「久家さんの写真の上に、桜の花びらを一つ落とすこと」
茂木健一郎
久家靖秀 写真集 cover/girl (朝日出版社、2003年)解説
写真を見るということは、自分の無意識に向き合うということである。強い印象を与える写真ほど、無意識の中で何かがうごめく。色や形といった目に見える感覚のイメージの何倍もの得体の知れないものが、自分の中からわき上がってくる。
久家靖秀さんの撮った女の子たちの写真を見た後で、私は、何だかうまく言葉にできないものをずっと抱えていた。とりわけ、久家さんの写真を、雑誌の表紙というコンテクストから外れて大判のオリジナルプリントで眺めると、満開の桜を眺めている時に時折そうなることがある、うわーっと走り出したいようなキモチになって、その感覚の記憶がずっと残っていた。
これは何なのだろう、というエニグマな感じが、少しほどけたように思えるきっかけになったのは、久家さんがギャリー・ウィノグランド(Garry Winogrand)という写真家を好きだということを知ったことだった。
ウィノグランドは、ニューヨークの街の風景を、自然光を使ってまるでスナップショットのように撮った写真家で、代表的な作品集の一つ「女性は美しい」(Women are beautiful)の中では、おそらくは撮られていることを意識していない街角の女性たちの姿がとらえられている。ベンチに座り、髪の毛をかきあげながら隣のタバコを吸う友人に話しかけたり、三人でひそひそ話をしながら肩を寄せ合ったりしている、そのような偶然性に満ちた女性という生命の躍動の美しさがモノクロームの中に定着されている。
最近では、CGで描かれたようなフィギュア的な女性が好まれる傾向がある。この写真集に収められた女の子たちも、フィギュア性が高い。一方で、生身の人間には、必ず制御しきれない破綻がある。その破綻が、ピクセルノイズではなく、ジャングルの暗がりの中のジャガーのしなやかな躍動や、大海原を行くイルカの跳躍につながっているからこそ、私たちはそれを美しいと感じる。女の子の美しさとは、つまりは自然の持つ生成作用の美しさであると言っても良いだろう。これらの写真を見ていると、まるで肌の内側から光が放射されるような気がするのも、また一つの生成作用の現れである。
久家さんの写真の中の女の子たちは、時折、撮られることに無防備であるかのようにきょとんとしているように見える。もちろん、彼女たちが、メディアの中に自分をさらすということの意味に無関心であるはずがない。今日は、スポーツウェアを着て久家さんに撮影してもらうのだというようなことを言われ、それなりの心づもりをしてスタジオに入る。スタイリストやメイクさんにアウトフィットされながら、次第に、撮影されるという体験に向けての自分の気持ちを高めていく。なにしろ、彼女たちにとって、そこは職場であり、戦場なのだ。しかし、どんなに心づもりをしていたとしても、女の子の表情の中に、ほころびのようなものが現れる。意識された意図にとってそれは偶然ではあるけれども、生命の生成の作用としては必然でもある。その生成の作用がもたらすほころびが、魅力的な印象を与えるからこそ、彼女たちはすぐれたモデルとなる。漱石の『三四郎』の美禰子になぞらえれば彼女たちはアンコンシャス・ヒポクラット(無意識な偽善家)なのであり、まさにそのような無意識の作用にこそ、私たちの身体という自然の持つ美しさの源泉がある。
撮影者も被写体も顔の表情を完全にコントロールすることはできないということが、おそらくはポートレート写真という芸術の絶対与件の一つである。人間の表情が、いかにコントロールしきれないものかということは、たとえば、「マイクロ・エクスプレッション」(微細表情)と呼ばれる現象が存在するという事実によっても判る。自分の内なる感情を隠して、たとえば悲しいのに作り笑いをしている表情をビデオに撮り解析すると、意識的には知覚されないような短い時間に、笑顔の中に悲しみの表情が混ざっているのが見いだされることがある。これが、マイクロ・エクスプレッションであり、うそ発見器への応用などを視野に、近年工学的にも研究が進んでいる。マイクロ・エクスプレッションは、それを表出する人間にとっても、それを見る人間にとっても意識されない一瞬の生成作用である。久家さんの写真は、その生成作用の波の上に成立している。
刻一刻変化する人間の顔の表情に現れた、恥じらい、ほほえみ、ためらい、予感、魅惑、清澄、たくらみ、といった無限のニュアンス。彼女たちの表情は、まるで触れれば感受して振動する光の粒でできているかのようである。
