雑誌「数理科学」No. 448, pp. 39-47 (2000年10月号)所収
茂木健一郎
ソニーコンピュータサイエンス研究所
意識における非局所性の起源
(c) 茂木健一郎 2000
1、世界の実相の明白な性質としての意識
脳科学が急速に発達してきている今日、次第に「意識」の問題に対する興味が高まって来ている。今迄、物質的な基盤が明らかにできなかった意識の様々な性質が、具体的な神経生理学的なデータの裏づけを伴って議論できるようになってきている。
ここで問題にしている「意識」とは、赤い色の質感、ヴァイオリンの音の質感など、私たちの感覚を特徴付ける「クオリア」(qualia, 感覚質)、そのようなクオリアに「向き合う」心の働きである「志向性」(intentionality)、クオリアや志向性が時空間の中で様々な形で結びついてできる私たちの心の中の表象(representation, Vorstellung)、そのような表象を統合する枠組みとしての「私」の存在、そしてそのような「私」の存在を自分自身が感じるという意味での「自己意識」などを指す(1)。
私たちの意識、及びその中に生じる心的表象は、脳の中のニューロンの活動の「随伴現象」(epiphenomena)であるというのが、現在、多くの脳科学者が意識に対して抱いているイメージである。ここに、「随伴現象」とは、脳の中の物質的なプロセスに伴って必然的に生じる現象で、それ自体は何らの因果的な意味を持たないということを意味する。つまり、意識があるなしに関わらず、客観的に見た脳神経系の時間発展は同じであるということになり、意識が脳をコントロールするといった形での「自由意志」の存在を否定する立場であるということになる。
意識の問題は、哲学の問題であり、科学の問題と関係がないという人もいる。しかし、私たちの意識の中の表象が、脳の中のニューロンの活動と極めて精密に対応して生み出されていることは、今日の脳科学の知見からして疑う余地がない。そもそも、目の前にある赤いものを見ている時に、「赤い色の感じ」が心の中に存在し、それを感じている「私」という存在があることは、それを哲学と呼ぼうと何と呼ぼうと、否定しようがない。もし、物理主義を典型とする科学的記述がこの明白な心の存在と属性を記述し得ないとすれば、それは、意識という現象が存在しないことを意味するのではなく、単に、科学は人間の心の中に浮かぶ表象の第一原因を説明できない、世界モデルとしては不完全な知の枠組みだということを意味するに過ぎない。そもそも、意識というものは、日常的な、ありふれた体験である。早い話が、覚醒時には存在し、深い睡眠時には存在しない「私」という心的表象の塊があることは否定できないのではないか。それを「意識」と呼ぶか、「情報処理プロセス」と呼ぶかは言葉の問題に過ぎない。このような意味での「意識」が存在するということは、人間を含む世界のあり方において、もっとも顕著な(manifest)事実の一つである。もし、意識という現象の存在を否定しようとすれば、かって私のケンブリッジ大学の同僚が断言したように、「私に関して言えば、睡眠時も、覚醒時にも、何ら本質的な差はない」(2)と言い張らなくてはならない。
意識の問題は、伝統的な意味で認識論的な文脈というよりは、むしろ、実在論的な文脈でとらえられるべきである。すなわち、意識は、我々の脳という実在の明白な一側面なのだ。現時点の知見を総合すれば、脳の中のニューロンの活動がある形で生じた時、どうやら必然的にクオリアや自己意識を含む心的表象が生じてしまうらしいのである。例えば、脳の中である特定のニューロンの発火パターンが生じた時、その脳の主体である「私」の心の中には、ある特定の赤のクオリアが生じてしまうのである。そこには、ある力の場の下で粒子がある軌道を通って動くというのと同じくらいの必然性がある。ただ、それが、因果的な必然性とは関係があるが、微妙に異なる必然性だというだけである。つまり、ニューロンの活動がある形で生じた時、それに対応する特定の心的表象が生じてしまうという、因果的な必然性とはまた別の方向の、必然的な自然法則があると見なすべきなのである(3)。意識は、自然現象の一部なのであり、脳のニューロンの活動と心的表象の精密な対応関係は、自然法則の一部だと見なされるべきなのだ。
