量子力学のニューウェーブ
ー非局所性の現代的展開ー
「サイバーX」掲載 (c)茂木健一郎 1999 (c)サイバーX 1999
茂木健一郎
<量子力学の非局所性>
最近、量子力学が熱い。
量子計算、量子暗号、さらには量子テレポテーションなど、画期的な理論、実験の研究が次々に報告されている。量子力学なんて、とっくに完成した古い理論だと思っていた人達には、新鮮な驚きの連続だ。まさに、量子力学のニューウェーヴ(新たな波)が到来したような状況なのだ。そして、これらの新しい研究動向を読み解く鍵は、量子力学が持つ、「非局所性」(nonlocality)という概念にある。ここに、「非局所性」とは、空間的、あるいは時間的にさえ離れているイベントどうしが、ある条件下では深い因果的関連性を持つというという量子力学の性質である。量子力学を巡って報告される最近の論文は、一見あまりにも古典的な「常識」とかけ離れた内容であるために、SFでも読んでいるような気分にさせられる。しかし、すべては、量子力学の体系の中にもともと潜んでいた「非局所性」に基づいて導かれる、自然の真の姿なのだ。
<アインシュタインの先見性>
実は、量子力学の中に潜んでいる非局所性にもっとも早く気付いた研究者の一人が、あのアインシュタインである。
アインシュタインと量子力学の関わりというと、どちらかと言えば、量子力学の標準的な解釈であるコペンハーゲン解釈に対して、生涯反対し続けた、「反逆者」というイメージが強い。もちろん、そもそも量子力学の発見の基礎の一つとなった光量子仮説(光は、波としても振る舞うが、粒子としても振る舞う)を最初に示したのは、「奇跡の年」1905年のアインシュタインの論文である。後にノーベル物理学賞受賞の対象になったのは、相対性理論ではなく、この光量子仮説だった。つまり、アインシュタインは、量子力学の創始者の一人と言っても良いのである。
しかし、その後のアインシュタインは、量子力学の発展に積極的に寄与したというよりは、どちらかと言えば古い考え方に固執し、量子力学が開いていった新しい世界観を受け入れなかった旧時代の人である、そのようなイメージが流通している。
しかし、このような見方は、あまりにも一面的なように思われる。最近ではペンローズが「皇帝の新しい心」の中で指摘したように、量子力学のコペンハーゲン解釈は、完全な最終版というには程遠い。アインシュタインが指摘した、量子力学のフォーマリズムの持つ欠陥は、今でも除去されないまま残っている。将来、アインシュタインがコペンハーゲン解釈に対して唱えていた異義に正面から取り組むことによって、新しい理論が生まれてくる可能性もある。
量子力学の現代的な展開という側面から見ると、アインシュタインが、非常に初期の段階で、量子力学の理論体系が必然的に非局所性を含むことを指摘していたことの歴史的意義は大きい。
1935年にポドルスキー、ローゼンらと一緒に提出した論文の中で、アインシュタインは後に3人の頭文字をとってEPRパラドックスという名前で呼ばれることになる思考実験を提出した。
アインシュタインたちが注目したのは、スピンを巡る量子力学に特有の性質だった。例えば、ある瞬間に相互作用した後、お互いに離れていく二つの粒子を考える。遠ざかっていく間、二つの粒子は他の粒子と相互作用しないものとする。初期状態において二つの粒子のスピンの和が0だったとすると、どんなに離れても、二つの粒子のスピンの和は0のままである。このような状態を、二つの粒子が量子的に「絡み合った」(entangled)状態であると言う。
さて、二つの粒子が十分離れた瞬間に、例えば左側の粒子のスピンのx成分を観測した結果、それが+1だったとすると、自動的に、右側の粒子のスピンのx成分はー1であるということになってしまう。このような結果は、あたかも、片方の粒子に対して行った観測作用の効果が、瞬間的に他方の粒子に及んでいるように見える。しかも、スピンのどの方向の成分を観測するかによって、この瞬間的な効果は異なってくる。また、二つの粒子がどんなに離れても、例えば何光年も離れても、この効果はなくならない。とにかく、片方の粒子のスピンを観測した瞬間、もう片方の粒子の観測結果が影響を受けるように見えるのである。このような非局所性は、古典的な常識から言えば、とんでもないもので、自然法則の中で許容されるとは思えない。
アインシュタインたちの論文の主張は、このような非局所性が存在するから、量子力学の記述は完全とは考えられないというものだった。つまり、非局所性をむしろ否定する立場だったのである。しかし、後にJ・S・ベルの理論的仕事を受けて、アスペが行った実験により、実際にこのような非局所性が量子力学には存在することが、確認されてしまった。アインシュタインが、「「非局所性」があるから量子力学は駄目なのだ」としたことは、いわばやぶ蛇になってしまったのである。実際、量子力学には、本質的な意味で非局所性があるのだ。結果としては反対の結論になったとはいえ、アインシュタインが、量子力学の非局所性に注目したのは、なかなかの慧眼だったと言えるだろう。
<量子テレポテーション>
EPRパラドックスで示された量子力学の非局所性を、近年もっともドラマティックな形で示したのが、量子テレポテーションの理論的、実験的研究である。
テレポテーションは、SFでお馴染みのテーマである。すなわち、物体や人間を、離れた場所に瞬間移動してしまう技術である。10年前、テレポテーションが実際に可能だと不用意に喋ったと人がいたとしたら、人々はその人をマッド・サイエンティスト扱いにしただろう。だが、この、常識に反するようなテクノロジーが、量子力学の非局所性を用いると、実際に実現可能であることが過去数年の間に理論的にも実験的にも示されてしまったのである。もっとも、現在のところ瞬間移動できるのは、物体や人間といったマクロな状態ではなく、ミクロな物質の状態に過ぎないのだが。