久家さんが初版本を買い集めたくらい好きだというウィノグランドの写真もまた、生命の持つ一瞬の生成作用を感じさせる。私がもっとも好きなウィノグランドの写真の一つは、パーク・アヴェニューで撮影された、摩天楼を彼方に見やり、オープンスポーツカーに乗ったオールバックの髪型の男とその連れ合いの女の間で、ペットの猿が歯をむき出しにしているショットである。マンハッタンに紛れ込んだ猿は、自然そのものではあるが、そのスポーツカーのバックシートに斜めに体重をかけている姿は、フィッツジェラルドの小説にでも出てきそうなスタイリッシュなグルーヴ感を醸し出している。写真を撮るということは、すなわち、この写真に捕らえられたような一瞬の自然の生成の作用のうちに、私たちの美意識に衝撃を与える偶然性の瞬間を捕らえようとする試みなのであろう。
ここに収められた久家さんの写真は、確かに、その敬愛するウィノグランドの系譜につながっているものを感じさせる。様々なものが侵入してくる街角ではもちろんのこと、スタジオという管理された空間の中でも、人間という自然を、完全にコントロールすることはできない。スポーツカジュアルを着せる、白いバックグラウンドを用いる、ナチュラル・メイクで装わせる。そのような細かいセッティングによって誘い出された生成作用の瞬間に、シャッターを押す。これは一種のセレンディピティ(偶然の幸運に出会う能力)であり、優れた写真家とは、指先にそのようなセレンディピティを持つ人のことなのである。
それにしても、人間の顔の表情というものは、何故ここまで私たちの心の奥深く侵入してくるのだろうか?
しばらく前から、私の手元には、柿沼和夫さんという方が撮られた「顔 美の巡礼」(TBSブリタニカ)という写真集がある。モノクロームで、作家や画家、詩人、音楽家といった芸術家の表情を収めたものである。
三島由紀夫や、川端康成、小林秀雄、、岡本太郎、武満徹といった人たちの表情を見ていると、変な言い方になるが、つくづく「鑑賞に耐える」顔だなあと思う。優れた芸術家の内面生活が顔に出るのか、それとも、彼らの顔に風格があるというのは、その作品を知っている私たちの勝手な思いこみなのか、その因果関係は良く判らないけれども、確かに、これらの顔には、えも言われぬ訴求力がある。イコン性がある。そして、これらの芸術家の表情のイコン性を、この写真集に収められた魅力的な女の子たちの表情のイコン性と比べる時、私は考え込んでしまうのである。
たとえば、小林秀雄がルオーの「ミセレーレ 隠者の通り」というタイトルの絵の下で、やや斜めに身体をかしげてポーズをとっている写真がある。この写真の小林はまるで猫のようにしなやかで、この写真集の中でスポーツウェアを着てにっこりほほえんでいる女の子の身体性と似ていないということもない。しかし、その顔を見ている時に、私の心の中に浮かぶ「クオリア」(言葉に表し難い、そこはかとない質感)は、たとえば井川遥さんの顔を見ている時に浮かぶクオリアとは全く異なる。そのあまりの違いについて考えて見ればみるほど、宇宙がここまで違うクオリアを生成してしまい、それを感受する能力を私たちが持っているという事実は、この上ない驚異ではないかと思えてくるのである。
一体、私たち人間にとって、様々な人の顔の表情、身体の姿勢、そのようなものからしみ出してくるパーソナリティとして受けとめる印象くらい、訴求力があり、胸の奥にぐっと入り込んで来て、しかも多様な主観的体験があるだろうか。人間は社会的動物であり、そして顔は個体認識、自己認識、コミュニケーションのインターフェイスである。そのような常套句を口ずさんでみたところで、他人の表情が視覚を通して私たちの主観的体験に入り込んで来る際の、時には甘美で、時には背筋を正すべき、時には戦慄すべき、時には郷愁をかき立てるクオリアの多様性の本質に迫ることはできない。
考えてみると、私は、無意識のうちに、男の顔で「鑑賞」してみたい顔は、何をおいても芸術家の顔だ、と思っていたように思う。一方、この写真集に収められているような、ハイティーンの女の子の表情はいいものだなあ、と何となく思っていたと思う。しかし、実際に二つの写真集を並べてじっくりと眺めてみると、あの人はエライ芸術家、この人は魅力的女の子、といった文脈処理を超えて、これらの人々の表情が私の心の中に巻き起こすクオリアの嵐自体に驚かされる。人間の顔というものは、かくも訴求力があるものであったかと、再認識させられる。
三島由紀夫のような芸術家の顔と、この写真集の女の子の顔が私の心の中に生み出すどちらもこの上なく魅力的なクオリアの差を、その微妙なニュアンスの色相を、言葉を尽くして表すことは今の私にはとてもできない。自然の中に繰り返し現れるパターンの本質を表現する「フラクタル」という概念は、要するに部分は全体と同じ性質を持っているということを意味しているが、この写真集に収められた女の子たちの顔が私の心の中に入って来て生み出されるクオリアは、誇張ではなく宇宙全体の豊かさに比肩すべき豊穣さを持っている。