とは言っても、意識の属性、例えばクオリアを、物質の数的、量的属性の時間的変化という、従来の自然法則の枠組みの中で理解することは困難だ。何でもいい、目の前にある赤いものを見てみよう。その時、あなたの心の中に生じている「赤い色の質感」自体を、数や量、シンボルで表現することは困難だということはしばらく考えてみれば納得できるはずだ。粒子の位置や運動量の時間変化ならば、時間とともに変化するスカラー変数で記述することができる。しかし、赤の質感と緑の質感の違いを、スカラー変数で記述することは不可能だ。それどころか、現在知られているあらゆる数学的概念で記述することも、おそらく不可能だろう。もちろん、色の感覚は、視野の中の光の波長分布からある計算過程で導かれることも確かだし(4)、二つの実変数と色を対応付ける標準的なコードも存在する。しかし、色の質感そのものは、そのようなマッピングでは決してとらえきれないユニークな質感を持っている。クオリアの問題が、意識における難しい問題(hard problem)だと言われる所以である(5)。
自然現象のうち、粒子の電荷、質量、座標、運動量など、定量的に観測され、実数ないしは複素数上の微分方程式で記述されるような側面だけを扱ってきた従来の物理科学の世界観には、重大な穴があると言わざるを得ない(6)。この穴を埋めることこそ、人類にとっての最大の知的チャレンジであると言って良い。
2、心的表象と脳の神経生理学的プロセスの間の関係
心的表象は、脳の中のニューロンの随伴現象として起こるというのが現在の通説である。そのことを視覚を例にとって、もう少し詳細に見てみよう。
例えば、私の目の前に、一本の赤い薔薇があったとしよう。私の心の中の薔薇のイメージは、様々なクオリアの塊として成立している。花びらを構成する様々な色調の赤のクオリア、茎、葉を構成する緑のクオリア、さらには、各部分に特有の視覚的テクスチャのクオリアが時空間的に秩序だった集合体となって、薔薇のイメージをつくり出している。
このような薔薇のイメージが脳の中のニューロンの活動から生まれてくるメカニズムは、その本質的な原理が現時点でわかっているとは言えない。しかし、現時点でも、神経生理学の知見からある程度の確実性を持って言えることがある。
まず、色やテクスチャなどの視覚的クオリアは、網膜から視床のLGNと呼ばれる核を経由して最初に大脳新皮質に入る部位である後頭部の第一次視覚野(V1)におけるニューロンの活動を必要要素として成立する。もし、V1が何らかの理由によって失われると、その患者は、一切の視覚的クオリアを欠く状態になる。しかし、V1を欠いた患者でも、より高次の視覚領野、例えば運動情報を解析しているMT野にV1を経由しないで直接投射する経路を通して、視覚的クオリアを伴わないある種の「抽象的な」視覚能力が残ることがある。例えば、視野の中のV1の損傷により見えない部分に動く光の点を呈示されたある患者は、「何だか判らないけども、何かが動いているような気がする」という、抽象的な視覚の感覚を持つ。そして、上に動いているか下に動いているか尋ねられると、条件によっては90%以上の正答率で解答する。このような、「見えないのに見える」という一見矛盾した視覚能力を、「盲視」(blindsight )と呼ぶ(7)。「盲視」は、現象学的に言えば、視覚的クオリアがない状態で、視覚的志向性だけが成立する状況である(8)。また、神経生理学的に言えば、V1のニューロンの活動がない状態で、高次視覚野のニューロンの活動だけが存在する状態である。
このように、視覚的クオリアは、V1のニューロンの活動を必要条件として成立することが判っているのである。
色は、視覚的クオリアの中でももっとも馴染み深いものなので、色のクオリアについてもう少し詳しく記述しよう。私たちの色の知覚は、色の恒常性(color constancy)と呼ばれる性質を満たしている。ここで、色の恒常性とは、例えば、昼間の太陽と夕陽ではその波長構成がかなり違うため、ある表面、例えば家の屋根から反射される光の波長構成はかなり異なるにも関わらず、私たちの心の中ではほぼ一定の色として知覚されるという現象である。色の恒常性は、V1から第4次視覚野(V4)に至るニューロンの回路の中で、ある領域から反射される光の波長を、周囲の領域から反射される光の波長と比較することによって成立していると考えられている(4、9)。
