茂木健一郎personal pageに戻る

「風の旅人」 連載 

『都市という衝動』

茂木健一郎

第4回 都市への愛

 

 私は、ずっと、東京の街がそんなに好きではなかった。むろん、自分が青春期を過ごした街だから、それなりに好意は持っていたけれども、その好意が転じて愛になる、ということがなかった。

 一つには、東京の景観が、世界の他の都市にくらべて、あまり整備されたものではない、という印象があったかもしれない。様々なる意匠のビルが雑然と立ち並び、電線が空を這い回る光景は、ロンドンやパリ、ニューヨークといった、世界を代表する「偉大な都市」たちに比べて、お世辞にも美しいとは言えないと思っていた。東京なんて、そんなに愛してはいないけど、仕事や何やらの都合で、仕方がなくて東京に住んでいる、そんな意識がどこかにあったかもしれない。

 それが、一年程前、「ああ、私は東京を愛しているかもしれない」と思った瞬間があった。

 夜、お台場からレイボウブリッジを渡り、都心に向けてゆるやかに下る道を走行している時に、突然、「私はひょっとしたら、この街を愛しているのかもしれない」と思ったのである。青い鳥を探して遠くばかりを見ていたら、突然、青い鳥はすぐそばにいることに気がついたような気分だった。

 近年、レインボウブリッジや、六本木ヒルズ、汐留といった、「ネオ東京」とでも呼ぶべきエリアが出現し、そこだけをとれば、国際的に見ても遜色のない景観が現れている。だからといって、ちょうどレインボウブリッジを渡っていた私が、ネオ東京の景観に感じ入った、ということでは必ずしもない。むしろ、その時頭の中にあったのは、東京という都市の中に育まれた私の生活、その中での様々な人々とのつながりのことであった。私が大切に思っている人々とのつながりが目の前に広がる街の明かりの中に包まれてある、ということを思ったとき、私にとって、東京がこの上なく愛おしいもののように感じられたのである。

 東京に住んでいながら、東京のこと自体について考える機会はそれほどない。私たちは、自分たちが思っているほど、自分が住んでいる都市のことを客観的に見られないものである。それは、私たち人間が、とりわけ幼児期から思春期にかけて、自分の母親を客観的な存在として見ることができないことと似ている。

 人間は、一人として例外なく母親の胎内から生まれてくる。私たちにとって、生命を育んでくれる母親は、かけがえのない存在である。それでも、子供の時のことを思い出せば判るように、その大切な母親といろいろケンカをしたり、仲違いをするというようなことはある。そのようなことが起こるのも、完全な意味での母親は、私たちが胎内にいる時にしか存在しないからだと私は思っている。

 胎内にいる時、私たちは母の肉体と愛に包まれ、無明の中でやがてくる世界を予感している。月満ちて、ついに広大な現実世界と向き合う時がきた時、視野の中に現れるのは、確かに自分を産んでくれた人ではあるが、胎内で自分を包んでくれていた完全な母親とば別の存在である。自分が胎内にいる時の母親が、その人の愛と身体の健康に自分の生存がかかっているという意味では、完全なる(完全でなければならない)母親であるのに対して、自分と肉体的に切り離された母親は、宿命的に不完全な存在であらざるを得ない。その不完全さを、「しょうがないな」と受け入れ、母親もまた自分と同じ一個のかよわい人間であるということを悟ることを、人は成熟と言う。

 思春期の終わり頃に、私たちは目の前の母親が、不完全な(そして不完全なるがゆえに)愛すべき存在であるということを悟る。あの日、レインボウブリッジを渡って、都心の雑然としたビル群が目の中に入って来た時に私を襲った「私は東京を愛している」という直観は、不完全な存在としての母親の受容に近い感情だったのかもしれない。四十にして、私はやっと都市との関係における思春期の終わりを迎えたのだ。

 考えてみれば、東京という都市は、私の生活を育む母胎として、ずいぶん多くのことを与えてくれた。学生時代、安い割には花道が良く見える歌舞伎座の三階東側の席のチケットを買い、大向こうのまねをして役者に声をかけたり、音楽会の当日券売り場に並ぶ学生仲間と、音楽評論家はタダ券で入場してけしからん、と青い気炎を上げてみたり、隅田川のほとりで友人と缶ビールを飲んで寝転がり、カップルが私たちをぐるりと避けて歩いていくのを情けない気持ちで眺めたり、あのような経験は、東京にいなければおそらくできなかった。私の世界の見方、感じ方に、東京という都市は、どこからどこまでがそうである、というように切り分けられないくらいの深い影響を与えているのだろう。

 もし、同じ時期にウィーンに住んでいたらどうだったか、サンフランシスコだったらどうだったか、ということを想像することはできる。しかし、自分の母親が違う人だったらどうだったろうと想像することと同じように、そんなことを考えてみてもおそらく仕方がない。今の自分がいるのはまさに東京に住んでいたからであり、他の都市にいたら、全く違った自分になっていただろうというだけのことである。ニュルンベルクのようなドイツ中世の街に住んでみたらどうだろう、と学生時代にはあれこれ夢想してみたこともあった。数年前に実際に見たニュルンベルクは、まるで書き割りのようで、自分の肉体の中に染みこんではこなかった。第二次大戦で徹底的に破壊され、再建されたというニュルンベルクの歴史のせいばかりとは思えない。ニュルンベルクでビールを飲み、ソーセージを食べれば、楽しい。楽しいことは楽しいが、浅草駅から駒形どじょうへと歩く時間の流れ、新宿の末広亭を出て居酒屋を探す時間の流れのしみじみとした味わいとは比べるべくもない。

 そもそも、ある対象が美しいかどうかということを、その対象への親しみ、愛情と独立して議論するのは何か肝心なことを外してしまっているのかもしれない。確かにパリやニューヨークの景観は美しいが、それを愛するというところまでに行くには、その中で歩き、酔っぱらい、愛し、憎み、失望する、といった確かな生の手応えの積み重ねがなければ無理な話だ。

 そう考えると、東京の街が、ひょっとしたら美しいのかもしれない、と最初に思ったのが、小津安二郎の最後の作品「秋刀魚の味」で、笠智衆が行くバーの看板を見た時だったというのは案外まっとうだったのかもしれない。「秋刀魚の味」の画面の美しさは、小津自身が盛んに通ったであろう居酒屋、料理屋への愛から生まれたのであり、その愛に私は共感したのだ、と今では思える。「秋刀魚の味」を最初に見たあの頃、学生仲間と歩く盛り場の景色が今までとは違って見えた。電柱が立ち並び、看板があふれる東京の景観が「美しい」と感じる心の動きがあの時はじめて自分の中で生まれてきたように思う。

 小津は有名な母親思いだった。自分の母親が、国際的な水準からして美しいかどうかなどというバカなことを考える人はいない。母親がどんなにしわくちゃなお婆さんでも、愛があればその人が美しく思われる。東京の景観が、国際的に見てどうか、というような議論がどこかうさんくさく思われるのは、そのような立論が人間の心の本性にそぐわないからだろう。もちろん、母親は美しいに越したことはない。しかし、全ては母への愛があってこそなのである。