講談社 「本」2003年6月号 p.32-34

コンピュータをバカにしてはいけない。 茂木健一郎

 先日、作家の保坂和志さんと話していた時、ちょうどテレビで報道されたばかりのチンパンジーの研究の話題になった。
 保坂さんが「なぜ、人間のようなことばかりやらせようとするのでしょう。ジャングルの生活圏の中では、ある意味では人間よりよほどアタマがいいのに。私の尊敬する研究者は、アマゾンのジャングルに入ってずっと猿を研究しているので、食べ方が猿のようになってしまったんです。人間の方が猿に近づいてしまったんですよね。」と言って、その研究者が何時もやっているらしい、猿がくちゃくちゃ葉っぱを食べるまねをしてみせた。
 私は、「研究する側にも妙なヒエラルキーがあって、ネズミをやっている人より、猿をやっている人の方が偉い。人間に近いものを研究している方が偉いんですよね。」と答えた。
 保坂さんは、すかさず「でも、細菌くらい遠くなると、逆にその方が偉くなるんですよね。」と言った。
 私は、ハハハと笑ったが、あれからしばらく経った今でも、ずいぶん面白い会話をしたという気分が残っている。
 人間は、人間からよほど遠いものはそれなりの尊敬を持って接するけれども、人間に中途半端に近いと、ああ、こいつらのことは判った、と思ってバカにするところがある。科学の研究の対象でも、「ブラックホール」くらいになるとあまりにも類推が利かないのでそれなりの尊敬をもって接するけれども、チンパンジーのように人間に中途半端に近いと、ちょっと保護者的な態度で油断して接することがある。その油断から研究テーマが生まれたり、重要な潜在的テーマを見逃したりする。
 何よりもマズイのは、チンパンジーを、人間という「完成形」への発展途上として見るということである。保坂さんが言われるように、チンパンジーにはチンパンジーなりの知恵のあり方というものがあり、チンパンジーの知性を研究するならば、その知恵のあり方に即して研究するべきなのに、どうしても人間中心主義的な世界観に立って、人間への発展途上の存在としてのチンパンジーを研究してしまう。
 私たち人間のコンピュータに対する態度にも、似たようなところがある。もともと、コンピュータは人間の計算の能力を補うための機械として考案された。二十世紀の中頃になって、イギリスのチューリングという天才数学者が、今日私たちの生活のあらゆる場所にあふれているコンピュータの原型となる理論をつくった。今日のコンピュータは、すべてチューリングのモデルに基づいているとも言える。
 コンピュータは、そもそもその誕生の時から、人間の思考能力の一部をまねする存在として構想されていたわけである。その時点で、コンピュータは、人間への発展途上の機械として評価される運命の下に置かれた。実際、私たちは、コンピュータに対して、「おまえたちは人間への発展途上の機械なんだ」という態度で接することが多いように思う。
 確かに、人間の脳とコンピュータを比べれば、まだまだ明らかに人間の脳の方がすぐれているように思われる点も多い。なぜすぐれているのかということを、私と田谷文彦さんの二人で考えた結果が、『脳とコンピュータはどう違うか?』というブルーバックスの一冊である。
 脳がコンピュータに比べて優れている点を一つだけあげろと言われれば、それは新しいものを生み出す「生成」の能力であるということになるかもしれない。生成というと、いつも引き合いに出されるのはモーツアルトだが、モーツアルトまで行かなくても、そもそも私たちが日常生活の中で言葉を話すこと自体が驚くべき生成の能力である。人間と区別できないくらいの会話をする能力を持ったら、そのコンピュータは人間と同じ思考能力を持つと認めようと提案したのはチューリングであるが、「チューリングテスト」と呼ばれるこの試験に合格するコンピュータは、未だ実現していない。心ある研究者は、みな、今のままでは永久に実現しないのではないかと思っている。それくらい、何気ない日常会話に現れている脳の「生成」の能力は驚くべきものなのであって、脳の研究者は、その本質を理解しようと苦闘しているというのが実態である。
 脳といえば、私たちの意識が生み出す臓器であるということを忘れるわけにいかない。考えてみれば意識も脳の持つ強烈な生成作用の一端である。朝目覚めて、脳の一千億の神経細胞が活動すると、突然、そこに「私の意識」という、それまで存在していなかった何者かが現れる。その意識の中には、薔薇の赤や、水の冷たさ、ピアノの音、ドリアンの香り、夕暮れの寂しさ、そこはかとない希望、胃が痛くなるような不安、飛び上がるような喜びといった、様々な質感(クオリア)があふれている。今私たち身の回りにあるコンピュータがいろいろな計算をしている時、そこに意識のようなものが現れているかどうか、クオリアが生まれているかといえば、おそらく生まれていないだろうと考えるのが現時点ではもっともらしい。その理由を知りたい方も、『脳とコンピュータはどう違うか?』をぜひ読んでいただきたいと思う。
 もちろん、上のような議論は、ある意味では、脳を一つの理想として、今あるコンピュータはその理想に比べてここが欠けているじゃないか、というタイプのお話にすぎない。私たちの頭の中で、「コンピュータとはこのようなものである」と整理した理論モデルには、確かに意識のようなものが宿りそうもないが、目の前にある物質からできたコンピュータという存在自体、哲学者のカント風に言えば「コンピュータ自体」(computer an sich)が一体何者なのか、私たちは一向に知らない。そのコンピュータ自体に、人間とは異なるコンピュータ固有の意識が宿っている可能性は否定できない。
 気をつけなければならないのは、すべてのものに意識は宿るというタイプの議論をする時にも、私たちは知らず知らずのうちに人間中心主義的な立場をとってしまうということである。たとえば、水に「かわいいね」とか「愛しているよ」と話しかけながら結晶化させると、キレイな結晶ができた、モーツアルトの音楽を聴かせると美しい結晶になったという類の話が、典型的な人間中心主義的誤りである。「かわいいね」という言葉や、モーツアルトの音楽が意味を持つのは、あくまでも私たち人間の脳という文脈においてである。目の前の水が何を考えているか(そもそも考えているとするならばだが)は、それこそ全く類推も見当もつかない話である。「水自体」(water an sich)は、絶対的な他者である。そのような他者性を無視して水に自らの感性を押しつけることは、一種のファシズム的志向であることを見ることはやさしいだろう。
 グローバル化する地球社会における私たちの課題の一つが、いかに文化的背景も言葉も外見も違う相手の「他者性」を尊重するかということであるということは、社会学の本を読まなくても毎日テレビのニュースを見ているだけでわかる。チンパンジーやコンピュータ、水といった「他者」の固有の世界を想像し、尊重することは、実は人間どうしでお互いの固有性を尊重する態度にもつながっている。『コンピュータは脳とどう違うか』という問題を考えることは、このような倫理問題にも絡んでくるから面白い。しんどいけれども、いかに他者性を認めつつ、コミュニケーションを図るかということが大切で、コンピュータと脳の関係を考えることは、一つのコミュニケーションの形態でもある。
 脳について、コンピュータについて真剣に考える過程で立ち上がってくるのは、絶対的他者としてのコンピュータである。
 コンピュータをバカにしてはいけないのである。