では、色のクオリアは、どのようにして生まれるか? 私たちの心的表象が、脳の中のニューロンの活動だけから生じる以上、クオリアは、脳の中のニューロンの活動の相互関係を通して生じると考えざるを得ない(認識におけるマッハの原理)(3、10、11)。ここに、相互関係とは、ニューロンとニューロンが、シナプスを通してお互いに相互作用し合い、結果としてある特定の時空間パターンで発火することを意味する。このような関係性を確立するためには、色のクオリアの場合、V1からV4に至る、相互作用で結ばれた、ニューロンの発火のクラスター全体を考えなければならない。このような発火のクラスター内部のニューロンの発火の相互関係から、色のクオリアが生じるということになる。空間的に言えば、数cm程度、時間的に言えば数十ミリ秒にわたる物理的なプロセスが、色のクオリアを生み出しているのである。この際、ニューロンからニューロンへシナプスを通して情報が伝わる際に経過する物理的時間は、心理的時間の中では一瞬に潰れてしまっていると考えられる(相互作用同時性の原理)(3、10、11)。
このように、心的表象と脳の中の神経生理的プロセスの関係を現在の脳科学の知見から検討していった時に、浮かび上がってくる意識の属性がある。すなわち、意識の中に浮かぶ様々な心的表象が、脳の中の物質的プロセスの非局所的な性質に対応しているように思われるということである。
色のクオリアという心的表象の要素は、脳のニューロンの活動の時間的にも空間的にも非局所的な性質を反映して生まれる。私たちの意識の中で、色のクオリアは、ある心理的な瞬間において、空間的にも局在化した形で感じられる。しかし、その背景にある脳内の物理的プロセスは、時間的にも空間的にも広がりをもった現象である。別の言い方をすれば、時間的、空間的に広がりのあるニューロンの活動が、意識の中では、視野の中のある点(これ以上区別できないもの)の赤いクオリアとして凝縮して感じられているということを意味する。
このように、ある心的表象の要素が、脳内の時間的にも空間的にも広がりのある物理的プロセスに随伴して生じるということこそ、意識について考える時のもっとも重要な拘束条件になっているのである。
個々の心的表象の要素自体が脳内の物質的過程の時間的にも空間的にも広がりのある非局所的プロセスとして成立しているだけではない。「私」の意識という統合の枠組みの中で、これらの心的表象の要素が結びついて行く過程も重要である。例えば、赤い円が右に動いていくというイメージにおいて、個々の要素、すなわち、赤という「色」、円という「形」、右に動くという「動き」という表象の要素は、それぞれ、V1からV4、V1から下側頭野(IT野)、V1からMT野に向かうニューロンのクラスターによって表現されていると考えられる。これらの表象の要素が「結びついて」、「右に動く赤い円」というイメージが出来上がっていく。この統合の過程がどのようにして行なわれているかという問いは、「結び付け問題」(binding problem)と呼ばれ、脳科学において最大の未解決問題の一つと見なされている(12)。
初夏の森の中を歩くと、鮮やかな緑色の木々が目に飛び込んでくる。頬を撫でる風の動き、鳥達のさえずり。足を下から押してくる確かな大地の存在。これらの全ての心的表象は、脳の中のニューロンの活動によって生まれている。脳の中には、数百億程度のニューロンがある。これらのニューロンの活動という、時間的にも、空間的にも広がりのある物理的なプロセスから、「私」の意識という統合の枠組みが生じる。個々のクオリアが、時間的にも空間的にも広がりを持ったニューロンの活動から生まれてくると同時に、それらのクオリアを統合する「私」の意識が、ニューロンの発火という物理的プロセスの、脳全体にわたる非局所的な性質から生まれてくる。意識は、脳の中の物理的プロセスの、非局所的な性質を反映した現象なのである。
3、意識の非局所性の起源
それでは、私たちの意識は、いかにして、脳の中の物理的プロセスの非局所的な性質に対応するような形で生まれるのだろうか?