1993年、IBMの研究所に所属するベネットらは、EPRパラドックスのような状況を用いると、テレポーテションが理論的に可能であることを示した。正確に言えば、この際に瞬間転送されるのは、物質そのものではなく、物質の状態である。例えば、アリスが持っている粒子がある状態|↑>にあったとすると、遠く離れた地点にいるボブの粒子が、全く同じ状態|↑>になるように瞬間的に情報を伝えられるのである。ただし、この際、オリジナルの粒子の状態は「破壊」されてしまう。アリスからボブへ状態を瞬間転送した場合、ボブの粒子が状態|↑>になるのと引き換えに、アリスの粒子の状態は壊されてしまうのだ。また、この瞬間転送の際に、転送の対象の状態についての情報を得ることはできない。古典的な意味での情報伝達には使えないのだ。
ベネットらのシステムの工夫は、EPRのようなタイプの系と、古典的な情報伝達チャンネルを組み合わせたところにあった。今、アリスが粒子1を持っているとする。さらに、アリスとボブは、EPRの場合のように絡みあった(entangled)量子状態(必ず反対の状態を取る状態)にある二つの粒子(粒子2、粒子3)を一つづつ持っているとする。ここで、アリスが、粒子1とEPRの片割れ粒子2を絡み合いを起こさせる可能な方法(4つある)のうち、適当な方法(例えば3番目の方法)で「観測」して、粒子1と粒子2が、絡みあった量子状態(必ず反対の状態を取る状態)になるようにする。(図1)
すると、
「粒子2は、粒子1と反対の状態」
「粒子3は、粒子2と反対の状態」
だから、ボブの持っているEPRの片割れの粒子3は、ちょうど粒子1と同じ量子状態になることがわかる。しかも、粒子2が粒子3のかわりに粒子1と絡み合った状態になったことにより、粒子3は絡み合いから解けた状態になる。こうして、アリスの持つ粒子1の状態が、絡み合いの交換(entanglement swapping)を通してボブの持つ粒子3の状態に コピーされたことになるのである。
この後、アリスは、絡み合いを起こす可能な4つの観測のうち、どの観測方法で粒子1と粒子2を絡み合わせたかをボブに伝える。この時には、古典的な情報伝達路を使う。ボブは、アリスに指定された方法で、粒子を観測することによって、テレポテーションを完成する。
<図1 ベネットの提案したテレポテーション>
ベネットの提案は、単に、理論的可能性を示したものに過ぎなかったが、その後、オーストリアのザイリンガーらが、光子の偏光を用いて、実際に実験的にベネットの意味でのテレポテーションを実現することに成功し、『ネイチャー』誌に報告している。アインシュタインが最初に目をつけた量子力学の非局所性が、実験的に検証されたのである。
<量子計算、量子暗号>
量子テレポテーションほど劇的でもSF的でもないが、近い将来大きな実用的意味を持つかもしれない研究テーマもある。量子計算と量子暗号の両分野である。
量子暗号は、やはりベネットらによってその原理が提案され、「破ることのできない暗号システム」として注目されている。誰かが盗聴すると、その痕跡が残ってしまうのだ。また、量子計算は、最近になってNECの中村らによって工学的実現への道筋が付けられるなど、徐々に現実のものに近付いてきている。ショールにより、量子計算の下では 巨大数の素因数分解を古典的方法に比べて劇的に速く行うことのできるアルゴリズムが存在することが見い出されており、もし将来量子計算が実現すれば、暗号などの応用面に重大な影響を与えるものと考えられている。
これら、量子力学の現代的展開の全ての背後に、アインシュタインが生涯気にした「非局所性」が見えかくれすることは興味深い。
非局所性とともに、隠れた主役となっているのが、「観測問題」であることを考えると、アインシュタインの遺産の重みは増してくる。現在、量子計算の実現性に懐疑的な立場をとる人達もいる。彼等は、量子力学の観測問題が、コペンハーゲン解釈の下では未だ解かれたとは言えず、そのことが、量子計算で具体的に答えを求める時に必ず問題になるはずだとする。アインシュタインが、まさにこの観測問題に死ぬまでこだわったは言うまでもないだろう。
量子力学の最近のわくわくするような新展開は、ある意味では、アインシュタインの残した宿題を巡ってぐるぐる回っているとさえ言えるのかもしれない。現在私たちの持っている量子力学の体系は、最終的なものなのか? 本当の答えは、まだ誰も知らないのである。
参考文献
(1)Einstein, A., Podolsky, B., Rosen, N. : "Can quantum-mechanical description of physical reality be considered complete?" Physical Review 41, 777 (1935)
(2)ロジャー・ペンローズ著 「皇帝の新しい心」 林一訳 みすず書房 (1994年)
(3)Bennett, C. H. et al. Teleporting an unknown quantum state via dual classic and Einstein-Podolsky-Rosen channels. Phys. Rev. Lett. 70, 1895-1899 (1993).
(4)Bouwmeester, D., Pan, Jian-Wei, Mattle, K., Eibl, M., Weinfurter, H. & Zeilinger, A. Experimental Quantum Teleportation, Nature vol.390, 11 Dec 1997, pp.575.
(5)Bennett, C. H., Brassard, G. & Ekert, A. K. Quantum Cryptography. Sci. Am. 267(4), 50-57, October(1992).
(6)Schor, P.W. in Proceedings of the 35th Annual Symposium on the Foundations of Computer Science (1994)
(7)Nakamura, Y. et al. Coherent control of macroscopic quantum states in a single-Cooper-pair box Nature 398, 786-788 (1999)