「心」が起こす次の科学革命
茂木健一郎
(c) 茂木健一郎 1999 (c)「サイバーX」1999
<次の科学革命は「心」から生まれる>
科学史、科学哲学の研究者であるトマス・クーンは、1962年に発表したその著作「科学革命の構造」の中で「パラダイム」という概念を提出した。クーンの言う「パラダイム」とは、ある時期の科学的営みを支配している様々な仮説、前提の枠組みのことだ。例えば、ニュートン力学では、絶対的な時間、空間があるというのが「パラダイム」だった。これに対して、アインシュタインは、時間や空間は因果律に基づいて相対的に構築されるという新しい考え方を提出した。アインシュタインの相対性理論の登場は、時間や空間という自然科学のもっとも基本的な枠組みに関する考え方を変更したという意味で、まさに「パラダイム」革命だったわけである。
アシンシュタインが成し遂げたような大きな科学革命は、もはやあり得ないのだろうか? 「科学の終焉」という本が進歩主義の牙城であるアメリカで人気を呼んだことでもわかるように、人々の間では、「もう科学も行き詰まりだ」という気分が蔓延している。超ひも理論は、自然現象とはかなり遠いところでの数学遊戯のように思われる。分子生物学は確かに日進月歩だが、その進歩の内容は、知識のパラダイムを変えるような「垂直的拡大」というよりは、新たな知識をどんどん付け加えていく「水平的拡大」に終始しているように見える。このような状況を見ると、「科学の終焉」が近付き、新パラダイムのネタも切れたという印象は確かに否めない。
しかし、私は、アインシュタインの相対論の登場に匹敵する次の科学革命は、それほど遠くない未来にくるだろうと思っている。次回の科学革命を引き起こすのは、私たちの「心」(mind)である。もちろん、頭(理性)で考えるのではなく心(感情)で考えよといった類いの話ではない。私たちのもつ「心」の属性を真面目に自然科学の対象にすることによって、次の科学革命が起こるだろうと考えるのである。もっとも、その際登場する新しいパラダイムがどのようなものになるかは、まだ誰にも予想がつかない。
<科学革命はありふれたことから始まる>
トマス・クーンの「パラダイム」説のポイントの一つは、旧パラダイムの中ではどうしても説明できない事実、すなわち「異常」(anomaly)が生じた時に、その異常を解消するために新しいパラダイムが導入されるという考え方であった。つまり、異常な事実が新しいパラダイムの引き金になるというわけである。前世紀末に行われたマイケルソンとモーリーの実験は、どのような座標系から観測しても光速は一定の値をとることを示した。この事実は、ニュートン力学のパラダイムの中では説明できない異常な事実であった。この異常をなんとか解消しようとして、ローレンツらは運動する物体の長さが縮まるという奇妙な法則を提唱した。そして、アインシュタインが、時間と空間を根本的な視点から考え直すことにより、相対性理論という新しいパラダイムを示した。アインシュタインの理論の中では、光速度一定という事実は理論の前提の一つとされ、もはや異常な事実ではなかった。このような歴史的経緯を見ると、確かに、「異常」な事実の存在が、新パラダイム誕生の引き金になることはあるようである。
これに対して、ライトマンとジンジャリッヒは、1991年にアメリカの科学雑誌「サイエンス」に掲載された「いつ異常が始まるのか?」という論文の中で、科学革命のメカニズムについて別の見方を提唱している。
ある種の科学的な異常は、新しいパラダイムの中でそれが説明されてはじめて「異常」として認識されることがある。科学革命の前には、これらの「異常」は当然のこととされてしまうか、あるいは無視されてしまうだけなのである。
ライトマンとジンジャリッヒが言っているのは、大体次のようなことだ。ニュートンが落下するりんごと月の運動を「重力」という共通のパラダイムで結び付ける前は、地球上で物体が下に落ちるということは当然のことであり、誰もそれが「異常」なことだとは思わなかった。ニュートンが「重力」という新しいパラダイムを提出し、落下運動を科学的に説明して初めて、人々は旧パラダイムの中で「重力」のような原因がないのに物体が落下すると考えていたことが「異常」だったということに気がついたのである。ニュートンの科学革命の前後で、物体が落ちるということが、「当たり前の事実」から、「説明されるべき事実」に変化したわけだ。旧パラダイムの中で落下運動が何の説明もなしに当然のこととされていたことは、新パラダイムの中で初めて「異常」なことだったと思えるようになったというわけである。