ここで述べられている「非局所性」は、必ずしも、脳の中のニューロンのダイナミックスが局所的な方程式によって記述されるということと矛盾しないということを確認しておく必要がある。すなわち、意識が脳の中の物理プロセスの非局所的な性質に対応するようなものとして生まれるからと言って、脳内の物理プロセスそのものが非局所的なダイナミックスで書けるということがただちに結論されるということにはならないのである。
現時点で知られている知見に基づけば、ニューラル・ネットワークの活動が、局所的な相互作用を通したダイナミックスによって記述されることに関しては、ほぼ疑問の余地がないように見える。もちろん、ニューロンを構成するタンパク質や脂質、水を含む物質の振る舞いを究極的に記述しようとすれば、量子力学、あるいは量子場の理論を援用する必要があり、結果として量子力学に見られる非局所性が問題になってくる可能性がある。しかし、脳の中のニューラル・ネットワークの振る舞いは、そのような量子的なレベルにまで下がらなくても、記述できそうである。実際、そのような前提で、多くの神経生理学者は脳の中のニューロンの振る舞いを調べており、今のところそれで困ることもない。
そもそも、もし、脳内の物質的プロセスから見た意識の非局所性が、量子力学の非局所性に起因するならば、波動関数が、意識を支える脳内プロセスの広がり程度(すなわち、最大10cm、100ミリ秒のオーダー)にわたって、からみ合った(entagled)状態にならなければならない(13ー14)。しかし、ニューロンの発火という現象が、ニューロンの細胞膜上の多数の受容体やイオン・チャネルを巻き込んだ複雑な現象であり、また発火に至るプロセスにおいても、シナプスにおける神経伝達物質の放出、受容、再回収など、複雑な分子過程が見られることを考えても、これらの過程の波動関数が、上のような時間的、空間的スケールにわたってからみ合った状態になるとは、考えにくい。
脳の中のニューロンのダイナミックスは、古典的、局所的な相互作用によって記述されるように見える。しかし、私たちの意識においては、脳の中の非局所的な物質的プロセスに対応する心的表象が生まれているように見える。すなわち、脳内の数百億に上るニューロンの活動はあくまでも局所的な相互作用の積み重ねで記述できるにも関わらず、そのニューロンの活動の非局所的な性質に対応するような心的表象が生まれているようなのである。すなわち、局所的な相互作用の積み重ねからできるシステムに、非局所的な表象が、「重生起」(supervene)しているように思えるのである(15)。この、一見矛盾した事態をどのように理解し、解きほぐすかが、脳からいかにして心的表象が生まれるかを理解する上で、もっとも本質的な問題であると言っても過言ではない。
4、意識と因果性
では、意識の非局所性の起源は何なのだろうか? いかにして、私たちの意識は、脳内の物質過程の非局所的な性質を反映するような表象を持ちうるのだろうか? とりわけ、意識を支える脳内の物理的プロセスは、局所的な相互作用に基づいて進行しているのに、どうして、意識は、物理的プロセスの非局所的な性質を反映したような形で生まれて来るのだろうか?
