青土社
現代思想 臨時増刊 Vol.28-3 (2000年2月)
現代思想のキーワード p.158-161 所収
茂木健一郎 「脳」
(c) 茂木健一郎 2000 (c) 青土社 2000
「脳」は、人類が現在科学的に解明しようと試みている物質系の中で、もっとも複雑なものである。
現時点では、物質系としての脳の振るまい、さらには、脳の振るまいに随伴する意識の属性を理解することには、実験的にも、理論的にも、多くの困難が存在している。
実験手法的には、PET、fMRI、MEGなどの非侵襲計測手段の発展により、従来の動物の脳のニューロンの活動の電気的計測に加えて、人間の脳の活動もある程度計測できるようになった。しかし、このようにして得られるデータの時間的、空間的分解能は、脳の中の情報処理メカニズムを構成論的に再現するには足りない。もし、脳の情報処理機構をそれを人工的に再現できる程度に理解しようと思ったら、脳全体にわたるニューロンの活動膜電位を可能な限り多く同時並列的にモニターしなければならないが、現在存在する非侵襲計測手段では、それは難しい。
理論的には、例えば、ニューラル・ネットワークのシミュレーションで脳を理解しようとしても、原理的な困難が伴う。実際の脳では、一つのニューロンが他の数千〜1万程度のニューロンとシナプス結合をしている。一方、ニューラル・ネットワークのシミュレーションにおいて、一つのニューロンが作るシナプス結合の数は、せいぜい100程度である。このような状況下で、生物学的にリアリスティックなニューラル・ネットワークのモデルを作ろうとしても、そもそもモデルの中のニューロンの活動膜電位が実際の脳の中のどのようなプロセスに対応しているのかが明らかではない。一つの対処法は、マーが提案したような計算論のレイヤーにおいて脳を理解しようとすることだが、運動制御の問題などにおいてはある程度の有効性が示されているものの、意識の問題の解明において計算論がどれほど有効かという点については、重大な疑念がある。
このような原理的な困難の存在の下で、脳の中の情報処理機構、及びそれに随伴する意識の問題を理解するためには、どのようなアプローチがあり得るのだろうか?
私は、脳の理解は、次のような明白な事実に注意を向けることから始めるべきだと思っている。すなわち、私たちの心の中の表象が、様々なクオリア(質感)に満ちているということである。夕暮れの海岸を歩いていると、夕陽の赤い色、頬をなでるそよ風、足の下で鳴る砂の感覚などの質感が私の心の中に生じる。これらのクオリアたちが、私の世界の体験をつくり出している。クオリアの存在は、私たちが意識と呼んでいるものの、もっとも顕著なメルクマールである。
クオリアの問題が興味深いのは、次の二つの理由からである。
まず第一に、クオリアは、時間経過、空間的距離、粒子の個数、質量や電荷のような、従来の自然科学が対象にしてきた定量的に記述できる物質の属性とは異なる、一つ一つが非常にユニークで鮮明な感覚として我々の心の中に浮かぶということである。クオリアが、ニューロンの細胞膜電位の変化をはじめとする脳の中の物理現象によってどのように生み出されているのか、現時点では、それを理解することには原理的な困難がある。クオリアと脳の中のニューロンの活動の関係は、いわゆる心脳問題の核心にある。
第二に、クオリアは、機能主義的、計算論的に見た脳の情報処理メカニズムの本質を、表象のレイヤーにおいて反映した属性であると考えられることである。例えば、視覚においては、形、色、動きなどの視覚特徴は、大脳皮質の異なる領域において解析されている。脳という物理的空間では空間的に、かつ時間的にも広がりを持ったニューロンの活動として表現されたものが、心の中の表象としては、例えば「右に動いている赤い円」というように、一まとまりの表象として知覚される。そして、そのような知覚に従って、我々は思考したり、行動を組み立てたりすることができる。この、結びつき(binding)のプロセスと呼ばれる情報処理機構のメカニズムの詳細は未だ明らかではないが、脳の中の時間的、空間的に広がりを持ったニューロンの活動が、私たちの心の中ではコンパクトなクオリアとして感じられるという事実が、結びつきのメカニズムを解明する上で重要なヒントを提供すると考えられる。
ニューロンの活動からクオリアが生み出される過程に関して、私は、次の二つの仮定を置くことが恐らくかなりの蓋然性を持って妥当であると考えている。すなわち、
