私は、1997年の「脳とクオリア」(日経サイエンス社)以来、1999年の「心が脳を感じる時」(講談社)、2001年の「心を生みだす脳のシステム」(NHK出版)と、ほぼ2年に一度、心と脳の関係についての本を書いて参りました。この度、ちくま新書より、「意識とはなにか ーー<私>を生成する脳」を出版させていただくことになりました。
近年、脳科学は急速な発達をとげ、私たちの意識が、脳の一千億の神経細胞の活動によって生み出されていることは疑いようのない事実となっています。一方で、私たちの意識そのもの、意識の中で感じられるさまざまな質感(クオリア)がどのように生み出されているのか、私たちは依然としてその第一原理を知りません。私たちは、意識の起原に関する限り、未だ「錬心術」の時代にいるということができます。
脳と心の関係を解明するためには、現象としての脳科学をいったんは離れて、根源的な視点から、<あるもの>が<あるもの>であること、<私>が<私>であることの起原を問いなおす必要がありあます。本書は、このような問題意識から私たち人間の心をめぐる基本的な問題をとことん考えることを企図して構想されました。クオリアが支える同一性の認識、機能主義との関係など、ハードな問題を扱うと同時に、<私>が人間関係をとおしていかにダイナミックに変容し、その過程でさまざまなものが創造されるかという、わかりやすくソフトな問題も記述しています。巻末には、より深く知りたい人のためのブックガイドを付し、従来の知的成果との接合をはかっています。
脳と心の関係に関心のある方はもちろん、<私>という存在はいったいどのようにして生み出されてくるのか、創造的であるためにはどうすればいいのか、私の心の中で、「あるものがあるものであること」の不思議さの裏にあるものは何かなど、本書で論述された問題に関心のある多くの読者を得ることを、著者として心から願っております。
本書では、以上のような視点から、私たちの意識の中で、<あるもの>が<あるもの>であることの不思議について、徹底的に考えた。
もちろん、答がすぐに見つかるわけではない。一方で、今までにすでに多くの人がたどったような、脳科学の知見に素朴に依拠した思考を積み重ねても、問題の本質が明らかになるとも思えない。本書における議論が、脳科学でもない、認知科学でもない、哲学でもない奇妙な中間領域の性質を帯びたのも、錬心術の現状を超える、新たな方法論の模索の中で避けることのできないことだったと思っている。
マルコ・ポーロによる「黄金郷ジパング」の紹介(東方見聞録)のように、旅行ガイドというものは、その地にまだ到達していない時に書かれた探索的なものが案外面白いものなのかもしれない。本書が、物質である脳と私たちの意識の間の関係を明らかにするという、人類未踏の知的探求の旅に関心を持つ人々のための一つの旅行ガイドとなれば幸いである。
(「まえがき」より)
子どもの頃、「ただいま」という言葉の響きが不思議でしょうがなかったことはないだろうか?
私はある。あれは5歳くらいの時だったか、遊びから帰って来たときに、玄関で「ただいま」と言った。
その「ただいま」の響きが不思議で、おや? と思った。今私の口から出た言葉は、一体何なのだろうと思った。
家に帰ってきたときには「ただいま」というものだということを学んだのはいつくらいのことであったか、とにかく、5歳の時には、玄関でくつを脱いだ時に「ただいま」ということが、習慣になっていた。言葉の意味がどうのこうのとか、そのようなムズカシイことを考えたことがあったとは思えない。とにかく、子どもの私は、「ただいま」という言葉を発することによって、両親や祖父母に、自分が帰ってきたことを伝え、私も家の中に誰かがいることを確認し、そのようなプロセスを通して安心と暖かさを得る、ということを了解していたように思う。
もちろん、当時、自分の状況をこのような理屈で説明できたわけではない。だからと言って、「ただいま」という言葉が私の心において、あるいは私の家という「社会」において果たしている役割が理解できなかったわけでもない。実際、「ただいま」という言葉を発した時の心の感覚は、40歳になった今と、5歳のあの頃で変わっていないように思う。
(第2章「<あるもの>が<あるもの>であること」より)
同じ問題を、「やさしく」扱うこともできるし、「むずかしく」探究することもできるという人間の認知の驚くべき潜在力の核心には、私たち人間が普遍的に持つが、その重要性に普段はあまり気がついていないある能力がある。それはすなわち、「ふり」をする能力である。<あるもの>が<あるもの>であること(同一性)のむずかしい問題が、あたかも「やさしい」問題であるかのように日常生活を送ることができるという事実は、人間の「ふり」をする能力と密接に関係していると考えられるのである。
(第5章「「ふり」をする能力」より)
これまで繰り返し述べてきたように、私たちの認知の上で、「やさしい問題」と「むずかしい問題」は、実は表裏一体となっている。むずかしい問題であるはずのクオリアや<私>が<私>であることの問題も、日常生活の中ではやさしい問題として扱えること、扱わなければうまく生きてはいけないことを私たちは知っている。逆に、アルゴリズムで書けるような一見やさしい問題も、その基盤を突き詰めていけば、「むずかしい問題」に突き当たってしまう。機能主義で解決できるように見える問題も、その根本的な成り立ちにさかのぼれば、たちまち「むずかしい問題」に突き当たってしまうのである。
(第8章 「意識はどのように生まれるか」より )
私の目の前にある机、私が座っている椅子の感触、見上げる空の青、そよぐ木々の緑、そこはかとない期待、美しい思い出、こみ上げてくる悲しみ。
これら全てのものは、私たちの脳の神経細胞の活動によって、まさにこの心理的瞬間に、生み出されている。私たち人間が意識の中で認識する世界は、すべて、その瞬間瞬間に生み出されている。
いわゆる「創造的」なことだけが生成にかかわるのではない。文章を書いたり、絵を描いたり、音楽を演奏することだけが、生成にかかわるのではない。
私たちが生きている限り、どんなに退屈している時でも、どんなに行き詰まっている時でも、どんなに同じことをくりかえしているように見える時でも、私たちは、脳の神経細胞の活動によって支えられた生成として、世界を把握し、自分を把握し、この世界に存在している。
私たちは、生成としての個を生きているのである。
(第9章 「生成としての個を生きる」より)