この問題を、表面的なごまかしではなく、根本的、かつ本質的な意味で解決するためには、結局は因果性(causality)とは何か、そして、因果性の舞台となる時空間構造はいかにして生まれてくるかというところまで遡って考えなければならないように思われる。
ニュートン以来の物理学は、時空間構造の中での物質系の変化を、因果的に記述することに成功してきた。ここに、因果性とは、ある時間パラメータを前提にして、「ある時刻における系の状態が与えられた時、それに基づいて、微少時間後の系の状態が導出される」という意味である。相対論における固有時とは、結局、このような意味での因果性を満たすような時間パラメータであるし、相対論的な時空構造そのものも、結局のところ、因果性を満たすような時空構造の構成の仕方を与えていると言える。
量子力学においては、系の時間発展は確率的にしか記述されず、古典的な意味での因果性が破れているという見方がある。確かに、個々の粒子の時間発展は完全には記述できなくなっているが、アンサンブルのレベルの振る舞いは、厳密に記述できる。つまり、アンサンブルのレベルで因果性が成立していると見なしても良い。また、系の時間発展を、ファインマンの経路積分法のように、「鳥瞰図的」に見るやり方もあり、このような見方からは、「ある時刻における系の状態が与えられた時、それに基づいて、微少時間後の系の状態が導出される」という意味での因果性の役割が弱まるようにも思われる。これらの点を留保さえしておけば、因果性が、今日においても、物理学におけるもっとも重要な概念の一つであることは疑いない。
ここで、確認しておかなければならないことがある。それは、確かにクオリアを始めとする意識の問題は物理主義にとって深刻なチャレンジではあるが、一方で、上のような意味での物理学の因果性を何ら否定するものではないということである。意識を生み出す脳のニューロンの活動は、究極的には相互作用する素粒子からなるシステムの振る舞いとして記述される、複雑ではあれ物理法則に従う系であることは、意識の問題を考慮したとしても特に疑う必要があるとは思えない。「脳=因果性に従う物質系」という大前提を疑わせるような証拠は一切存在しない。すなわち、意識は、あくまでも、物理学的な因果性に従って時間発展する脳内の物理的過程に精密に寄り添った(随伴した)形で生じる現象なのである。
私たちの思考は、一見自由に起こるように見えるが、しかし、その背後には、因果的な物理法則に従って動く脳がある。このような、私たちの思考と因果性の間の関係を決して忘れないことが、数学的言語の自然言語に対する優越を確認するよりも、より本質的な問題であるように思われる(16)。実際、数学的言語と自然言語の間の関係は、かなり微妙であり(17)、もし数学的言語が自然言語に優越しているところがあるとすれば、その優越性は、前者が、物理的な因果性とより強く結びついているという点にこそ求められる。
意識が因果性に何も付け加えないとすれば、そもそも意識はなぜ存在するのか? 進化の過程で、意識を持つことが、何らかの淘汰上の意味を持ったのか? あるいは、淘汰上の意味を持ったのは、あくまでも客観的に見た脳の情報処理能力であって、意識は、そのような情報処理能力を持つ脳という物質系が何らかの未知の理由によって不可避的に持ってしまう、一種の副産物なのだろうか? 私たちが、客観的には今と全く同じ振る舞いをする、しかし、一切の心的表象を持たない、「ゾンビ」であった可能性はあるのだろうか(5)? 意識と因果性の間には、解明されるべき多くの謎がある。
5、意識の非局所性の理解へ向けて
現代的な脳科学は、視覚や聴覚といった個々の感覚のモダリティや、運動制御、ないしは記憶、注意などの機能モジュールの研究から、脳全体をシステム論的に扱う方向へと発展しつつある。例えば、猿の運動前野において発見された「ミラー・ニューロン」(18)は、自分がある行為をしても、あるいは他の個体が同じ行為をするのを見ても同じように活動する。このようなニューロンは、感覚の情報と運動の情報が融合されて処理されなければ成立し得ない。また、このようなニューロンは、相手の心の状態を読む「マインド・リーディング」や、「心の理論」といった機能にも関与している可能性がある(19)。このような脳機能を実現するためには、感覚野、運動野、前頭連合野などの脳の諸領域が、協調して機能しなければならない。
もはや、意識が、脳のある特定の部位に宿るなどと考える人はいない。意識が、脳全体のニューロンの活動を反映したシステム論的な性質であることを、脳科学は日々明らかにしている。では、数百億のニューロンの発火の非局所的な属性を反映した意識は、いったい、いかなるプロセスを経て出現してくるのか? このプロセスを、私たちは、どのような形式の下に理解すればいいのか?