ライトマンとジンジャリッヒは、上の例にも見られるように、ある種の科学革命は、人々が当然のこととして前提としている「ありふれた事実」を問い直すことから始まると主張している。考えてみれば、アインシュタインの相対性理論も、マイケルソン=モーリーの実験から直接導かれたわけではない。むしろ、アインシュタインの独創は、それまで人々が当たり前の前提としてきた「同時」ということの意味を問い直した点にあった。ニュートン力学においては、「同時」ということは、絶対的な時空構造の下で先験的に決定されていることであった。アインシュタインの提出した新パラダイムにおいて、はじめて「同時」ということは、当然のこととして前提とされるべきことではなく、「説明されるべき事実」になったのである。このように考えると、根本的な科学革命は、旧パラダイムの中の「異常」を解消しようとしてもたらされるのではなく、むしろ、ライトマンとジンジャリッヒが言うように、旧パラダイムの中ではごく当たり前の事実とされてきたことの意味、根拠を問い直すことによって引き起こされるのではないかと思えてくる。
<心を持つというありふれた事実>
「心」の問題が次の科学革命のきっかけになると私が考えるのは、「心」は現在の私たちにとって当たり前の事実であるが、最終的には何らかの未知の原理によって説明されなければならない「自然現象」であると考えるからである。
私たちが心を持つと言うのは、ごくありふれた事実だ。人間としてこの世に生を受けて以来、私たちは自分自身が「心」を持つということを、ごく当たり前のこととして受け止めて来た。このような一般的な常識を前提にする限り、「心」を持つという事実自体が別の第一原理から説明されなければならない「異常」なことであるという発想は、なかなか生まれない。近代においては、「心とは何か」と問うことは、「人間とは何か」と問うこととイコールであり、そのような当然なことを「何故だ」と問うことは、科学というよりは哲学に属することだと考えられて来たのである。このような思潮の背景には、「我思う故に我あり」、つまり、心を持つことが「私」であることだとして主観性の基礎を確立し、その上で心の問題を客観的な自然科学とは別の領域としたデカルト以来の伝統がある。
人間の「心」の働きを前提とするいわゆる人文的文化の世界は、客観的に世界を記述する自然科学の世界とは独立して発展してきた。どれほど自然科学が発達しても、それが人文科学の基礎をほんとうに揺るがしたことはなかった。私たちの心の領域、心が生み出す芸術、文学、哲学、社会制度などは、とりあえずは自然科学とは無関係な独立の領域をなすと考えられてきたのである。このような状況が、スノーが「二つの文化と科学革命」の中で指摘した人類の活動の自然科学と人文科学への二分化につながっていったのである。
人間の主観性を前提とする立場から言えば、私たちが「心」を持つことはごく当然のことだ。だが、客観的に自然を記述する自然科学の立場から言えば、やはり、私たちが心を持つことは明らかに異常なことなのである。私たちの心が宿る臓器である脳は、複雑ではあるがやはり自然法則に従う物質から構成されている分子機械に過ぎない。140億個のニューロンが、それぞれ1万個のシナプスで他のニューロンと結合しているというのが脳の基本的な構成である。ニューロンの活動は、その細胞膜の電位が一時的に変化するという電気化学的現象である。ニューロンとニューロンのシナプスを通しての相互作用は、神経伝達物質と呼ばれる生化学物質によって媒介される。脳は確かに複雑だけども、その振る舞いを支配している自然法則は、石や机や水といったありふれた物質の振る舞いを支配している自然法則と何の変わりもないのである。一方、ニューロンの活動に伴って私たちの心が生まれるということは、現在の神経生理学のデータを見れば、疑う余地がないように思われる。
石や机や水には「心」はないように思われる。(これらの物質にも「心」があるとする汎心論の立場もありうるが、ここではとりあえず考えない。)一方、私たちの脳には心が宿っている。では、石や机や水と脳の違いは何か? 脳のような複雑な系では、「心」のような属性が、創発的(emergent)にあらわれるという考え方もある。しかし、この「創発的」なプロセスの本質を明らかにした人はまだ誰もいない。
心の持つ属性、とりわけ、「赤の赤い感じ」や、「水の冷たい感じ」、「
ヴァイオリンの音の感じ」といった、感覚の持つユニークな質感は、自然科学が客観的に物質の振る舞いを記述する際に用いて来た質量や電荷、長さといった量とは明らかにカテゴリーが異なる。このような、私たちの感覚の持つ独特の質感は「クオリア」(qualia)と呼ばれる。クオリアは、私たちの心の属性を、客観的な自然法則から説明するのがいかに難しいかということを象徴する概念である。アメリカの哲学者チャーマーズは、クオリアこそが心脳問題における「難しい問題」であり、客観的な自然法則とクオリアの間には深刻な「説明のギャップ」(explanatory gap)があると主張して、今日のクオリアの問題に対する世界的な関心の高まりにおいて一定の政治的役割を果たした。
