情報をコードする。例えば、コンピュータの中では、ビットが0と1のどちらかに変化することによって、情報をコードしている。この時、実は、全ての情報に共通な、変化しないものがある。すなわち、一つ一つのビットが、具体的にどのような物理的過程によって表現されているかということである。ビットを表現しているものは、微少磁場の変化かもしれないし、コンデンサに貯えられた電荷かもしれない。いずれにせよ、ビットを表現する具体的な物理的過程は、全ての情報表現に共通の「変化しないもの」だから、通常、情報の表現を考える時には、考慮されないのである。このことは、シャノンにより情報量の定義を思い出しても、明らかなことだろう。
別の見方をすれば、このような、全てのビットに共通の「変化しないもの」があるからこそ、ビットが0と1の間で移り変わるという「変化」による情報表現が可能になっている。もし、ビットを表現する物理的過程が、その度に変わっていたら、安定した情報表現が得られなくなってしまうだろう。
脳の中では、ニューロンが発火するかどうかが、ビットの変化に対応している。脳の中の情報は、ニューロンの発火というビットの変化によって表現されているのである。細胞膜の周囲の水の状態は、全てのニューロンの発火、休止に共通な物理的過程に関わっている。つまり、それは、シャノン的な意味での情報表現にあらわには入ってこないのである。神経生理学者がニューロンの発火には興味を持っても、細胞膜の周囲の水の量子場に興味を持たないのは、そのためだ。
通常の意味で情報の表現を考えている限り、私たちはビットとしてのニューロンの発火の変化を考えれば良い。このことは、治部と保江の量子脳理論に不利な点である。しかし、一歩進んで、クオリアのような意識の本質的属性を考える際には、根本的な自然法則の表現の一つである場の量子論が必要であるという可能性が出てくる。なぜならば、クオリアの性質、例えば、「赤い色の質感」の性質を問う時には、通常の意味での情報のコーディングの問題を突き抜けて、そもそも情報をコードしている個々のビットが、どのような物理的過程であるかが問題になってくる可能性があるからである。通常の情報表現では問題にされない、全てのビットの状態に共通な「変化しないもの」の性質が問われてくる可能性があるのだ。この場合、場の量子論は、ニューロンの発火というビットの背後にある物理的過程の詳細に関わる理論として、クオリアなどの意識の属性に、間接的、直接的に関わってくる可能性が出てくる。もっとも、このような可能性を、十分に追究することに成功した研究は、まだ存在しない。
ここで重要なのは、もし、本当に意識が何かを知りたいとすれば、神経心理学などの成果を踏まえた上で、場の量子論の役割を考慮しなければならないということである。先に挙げたような神経生理学のデータに照らして、クオリアなどの意識の性質を理解しようとすれば、脳全体をシステムとして考えなければならないことは明らかであり、システム論的なコンテクストに埋め込むことなしに、ニューロンの細胞膜周辺の物質の性質を論じていても、あまり有意義とは思えない。
実際、意識を巡る脳科学は、ますます、脳全体をシステムとしてとらえる方向に向かっている。例えば、「見る」という一見簡単な行為でさえ、古典的な意味での視覚野に収まらない脳全体の問題であることがわかってきている。例えば、視覚における「見え」の変化が、視覚野のみならず頭頂野や前頭前野のニューロンの活動の変化を伴って生じているという結果も得られている(Lumer et al. )。視覚や聴覚、触覚といった感覚のモダリティの間の境界も、次第に取り払われてきている。溝の傾きを触覚を通して判断する際に、視覚野の中のV1野のニューロンの活動が必要であるという研究もある(Zangaladze et al. 1999)。また、前頭葉の運動前野には、自分がある行為をしても、他者が同じ行為をしても同じように発火する「ミラー・ニューロン」が発見されている(Gallese & Goldman 1998)。ミラーニューロンのような性質を持ったニューロンが出現するためには、感覚情報と運動情報が統合され、脳全体を巻き込んだ情報処理が行われなければならないことは明らかであろう。このような最近の神経生理学の知見は、意識が、脳全体からシステム論的に立ち上がってくる性質であることを示している。このような、最近の脳科学の「システム論的革命」とでも言うべき動きを見ていると、治部、保江論文に見られるような、ニューロンの細胞膜の周囲の物性を記述する場の量子論と意識の間の直接的関係を求めようとするアプローチは、どこか浮き世離れした印象を否めない。実際、意識を記述するメタファーとしては、場の量子論より、オペレーティング・システム(OS)の方が、よほど適切なのではないかと思われるほどである。
もちろん、場の量子論がもっとも基本的な自然法則の表現の一つであることは間違いない。そして、どこか微妙な点で、意識の属性が場の量子論のような基本的自然法則に依存している可能性は否定できない。しかし、脳のシステム論的なコンテクストを無視して、ニューロンの細胞膜の物性にいきなり飛ぶことが、意識を巡る有意義な議論に結びつくとは私には思えない。むしろ、必要とされているのは、情報の表現とは何かという根本的な問題について理論的考察を進めながら、ニューロンの発火活動から構成される脳全体のシステム論的なコンテクストの中に、場の量子論のような基本法則を埋め込むことが可能なのかどうか、そのことを問いかけることではないだろうか。
治部、保江論文が、大胆な「量子的飛躍」を行おうと試みた勇気は評価されるべきだろう。だが、そのような飛躍を可能にし、場の量子論と脳のシステム論的な性質を結び付ける翼が何なのか、その設計図すらない状況では、説得力は極めて弱いと言わざるを得ない。治部、保江両氏が将来、そのような翼の設計図を携えてあらわれることを期待したい。
参考文献
脳と心の物理学 保江邦夫、治部真里 サイアス 1999年12月号73頁〜89頁
ロジャー・ペンローズ著、林一訳「皇帝の新しい心」 みすず書房 1994年
デイヴィド・ドイチュ著 林一訳「世界の究極理論は存在するか」朝日新聞社 1999年
Newsome W.T., Britten K.H., Movshon J.A. (1989) Neuronal correlates of a perceptual decision. Nature 341:52-54.
Zeki, S. A Vision of the Brain Blackwell. (1993)
Fujita I, Tanaka K, Ito M, Cheng K. (1992) Columns for visual features of objects in monkey inferotemporal cortex. Nature26;360(6402):343-6
Lumer E. D., Friston K.J. & Rees G. ( 1998) Neural correlates of perceptual rivalry in the human brain. Science ;280(5371):1930-1934.
Zangaladze, A. Epstein, C.M., Grafton, S.T. & Sathian, K. Involvement of visual cortex in tactile discrimination of orientation. Nature 401, 587 - 590 (1999)
Gallese V. & Goldman A. (1998) Mirror neurons and the simulation theory of mind-reading. Trends in Cognitive Sciences 2, 493-500
V1 paper
茂木健一郎 「脳とクオリア」 日経サイエンス社 1997年
茂木健一郎 「心が脳を感じる時」 講談社 1999年