興味があるのは、ちょうどツイスター変換(20)が、相対論的な時空において、光の軌跡という非局所的な実体を点に変換するように、意識が、脳の中の物理的過程と、脳の中の時間的、空間的に非局所的な実体を、局所的な実体に変換するような未知の変換を通して関係している可能性である。実際、物理的空間の中ではぐにゃぐにゃと折れ畳まれた大脳皮質上で時間的にも空間的にも広がりをもって分布したニューロンの発火が、私たちの意識の中では視野という秩序を持った時空構造の中にクオリアとしてコンパクトに表現されるプロセスは、ツイスター類似の変換によって記述される可能性がある。ペンローズのもくろみは、ツイスターを通して、物理的因果性をよりよく理解することだった。意識が脳の中の物理的プロセスの非局所的な性質に随伴するという、現代の脳生理学の知見からまず疑い得ない事実の背後にある深い意味を理解するためには、ツイスター類似の変換を通して、脳を含む物理系を支配している因果性の本質を再検討する必要があるのかもしれない。
References
1)現代的な心脳問題の好適な入門書としては、信原幸弘 「心の現代哲学」勁草書房 1999年 がある。
2)Adar Pelah (University of Cambridge), private communication
3)茂木健一郎「脳とクオリア」日経サイエンス社 1997年
4) Zeki, S. A (1993) Vision of the Brain Blackwell
5) Chalmers, D. (1996) The Conscious Mind Oxford University Press
6)養老孟司編 「脳と生命と心」 哲学書房 2000年
7)Weiskrantz L., Barbur J.L. & Sahraie A. (1995) Parameters affecting conscious versus unconscious visual discrimination with damage to the visual cortex (V1). Proc. Natl. Acad. Sci. 92, 6122-6
8)Mogi, K. (1999) The explicit and implicit in visual awareness. Perception 28 Supplement 140.
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10) Mogi, K. (1999) Response Selectivity, Neuron Doctrine, and Mach's Principle. in Riegler, A. & Peschl, M. (eds.) Understanding Representation in the Cognitive Sciences. New York: Plenum Press. 127-134.
11)茂木健一郎「心が脳を感じる時」講談社1999年
12)Singer, W. & Gray, C.M. Visual feature integration and the temporal correlation hypothesis. (1995) Annu. Rev. Neurosci. 18, 555-588.
13)Einstein, A., Podolsky, B., Rosen, N. : "Can quantum-mechanical description of physical reality be considered complete?" Physical Review 41, 777 (1935)
14)Bouwmeester, D., Pan, Jian-Wei, Mattle, K., Eibl, M., Weinfurter, H. & Zeilinger, A. Experimental Quantum Teleportation, Nature vol.390, 11 Dec 1997, pp.575.
15)Davidson, D. (1970). Mental events. In L. Foster & J. Swanson, eds
Experience and Theory. Humanities Press. Reprinted in Essays on Actionand Events. Oxford:Oxford University Press, (1980)
16)アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン著、田崎晴明・大野克嗣・堀茂樹訳「『知』の欺瞞 ― ポストモダン思想における科学の濫用 ―」
17)茂木健一郎「言語の物理的基盤 ー表象の精密科学へ向けて」
「言語」(大修館書店)Vol.28 No.12 (1999年12月) p.49-57
18)Gallese V. & Goldman A. (1998) Mirror neurons and the simulation theory of mind-reading. Trends in Cognitive Sciences 2, 493-500
19)Jay Schulkin (2000) Theory of mind and mirroring neurons. Trends in Cognitive Sciences, 4, 252-254
20)Penrose, R, & Rindler, W. Spinors and space-time vol.1, 2. Cambridge Unversity Press (1984).
図1 クオリアと志向性
視覚的クオリアは、後頭葉の第一次視覚野を中心とするネットワーク、視覚的志向性は、高次視覚野を中心とするネットワークでつくり出される。
図2 クオリアと志向性を通した脳のシステム論的理解
外界から入力した感覚情報は、クオリアとして表現される。前頭葉を中心とする志向性のネットワークは、クオリアを脳内の世界モデルに接続するとともに、脳全体のシステム論的な情報処理メカニズムを支える。言語は、この志向性のダイナミクスから生じる。