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シュプリンガー・サイエンス Vol.15 No.1-2 p.6-9 (2000)
ヒューマノイドはクオリアを夢見るか?
最近、ヒューマノイド・ロボットに対する関心が高まっている。
日本では、鉄腕アトムなどのロボットを主人公にしたアニメや映画の伝統があり、人間と似た人工機械を作ることに対する宗教的な抵抗が少ない。ロボット技術は、日本が世界をリードする数少ない分野であり、近い将来日本の「アポロ計画」としてのヒューマノイド計画が立ち上がることになるのかもしれない。
ところで、ヒューマノイドとは、文字どおり「人間まがい」の存在である。ヒューマノイドを設計するということは、「人間」という存在をどのようなものとしてとらえているか、我々の人間観が
問われることに他ならない。
1986年に始まったホンダのヒューマノイド・プロジェクトは、2足歩行に重点を置いている。1997年に完成したP3では、身長160cm、体重130kgと、やや重めだが人間並みの身体をもったロボットが、見事な二足歩行をする。階段を上ったり、人に前から押されれば、後ずさりしながらバランスをとったりすることができる。個人的には、もう少し小型のかわいらしい二足歩行ロボットが欲しいと思うが、小型のロボットに二足歩行させることは、技術的に難しいという。というのも、足が交互に着地する時間間隔が短くなると、それだけ運動制御が難しくなるからである。
一方、米国MITのブルックスらが推進しているコグ・プロジェクトは、上半身のみのロボットであり、ホンダのロボットにくらべると、外見的にはかなり見劣りする。コグ・プロジェクトは、外見の類似や行動能力よりも、人間の認知能力という、容易に目に見えない能力を理解し、実装することを目指している。そもそものプロジェクトの立ち上がりが、人間とは何かという哲学的な問いかけから始まっているようである。
ホンダのヒューマノイド・プロジェクトと、コグ・プロジェクトは、ヒューマノイドに対するアプローチの二つの対極を表しているように思われる。すなわち、人間に似た外見や、二足歩行といった運動能力を重視するのか、それとも、人間を人間たらしめている認知能力を重視するのかということである。
ところで、ヒューマノイドと言えば、私にはゲーテの「ファウスト」の中で、ファウストの助手ワグナーの実験室でガラス瓶の中に作られる人造人間ホムンクルスのことが思い出される。ホムンクルスは、誕生後、ガラス瓶に入ったまま放浪の旅に出る。放浪の末、エーゲ海の静かな入り江に辿り着いたホムンクルスは、女神ガラティアを載せた貝殻を包む輝きの美しさに憧れ、それに触れようとした瞬間、ガラス瓶が割れる。そして、ホムンクルスは、エーゲ海の大海原に投げ出される。
「ファウスト」は150年以上も前の文学作品だが、ゲーテの想像力は、ヒューマノイドについて考える際の重要な問題に触れているように思われる。すなわち、管理された人工的な空間(ガラス瓶)の中だけではなく、開かれた広大な世界(エーゲ海の大海原)に置かれた時にも、自律的に行動し、環境との相互作用を通して有機的な学習を続ける、そのようなヒューマノイドを作ることが果たして可能かということである。
私は、脳科学、とりわけ意識の問題の周辺を研究している。物質である脳の中のニューロンの活動によって、いかに意識の中のクオリア(赤の赤い感じなどの質感)が生まれるのかということに、最大の関心がある。そんな私が、ヒューマノイドにも興味を持つのは、本当に人間そっくりのヒューマノイドを実現するためには、クオリアをも実装しなければならないのだろうと考えるからである。人間そっくりの外見で、人間のように動くだけでなく、高度の認知能力を持ち、開かれた世界の中で有機的な成長を遂げられる。そのようなヒューマノイドは、結局はクオリアを持つだろう。ガラティアの美しさというクオリアに惹き付けられ、それに触れようとした瞬間、ホムンクルスを閉じ込めていたガラス瓶が割れるというストーリーを考え付いたゲーテは、そのことを直感的に知っていたように思うのである。
*本エッセイとその英訳が掲載された「シュプリンガー・サイエンス」については、
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