ヨミウリ・ウィークリー 2004年11月7日号
脳の中の人生 第26回 脳科学から憲法問題を見ると
イギリスに留学していた時に一番驚いたのは、かの国における「ルール」の在り方である。
ケンブリッジ大学にいた二年間、書いた書類は図書館の入館証の申請書類だけだった。一体私はどんな身分で大学にいるのか、私の給料はどこから出て研究費はどのように使うのか、きわめて緩やかなルールしかなかった。日本の大学ならば、身分は何で、お金の出入りはどうなっているのか、事細かにルールで決められる。しかし、ケンブリッジでは、そのような明文化されたルールは存在しないか、意識しなくても良いようになっていた。
明示的なルールの代わりに何があったかと言えば、担当者の「判断」である。「判断」と「裁判官」を表す英単語が同じ「ジャッジ」であることからもわかるように、イギリスでは人間の判断能力をルールと同じように信頼し、大切にする。
周知のように、イギリスは非成文憲法の国である。昭和天皇も読まれたと言われるバジョットの名著「イギリス憲政論」を読むと、議院内閣や首相といった根本的な国家の成り立ちが、明文化されたルールではなく、その時々の為政者の判断の積み重ねによって作り出されてきたことがわかる。そもそも、イギリスでは「憲法」は慣習を含めた国の成り立ちを指すのであって、日本のように条文を指すのではないのである。
人間の判断はルールでは書けないということは、実は人工知能の研究者が長年の努力の結果学んだ苦い結論である。ルールでしか動けないコンピュータが判断力で人間に追いつけない理由はここにある。
人間が判断を下す時、脳の中では感情のシステムがフル回転する。判断の材料となる情報が完全に得られることはむしろ少ない。不確実な状況の中で、大脳辺縁系から前頭葉にかけての神経細胞のネットワークがある判断を選択する。判断を下す脳の仕組みはの詳細はまだ解明されていないが、一つだけ確実なことは、そのプロセスをルールで書くことはできないということだ。
あまりにも厳格にルールに従おうとする時、人間は出来損ないの人工知能のようになってしまう。車は左側を、人は右側を歩く。そのような、どちらに決めてもいいようなことは、ルールで決めておけば良い。しかし、人生や、国家の将来を左右する大切なことに関する判断は、あらかじめルールで縛っておくことなどできない。これが、イギリス人が代々受け継いできた叡智である。
ひるがえって日本はどうか? 私たちは、法律というものを、人間の判断を助けるガイドというよりは、厳格に守るべきルールとして考え過ぎていないか? もちろん、為政者が勝手なことをやらないようにある程度の縛りは必要である。イギリスでも、「マグナ・カルタ」は、国王の権限を制限するために制定された。しかし、権力者の横暴を警戒する余り、もっとも大切な判断の能力まで疑い、縛ってしまっては、人間の脳の持つ潜在能力を殺してしまうことになる。
条文はよい国にするための方便であり、金科玉条ではない。
理想を描いたとしても、それが人間の本性に反するものである時、不自由な社会ができる。この歴然たる事実を、現代の脳科学は再確認するのである。