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「風の旅人」 連載 

『都市という衝動』

茂木健一郎

第5回 東方の島の迷い

 

 初めて北京に行った。中国本土に行くこと自体が、初めてだった。

 出発する前に、なぜか自分でも判らないくらい、徐々に緊張が高まってきた。旅慣れているつもりなのに、どうしてそれほど心が緊張するのか。北京に4日間滞在している間、すっとそのことを考えていた。

 空港に出迎えに来た北京大学の学生に、中国に来るのは初めてか、と聞かれたから、あまり何も考えずに「シンガポールや台湾には行ったことがあるけど、中国に来るのは初めてだ」と答えた。そうしたら、即座に、「台湾は中国の一部です」と強い調子で言われた。私は、心の中で、思わずひゃあと言った。とりあえずは、「中国本土に来るのは初めてという意味だ」と釈明した。

 一衣帯水とは言いながら、日本人から見て隣国中国は様々な意味で異質である。そのことを、私は、異民族の元が中国を征服して「大都」を設営して以来の首都である北京の街を歩きながら、改めて実感せざるを得なかった。

 「禁じられた都市」、紫禁城は、明、清と五百年以上にわたって、皇帝たちの居住地であった。そのスケールの巨大さにはあきれかえるばかりであるが、内部を全て石畳で敷き詰めたその造形は、むしろヨーロッパの都市に近いようでもある。ひるがえって、日本の天皇の代々の居所と言えば、月明かりが見えるように、虫の声が聞こえるようにと、自然との境を余りきっちりとつくらないのが伝統的な設いだったように思う。紫禁城は、日本の都市の開放空間に比べれば、およそヨーロッパの城壁都市の方に似ている。どちらかと言えば、木の文化ではなく石の文化とさえ言えるように思える。

 天安門広場を歩きながら、紫禁城の中を歩きながら、私は今まさに中国の中枢にいるのだなあ、と思った。そして、私が今まで見て来た中国人たちは、台湾にしろ、シンガポールにしろ、あるいは日本、北米、ヨーロッパのチャイナタウンにしろ、周縁にいる中国人に過ぎなかったのだなあと思った。そして、これからの日本の運命のことを考えた。

 どんなにその都市のことを知っていたとしても、その都市の中に実際に入った時に受ける感覚というのは、大抵の場合予想できない。その予想の難しさは、例えて言えば、他者を外から客観的に眺めているだけでは、その他者が一人称の生の中でどのようなことを感じているのかということが計りがたいことと通じている。私が二十半ばにして初めてロンドンに行った時、漱石の短編や旅行ガイドを読んでいるのでは予想ができないような感覚が立ち上がったのも、すなわち、ロンドンが三人称から一人称へと変化したからである。ヒースロー空港からロンドンの都心に向かうバスがケンジングトンあたりで脇道にそれて、インド人がやたらと多い町並みに入った時、ああ、そうか、と思った。ロンドンは、つまり、植民地化された地域の人々にとっては、逆説的だけど、一種の晴れ舞台のようなものなんだなと思った。

 その都市の空間の中に包まれて、自らがその都市の広がりの中に中心化されて初めて腑に落ちることがある。北京を歩き、もはや資本主義国としか言いようのない何でもありの急速な経済発展の有様をつぶさに見て、天安門広場に集まっているおそらくは中国各地から来たのであろうお上りさんの、地面に転がったリンゴのような色つやの顔を眺めている時、私は、始めて中華思想というものを一人称で体感し得たように思う。

 もちろん、何日か北京に滞在しただけで、気分は中国人になってしまった、という意味ではない。中国人が中華思想を持つに至る、その身体的必然性のようなものが判ったような気がしたのである。そう判ってしまえば、毛沢東が、数百年にわたって皇帝が住んだ紫禁城への入り口となる天安門の上から、中華人民共和国の建国を宣言したのは、歴史的偶然というよりは計算された必然であるように思われた。台湾やシンガポール、各地のチャイナタウンといった、周縁に住む中国人だけを見ていたのではわからないセントラルな感じ。自分が今いる場所を、中国文化圏が何重にも厚く取り囲んでいる感覚。土地の広さでも、人口の多さでも、まさに「中華」としか言いようのない共同体が与える圧倒的な安定感。そのようなもののに包まれて、毛沢東は建国の宣言をしたのだなと私は了解したのである。

 ロンドンに行った漱石が、向こうから黄色い貧相な顔のやつが来るから誰かと思ったら、それはガラスに映った自分だった。漱石は、まさに真昼の時を迎えようとしていた大英帝国を初めとする西洋列強の圧迫の下で、これからいくら背伸びをしてもいつかは無理が来る日本の運命を悟ってしまった。帰国後の漱石が、洋行帰りのエリート意識をひけらかすどころか、ますます自己の中に沈潜していってしまったことは、感受性の鋭い文学者として必然の成り行きであった。

 今日、北京や上海の隆盛を見るものは、漱石とは違った意味で、21世紀における日本の運命の持つある種のやるせなさを悟らざるを得ない。

 考えて見れば、日本は、ほんの一瞬だけ、東洋の盟主でいるような気がしただけだった。中国から見れば、自国が経済的にも政治的にも混迷の底にあった時でさえ、日本は「東方にある島」に過ぎなかったのだろう。中華思想の是非を云々したいのではない。北京のような、東西南北に厚く中国文化の層に囲まれた都市から見れば、中国人がそのように考えることは、いわば必然であると思えただけである。

 北京という一都市に数日間滞在しただけで、それまで観念的に中国のことをいくら考えても判らなかったことが、実感として私の皮膚を通して、足を通して、耳や目を通して伝わって来たということである。だから、旅をすることは侮れない、もちろん、そのような「実感」が、人を迷わせることはあるだろう。しかし、都市の皮膚感覚によって迷う危険と、観念によって迷う危険のどちらを取るかと言えば、私はためらうことなく都市の迷いを取る。

 日本人は、唐、元、明といった世界帝国が中国に存在している時にも、その東方の島で息を潜めて暮らしてきた。日本の歴史を振り返れば、むしろそのような時代の方が圧倒的に長かったのではないか。私が北京に発つ前の数日間を、なんとも言えない緊張感の中に暮らしたのは、どうやら、太古から変わらない日本のそのような存在条件に、ついに真正面から向き合うことになるという予感のなせる業だったのかもしれない。

 日の出の勢いの北京を見た後では、東京の見え方が変わってくる。勢いではなく、むしろ優しいまどろみこそが価値ではないかとさえ思えてくる。乾燥した土地の、石造りの都市と比較した時の、しめった土地の緑多き街の良さが判ってくる。西からの乾いた風と、東からの湿った風に心を惑わされ、私の頭の中でのアジアの地図は、北京に行く前とはすっかり変わってしまったかもしれない。新しい地図の中では、10億の民が住む広大な中華の土地が中央を占め、その東方に、こじんまりとはしているが、細やかな味わいに満ちて息づく島々がある。

 その東の島々に、私は生まれ、これからも暮らしていく。近い将来私と私の同胞の置かれる条件が、圧倒的な中国文化の影響の下、唐の詩人を引用して、「香炉峰の雪は・・・」とやりあった中宮定子と清少納言の頃と本質的に同じであったとしても、それで何の不足があるだろう。中国の人が、中華の迷いの中に生きていくとすれば、私たちは東方の島の迷いに寄り添って生きていくのだ。