(1)クオリアの自己同一性、その質、クオリア相互の関係(この中には、クオリアが配置される空間的、時間的秩序の問題も含む)を決定するのは、脳の中のニューロンの発火の相互関係である(認識におけるマッハの原理)
(2)ニューロンからニューロンへシナプス相互作用を通して情報が伝播される際の物理的時間の経過は、クオリアが埋め込まれる心理的時間の中では無視されて、心理的な瞬間に写像される(相互作用同時性の原理)
クオリアは、上の二つを含む原理群の下で構成される何らかの数学的構築物として、ニューロンの活動から生み出されて来ると考えられる。
ところで、私は、クオリアの問題の重要さを強調することは、人間性の本質を理解するための脳科学の営みにおいて、重要な意味を持つと考える。
自然科学は、どのような問題を研究対象にする時も、基本的で簡単な問題から取り組み始める。脳科学で言えば、まずは単純な視覚認識、聴覚認識、あるいは運動のコントールのメカニズムといったテーマが研究の対象になる。しかし、一方で、人間の知的活動、創造的活動が、時に、日常的に見られる認識や運動のメカニズムの地平を超えた、ある種の高みに達することができることも事実である。そして、科学や芸術といったジャンルを問わず、人間の創造物が、人間とは何かという問題を考える上で、本質的に重要であることも確かである。現代においては、情報論的な枠組みの下で、全ての人間の営みをフラットな地平の上に見る傾向が強い。しかし、やはり、良いものは良いし、美しいものは美しいのである。
小津安二郎の「東京物語」の中で、妻が死んだ朝、一人海を見ている老父(笠智衆)が、呼びに来た義理の娘(原節子)にぽつりと「ああ、いい夜明けだった、今日も暑うなるぞ」ともらす瞬間。あるいは、ゲーテの「ファウスト」の第二部、古代ヴァルプルギスの夜の場で、人造人間ホムンクルスがガラテイアの光に憧れて、それに触れようとした瞬間、自分の入ったガラス瓶が砕け、海に投げ出される瞬間。これらの瞬間には、私たちの心の中に何とも言いがたい感動を引き起こす力が潜んでいる。そして、これらの感動の性質、それをもたらすものは、人間性の本質のある側面を表している。重要なのは、これらの感動に至る認知のプロセスは、全て私たちの脳の中でニューロンの活動として起こっている現象だということである。もちろん、現在存在する脳科学の研究のレベルは、これらの感動の本質を解明するレベルに至ってはいない。だからと言って、現在脳科学の対象になっている日常的かつ基礎的な認知や運動のメカニズムが人間の全てだと考えるとすれば、私たちはとんでもない勘違いをすることになる。
もちろん、私たちは、人間を単なるブラックボックスとして扱う従来の手垢の付いた人間主義的世界観に安住していているわけにはいかない。「東京物語」や「ファウスト」を生み出すのも、それを受容して感動するのも、人間の脳である。そして、人間の脳がいくら複雑とは言え物理法則に従う系であることも恐らく事実である。ならば、「東京物語」や「ファウスト」と物理法則の間の関係は何なのか? この問題を解明するところまでいかなくては、脳科学は本物ではないだろう。
C・P・スノウがかって指摘した人文的文化と自然科学的文化という「二つの文化」の間の対立の構造は、脳科学が人間性の理解の最大の鍵であるとされる現代においてこそ、再評価される必要がある。スノウは、自然科学がともすれば人間が芸術や文学において到達し得る世界について鈍感であり、一方人文的文化の中に安住する人たちは相変わらずの人間中心主義的世界観に安住しており、両者の間には深い溝があるという状況に危機感を感じていた。そして、「二つの文化と科学革命」を書いた。今日でも、二つの文化の間には依然として深い亀裂がある。私は、一方では自然科学における研究の対象の一つであり、もう一方では全ての人文的文化を生み出す源である 人間の脳を理解することにこそ、二つの文化を繋ぐ鍵があると考える。「東京物語」や「ファウスト」に接して人間が感動するのはいかにしてかということを、脳内のメカニズムとして理解したいのである。
私は、クオリアを真摯な研究の対象にし続けることによって、脳科学が究極的には「東京物語」や「ファウスト」のもたらす感動をも説明できるまで発展し続けるという方向性を担保することができると考える。そして、私は、次のような意味で、人間を含む世界における「物語」の構造に注目しながら脳科学を続けていくことが重要であると考えている。ここに、「物語」とは、人間が認識する世界の構造において