確かに、私たちが心を持つということはありふれた事実である。しかし、私たちの心の属性を、脳の中の分子の振る舞いを規定している客観的な自然法則から説明しようとすると、そこにはチャーマーズの言うような深刻な説明のギャップが存在する。すなわち、心の属性は、従来の客観的な自然法則というパラダイムから見れば「異常」な事実なのであり、ここに、次の科学革命、それによってもたらされる新しいパラダイムへの突破口があると感じられるのである。すなわち、ライトマンとジンジャリッヒのモデルで言えば、来るべき新しいパラダイムの中で、私たちの心は、当然のこととして前提とされるべきことではなく、むしろ、どうしてそのようなものが生まれるのか「説明されるべき事実」になるだろうということなのである。
<心と脳の相対論>
最後に、「心」の問題をきっかけにして起こるであろう次の科学革命の性質について、考えてみたい。
私は、「心」が物質系である脳からどのようにして生まれてくるかを説明する新パラダイムは、上に科学革命の典型例として挙げた相対性理論の提出した新パラダイムと似たような性質を持つのではないかと考えている。すなわち、それは、時間や空間と言った枠組み自体の起源を問い直すものでなければならないということである。
私たちの心の中の時間は、ニューロンの活動が埋め込まれている物理的時間の性質と異なる。今のところ、誰も、心理的時間の起源を満足に説明した人はいない。私は、一つの考え方として、ニューロンからニューロンへ情報が伝達される間は、物理的時間は経過したとしても、心理的時間は経過していないという仮定(相互作用同時性の原理)から出発することを提案している。一方、私たちの視覚は、二次元の空間的広がりの中に様々な視覚的クオリア(色や形、動き、テクスチャなど)が配置されることによって生じているが、このような空間的な構造が脳の中のニューロンの発火からどのようにして生まれてくるかを説明できる理論は存在しない。大脳皮質の視覚に関係する領野の構造は、物理的な空間の中ではぐにゃぐにゃに折り畳まれた6層のシートである。このような折り畳まれたシートの中のニューロンの活動から、どうやって私たちの視覚の統合された空間的枠組みが生まれてくるのか、これはとてつもなく深遠で興味深い問題である。
心理的な時間や空間の構造は、従来は「当たり前のこと」として前提とされてきた。脳を研究する神経科学の分野でも、心理的な時間や空間の構造は、説明するまでもない当然の事実とされてきた。だが、心の属性を当たり前の事実として前提とするのではなく、何らかの第一原理から説明しようとすれば、心理的時間、心理的空間といった枠組み自体がどのように生まれてくるのかということが問われなければならない。ここで必要とされるのが、アイシュタインが相対性理論で行ったような、そもそも時間や空間を成立させているものは何かという根本的な問いかけなのである。私自身は、「因果性」が心理的な時間や空間の性質を導く根本原理であると考えている。
心理的時間や空間の問題が例え解けたとしても、「赤の赤い感じ」とは一体なんなのか、クオリアとは何なのかという難しい問題が待ち構えている。さらに、「赤い色」を感じる「私」という主観性の構造はどのようにして生まれてくるのかという根源的な問題がある。これらの問題に答えるためには、現在の私たちには想像もつかないような新しい考え方が必要だろう。私たちは、そのようなパラダイムを、あくまでも論理的に、ち密な議論によって探究していかなければならないのである。「科学の終焉」に到達するためには、私たちはまだまだ旅を続けなければならない。「心」が起こす次の科学革命は、始まったばかりなのである。
私が2年前に「脳とクオリア」という本を出版した時、担当の編集者は「脳と心の問題はいま、21世紀のアインシュタインを待っている!」という帯を付けてくださった。脳と心の問題のアインシュタインは未だ現われていない。チャンスは誰にでも平等に与えられている。この記事を読んだ人の誰かが次のアインシュタインになる可能性は大いにあるのである。
参考文献
「科学革命の構造」 トマス・クーン著 中山茂訳 みすず書房
「科学の終焉」 ジョン・ホーガン著 竹内薫訳 徳間書店
「二つの文化と科学革命 」 C・P・スノー著 松井巻之助訳 みすず書房
「脳とクオリア」 茂木健一郎 日経サイエンス
Chalmers, D. The Conscious Mind (1996)
Lightman, A. & Gingerich, O. Science 255, 690-695 (1991)