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「言葉と意識」

茂木健一郎

大修館書店「言語」巻頭エッセイ

(c)茂木健一郎 1999 (c)大修館書店 1999

 機械が人間のように考える能力を持つかどうか調べるには、その言語能力を見れば良い。このような提案をしたのは、コンピュータの理論的基礎を作ったイギリスの数学者、チューリングである。スクリーンに表示されるテキストを通して会話した時に、会話の相手が人間か、それともコンピュータか区別がつかない時、そのコンピュータには人間と同じように考える能力があることを認めようというのである。このようなコンピュータの「知性」の検査法は、「チューリング・テスト」と呼ばれるようになった。現在のところ、チェスの世界チャンピオンに勝ったコンピュータは存在するが、チューリング・テストに合格したコンピュータはない。一時期流行した精神分析医のふりをするプログラム「イライザ」も、最初は面白いがやがて不自然さが目立ってくる。人間の言語能力を再現するという課題は、まだコンピュータには歯が立たない。

 チューリング・テストに合格するコンピュータがなかなか出ない理由は、コンピュータが言葉の「意味」を「理解」できないからだと、多くの人が考えている。これは、言葉の意味の理解とは客観的に見ればどのようなプロセスなのかを人間自身が理解していないと言うことに等しい。もし、言葉の意味の理解とは何なのかわかっていれば、それをコンピュータ上に実装できるはずだからだ。

 ここで言う「言葉の意味の理解」とは何のことか? そのためには、何が必要なのだろうか? 

 数理物理学者として著名なイギリス・オックスフォード大学のペンローズは、人間の知性の本質は理解であり、理解のためには、「意識」が必要であると主張した。これは、もっともらしい考え方である。だとすると、言葉の意味を理解し、人間のように言葉を駆使するコンピュータを作るためには、それに意識を持たせなければならない。これはかなり厄介なことだ。何しろ、意識とは何かということは、脳科学の最先端でやっと問題になり始めたばかりであり、その実体が何かは誰にも判っていないからだ。もし、ペンローズが言うように、人間のように言葉を駆使するには意識が必要だとすると、チューリング・テストに合格する程度に言葉の「意味」を「理解」したコンピュータができるのは、当分先のことになりそうだ。

 現在、人間の言語能力をコンピュータに再現させる上でもっとも困難なのは、新しいセンテンスの生成の部分である。状況や文脈を判断して、何か適当なことを言わせる、ここが一番難しい。やはり、言葉を生み出すには、意味の理解が必要で、意識のないコンピュータにはそれは無理なのかと思われる。

 しかし、意識と言葉の関係は、それほど単純ではない。というのも、言葉の発話のプロセス自体は、無意識に起こっているという事実があるからだ。

 誰かと熱中して会話している時、話す言葉をあらかじめ一字一句練り上げ、決めておく余裕はない。もちろん、「大体こんなことを言おう」とか、「このようなことは言うまい」という程度のことは意識している。しかし、具体的にどのような言葉が発せられるか、どのようなセンテンスが生み出されてくるかは、話している自分にも実は判らない。自分の発した言葉の意外性に驚くことも多い。「しまった、あんなことは言わなければ良かった」と思うこともある。言葉は無意識の中から生まれてくるのであって、意識の中での意味の理解は、後から付いてくるのである。

 言葉の発話が無意識のプロセスとして起こることは、そもそも言葉を喋るということが、一種の運動であるということと関連している。言葉を発する時に働く声帯や舌の運動を調節するブローカの領野は、大脳皮質の運動野の手前にある。一般に、運動のコントロールの具体的なプロセスは、私たちの意識に上らない。私たちは、「このような感じで動かそう」という一つメタなレベルで運動をコントロールすることができるだけだ。だからこそ、運動選手はイメージ・トレーニングという形で何とか運動のコントロールを可視化しようとする。言葉の発話自体は無意識のプロセスとして起こるという事実は、運動のコントロールの上のような一般的性質の一例として理解できのである。

 言葉は、無意識から生まれてくる。個々のセンテンスを生み出すプロセスそのものには意識は関与しない。意識は、「大体このようなことを言おう」という、一つメタなレベルのコントロールを担っている。このようなメタなコントロールのレベルこそが、言葉の意味が立ち上がってくる現場なのである。極論すれば、個々のセンテンスに、最初から固有の意味が内包されているのではないとも考えられる。このような文脈においてこそ、「意味の理解には意識が必要である」と言ったペンローズは正しかったのではないか。そんなことを夢想するのである。