(1)個々の要素が、単純なビットや数、量ではなく、ユニークな個性を持っていること(要素としてのクオリア)
(2)要素の相互作用の結果生じるイベントのうち、しばしば、人間の一生に一度、ないしは極めて稀にしか起こらないイベントが重要な意味をもち、永続的な影響を与えること(一回的イベントの重要性)
(3)上のような構造を持つ世界が、「私」という主観性の構造の下に認識され、そのような世界に向かって私が様々な働きかけを行うこと(主観性ないしは主体性)
が重要な意味を持つことを表した概念である。
ここに言う「物語」とは、単に、我々が世界をどのように受け止めるかという認識論に留まらず、世界の実在性、ないしは因果性にまで踏み込む概念であることに注意すべきである。例えば、脳の中の時間的、空間的に広がりをもったニューロンの活動が、我々の心という表象のレイヤーにおいてはコンパクトな「クオリア」として認識されるという事実は、世界の因果的発展形式の本質に関わる何かを示唆していると考える。すなわち、時間的、空間的に広がりを持ったプロセスが、因果的には一つの要素として機能し、これらの要素が絡み合うように相互作用することによって、世界が発展していくというようなことがあるのではないかと考える。そして、私たちの脳の中では、そのような因果的発展形式が現に進行しており、その現象論的な現れが、クオリアだろうと考えるのだ。クオリアとニューロンの活動の間の関係を理解することは、究極のところ、脳を含む世界の因果的発展方式を理解するこだと考えるのである。この問題意識が、いわゆる自由意志の問題にも関わるということはすぐわかるだろう。
物理的時空間の中では広がりを持つ要素が、因果的には一つの単位となって世界は時間発展しているように私には思われる。クオリアの存在がそのことの何よりの証左であり、また、量子力学における非局所性と相対論的時空構造の間の微妙な関係の間にも、上のような世界の時間発展の形式が現れていると考える。そして、このような世界発展の形式の中から、「私」という主観性ないしは主体性が出てくるのではないだろうか? 主観性の問題を物理主義的世界観とつなぐ細い道は、ここにこそあるように思われる。
素粒子の間の相互作用によって世界の時間発展を記述する還元論的な世界観に留まらない、「物語」的としか言い様のない因果的発展方式を考えることが重要だと私には思えてならないのだ。この「物語」の中では、一生に一度しか起こらないような「要素」の結びつきが、決定的かつ永続的な意味を持つ。この物語的な時間発展の様式は、人間の心の中では、豊かで多様なクオリアとして表象され、そしてこれらのクオリアたちは、それを支えるニューラル・ネットワークの活動が感覚器や運動器との間に持つ連関を通して世界とつながっている。このような世界の発展方式を明らかにしてはじめて、私たちは心脳問題を本質的な意味で解決ないしは変質させ、またスノウの言う「二つの文化」の間に何らかの橋を架けることに成功するのではないか、私にはそう思えてならないのである。
もちろん、この究極的な目標に到達する前に、伝統的な脳科学の分野でやるべきことは理論的にも実験的にも沢山ある。今、私たちに少なくともできることは、科学的方法論に従って地道に脳に関する知見を積み重ねつつ、一方では「東京物語」や「ファウスト」によって引き起こされる感動も、まさに物質である脳の中で起こっていることを片時も忘れないでいることなのではないだろうか。
参考文献
Chalmers, D. (1996) The Conscious Mind Oxford University Press.
Marr, D. Vision W.H.Freeman (1982)
Mogi, K. (1999) Response Selectivity, Neuron Doctrine, and Mach's Principle. in Riegler, A. & Peschl, M. (eds.) Understanding Representation in the Cognitive Sciences. New York: Plenum Press. 127-134.
「二つの文化と科学革命」C.P.Snow 松井巻之助訳 みすず書房
「心が脳を感じる時」茂木健一郎(講談社)1999年
「脳とクオリア」茂木健一郎(日経サイエンス社)1997年
「東京物語」 小津安二郎 (1952年) 松竹株式会社
「ファウスト」J.W.Goethe、柴田翔訳 講談社(1999年)