だからこそ、本当は、このような写真集を眺めるというのは、カジュアルに女の子のイメージを消費するというような文脈を超えた恐ろしい行為なのではないかと私には思えるのである。
写真というメディアが世界に登場したことによって、何かが決定的に変わってしまった、ということは、多くの人が直感的に感じていることではないかと思う。
写真は、人間が意識的には分別できないような瞬間の世界のマイクロエクスプレッションを捕らえることで、そこに思いもしなかった世界を提示する。単に、弾丸がリンゴを貫く瞬間の写真だけが新しいのではない。スペイン内戦で撃たれて崩れ落ちる兵士の姿だけが新しいのではない。ごくありふれた人物のスナップショットの中にも、私たちは、撮影者も被写体も意識的にはコントロールできない、人間という多細胞の生命体から勝手にわき出てきてしまうものの作用を目撃するのである。
だからこそ、仲間と談笑しているところにカメラが一台持ち込まれた瞬間、私たちは緊張するのだ。観光地へ行き、有名なランドマークの前で記念撮影をする時、シャッターが押される瞬間に身体がこわばるのだ。私たち人間は、まだ写真というメディアに適応し切れていない。その、うまく適応し切れない隙間にこそ、写真というメディアの可能性がある。
写真は、また、その複製可能という性質を通して、私たち人間の精神生活に全く新しい何かを持ち込んでしまっている。にっこり笑っている女の子の輝くような魅力は、生命の生成作用に支えられている。究極的には生命を次世代につなげる役割につながっている。そのように女の子の内面からわき出る光のようなものが、写真という形で定着され、しかもこの写真集のような形で流通するものになった瞬間、何か新しいものが立ち上がっている。
女の子は、ボーイフレンドがいない間は、自分の魅力が不特定多数の人に放射されていくということを自覚し、許容しているのだけども、「この人にしよう」という相手が決まった瞬間に、今まで放射していた魅力を、その愛する男に託す、着地させる。そのような女の子のキモチのジャンプに思いを巡らせると、私はティーンエージャーの頃から何故かとても不安になっていた。
三島由紀夫や川端康成といった作家は、最初から、自分が紡ぎ出したテクストが複製可能なものとして世界を流通することを知っている。その肖像写真の表情の中から放射されるのは、ミームを生み出し、それを流通させる術を知っている手練れ者の魅力である。
一方、女の子の身体は、本来プライベートなもので、作家が生み出すミームのような形では流通しないものだった。女の子のやわらかに笑う表情の魅力は、恥ずかしさに胸をドキドキさせながら、ちらちらと盗み見るものでしかなかった。女の子のキモチが一人のボーイフレンドに着地した後は、そのボーイフレンドとの間に身体のプライベートな延長が囲い込まれるしかなかった。ところが、写真というメディアの登場によって、本来流通することができなかったプライベートな身体の複製が流通し始めた。「今、ここ」でしか光り輝くことのなかった女の子の身体が、一つのイコンとして言語性を持ち始めた。
写真の誕生により、パークアヴェニューのスポーツカーの上で歯をむき出しにする猿の、流通するはずがなかった「今、ここで」が流通しはじめる。スタジオの中で照明に包まれた女の子の「今」が独立して動き始める。それはつまり、新たな生成の回路の誕生であり、新たな身体性の獲得である。それが、写真というメディアの持っているひょっとしたらまだ誰も完全にはその本質を理解している可能性である。
そんなことを、スポーツウェアに包まれたストレートヘアーの魅力的な女の子たちの写真を見て、満開の桜を見た時のようにうわーっと走り出したくなってから、現在までの時間の流れの中で考えた。
気がつくと、冬の寒さは次第に緩み、桜のつぼみがほころぶ時が近づいている。
春の一日、久家さんの写真を持って野に出かけ、満開の桜の木の下に座ってみよう。そして、久家さんの撮った女の子たちの写真の上に、桜の花びらを一つ落としてみよう。
そうしたら、とても切なくて、やりきれなくて、かけがえのない気分になるかもしれない。そうすることが、久家さんの仕事に対する、そして、写真の中の女の子たちに対する、私なりのトリビュートの仕方のような気がする。プライベートな身体の生成の瞬間がイコンとして流通するという新しい事態への、私なりのアンガージュマンであるような気がする。
写真を見てそんなことを考えたのは、初めてのことである。
(c)茂木健一郎 2003
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